第3話 パラレル3 無貌(むぼう)
# 無貌(むぼう)
私は鏡の前に立っていた。今日も、自分の顔を確かめるように。
「もう、これで最後ですから」
そう呟いて、私——紗夜(さよ)は笑った。目尻は自然に切り上がり、鼻筋は高く、唇は厚みを残しつつも上品に整えられている。完璧な顔だった。
でも、それはもう私ではなかった。
***
私は指名手配犯だ。婚約者を手にかけ、逃亡生活を続ける中で、整形に次ぐ整形を重ねてきた。罪から逃れるために、顔を捨てた。
あの日、彼が私の過去を知って、「気持ち悪い」と言った時、私の中で何かが壊れた。彼は私の新しい顔を愛していたのに、本当の私を知った途端、嫌悪の表情を浮かべた。
「君は偽物だ」
その言葉が引き金だった。気づいた時には、彼は床に倒れ、私の手には血が付いていた。
それから私は逃げ続けた。美人に、地味に、年上に、年下に。顔を変え続けた。それでも、誰かが私を知っているような目で見るたび、また別の"顔"を求めて地下クリニックへ通った。
***
ある日、東京の地下鉄構内で不思議なチラシを見つけた。
「究極の匿名性。完全匿名美容。初回無料。」
その言葉に惹かれたのは、もはや衝動だった。チラシに記載された住所は、都内の裏路地にある古いビルの一室だった。
インターホンを押すと、無機質な女性の声が応えた。
「お待ちしておりました」
扉が開き、私は中へ入った。
***
治療室は、無菌室のような白い空間だった。黒衣の医師が小さく告げた。
「目鼻口は、"個人"を暴く情報です。あなたを苦しめていたのは顔です。——ならば、それをすべて消してしまいましょう」
私は躊躇なく頷いた。もう疲れていた。顔を変え続けることに。誰かに見つかることへの恐怖に。
医師は特殊な注射器を取り出した。
「これは特殊な溶剤です。顔の特徴を曖昧にし、認識されにくくします。完全な匿名性を手に入れられるでしょう」
針が肌に刺さる感覚。冷たい液体が顔中に広がっていく。
目が霞んだ。
鼻が、感覚を失っていく。
唇が、自分のものじゃないように震え——そして、静かに消えた。
***
次に目覚めたとき、私はどこかの街角に立っていた。まるで目覚めた場所が現実のように滑らかで、ぬるく、音がなかった。
私は人の気配を感じるたびに、身をすくめた。だが誰も、私に気づかない。店員も、通行人も、私の存在をすり抜ける。
やがて私は気づいた。誰も私の顔を認識できないのだ。
目も、鼻も、口も——何もない、白く滑らかな面。ただそこに「顔がない」というだけで、人はその存在を認識できず、視線を滑らせてしまう。
安心?いや、違った。言葉が出せない。味も匂いもない。感情すら鏡で表現できない。
「ここは、逃げ切った者の墓場なのだ」
そう思った瞬間、私の意識は暗闇に沈んだ。
***
どれくらいの時間が経ったのだろう。
私は再び目覚めた。今度は地下鉄の駅のホームだった。人々が行き交い、電車が到着する音が聞こえる。でも、誰も私を見ない。
ふと、駅の柱に取り付けられた鏡に自分の姿を見つけた。そこには確かに私の体はあるのに、顔の部分だけが霞んでいる。まるで焦点が合わないカメラで撮ったような、ぼやけた輪郭。
恐ろしくなって、私は駅を飛び出した。
街を歩いていると、ふと気づいた。私と同じように、顔がぼやけた人影が時々見える。彼らも私を見ている。私たちだけが、お互いを認識できるのだ。
***
数日後、私は再びあのクリニックを訪れた。扉は開いていたが、中は空っぽだった。まるで最初から何もなかったかのように。
絶望した私は、街をさまよった。
ある夜、ガラスに映る自分を見つめていると、不思議なことに気づいた。少しずつ、顔のぼやけた部分が輪郭を取り戻しつつあるのだ。
それから毎晩、私は鏡の前で自分の顔を思い出そうとした。本当の私の顔を。整形する前の、誰にも偽らなかった頃の顔を。
一週間後、私の顔には目が戻ってきた。
二週間後、鼻の形が見えるようになった。
一ヶ月後、唇の輪郭が現れた。
そして気づいた。人々が少しずつ、私を見るようになっていることに。
***
ある日、私は公園のベンチに座っていた。隣に老婆が腰を下ろした。
「あなた、迷子かい?」
老婆は私に話しかけた。私を見ている。認識している。
「私の顔...見えますか?」
老婆は穏やかに微笑んだ。
「もちろん見えるよ。少し変わった顔だけど、とても美しい」
私は涙が溢れるのを感じた。久しぶりの感情だった。
「でも、私は罪を犯した人間です」
老婆は静かに言った。
「過去は変えられないけど、未来は変えられる。あなたの顔が戻ってきたのは、あなた自身が自分を許し始めたからじゃないかね」
***
その日から、私は少しずつ社会に溶け込み始めた。顔は完全には元に戻らなかった。どこか曖昧で、記憶に残りにくい顔。でも、それは私の顔だった。
時々、街で私と同じような「曖昧な顔」の人を見かける。お互いに目が合うと、小さく頷き合う。私たちは同じ経験をした者同士だ。
罪を償うため、私は匿名で慈善活動を始めた。顔のない者たちを助けるために。
そして今、私は再び鏡の前に立っている。
「もう、これで最後ですから」
今度は整形のことではない。逃げることをやめると決めたのだ。
鏡に映る顔は、完全ではない。でも、それは確かに私の顔だ。
無貌の呪いから解放された私の、新しい人生の始まり。
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