第3章〜揺れる心、揺らぐ未来〜
3-1 彼が来た日
九月一九日——朝、教室。
「最近地震多くない?」
「ねー昨日も夜揺れたし、なんか怖いよね」
「まぁ大丈夫っしょ。っていうか、今日また転校生くるらしいよ!」
朝の教室で、女子たちがそんな話をしている。
来る震災。プレートのズレの影響がじわりと現れ始めているが、その先に何が起こるかを知っているのは、この教室で、イオリだけだった。
「なぁ、一之瀬。昨日の地震、大丈夫だったか?」
ユウヤが荷物を整理しながら、軽く声をかけてくる。
「問題ない。対処できるよう準備している」
と、イオリは簡潔に返す。
「さすが。一之瀬なら災害でも生き残れそうだな」
ユウヤが笑う。ふと思い出したように目を見開き、イオリの肩に手を置く。
「そういやさ、今日また転校生来るらしいな。女の子だったらいいのにな〜」
「…高橋。三好が見てるぞ」
イオリの視線が、無言でカレンの方へと向く。ユウヤは焦った様子で何かを弁明しに駆けていき、美月とヒナがそれを見て笑い合った。
そんな和やかな朝——彼が来た。
「はい、みんな注目ー」
辰巳先生が手を叩き、教室のざわめきを一旦静める。
「今日も転校生がこのクラスに来ることになりました。卒業まであと少しだけど、みんな仲良くするように。じゃあ、入って来て」
ガラリと扉が開く。
スラリと背が高く、涼しげな黒髪と穏やかな眼差しをたたえた男子が教卓の前に立つ。
教室に、ひそやかな熱が走った。
「初めまして。東雲春樹(しののめ はるき)です。中学1年までこの辺に住んでました。よろしくお願いします」
その丁寧で落ち着いた声に、女子たちがざわつく。
「えっ、またイケメンじゃん……」
「かっこいい!なんか静かにモテそう」
そんな声が広がるなか、美月がぽかんとした表情で立ち上がった。
「えっ……? ハルキ君?」
春樹が笑顔を浮かべ、美月に目を向けた。
「おう、久しぶりだな。美月。元気そうじゃん」
「あ、うん……! 本当にびっくり……!」
胸元に手を当てて、少し顔を紅潮させる美月の声には、驚きと、どこか懐かしさが混じっていた。
「美月ちゃん、知り合い?」
ヒナが目を丸くして尋ねる。
「うん、幼馴染。昔、近所に住んでたの。ずっと前だけど、同じ保育園だったんだ」
その声に、温かい記憶の気配がにじむ。
──その一瞬。
イオリは、自分でも気づかないうちに、美月の横顔をじっと見つめていた。
笑っている。でも、それは今まで自分に向けられたものとは違う。時間を超えた、記憶と情の結びつきが、そこにはあった。
「一之瀬、お前、美月しっかり見とかなきゃな?」
「……もしかして、ライバル登場ってやつ?」
カレンとユウヤの茶化しに、イオリは首を振る。
「俺と白波さんは、そういう関係じゃない」
そう言葉にしながらも、否定しきれない感情が、胸の奥で静かにざわめいた。
放課後。
校舎の影が長く伸び、空は夕焼けに染まり始めていた。
昇降口の外、美月と春樹が並んで話している。少し離れた場所から、その様子をイオリはただ、黙って靴を履きながら見ていた。
「覚えてる? あの駄菓子屋、よく二人で10円のグミとか買ってたじゃん」
「覚えてるに決まってるよ! ハルキ君、いつも一つ余分にくれてたじゃん」
自然で、なめらかな会話。
懐かしさの上に築かれた安心感。
何年も会っていなかったはずなのに、まるで昨日の続きを話しているようだった。
イオリは、その場に踏み込むことができなかった。
一歩足を出すごとに、重力のようなものが身体を引き戻す。
(彼女は、かつてこの男と共に過ごしていた)
(本来の未来では、もしかしたら——)
その思考は、AIの報告書でも見た「統計的未来予測」が頭をよぎらせる。
未来において、美月が誰と人生を歩むはずだったか。イオリはあくまで“例外的な存在”なのだ。
この世界に来た時点で、もう未来は揺らいでいた。
だが——
(もしも、俺が彼女の未来を歪めているのだとしたら……)
左手のデバイスが、淡く脈打つ。
【感情干渉レベル:警戒域】という表示が、一瞬だけ浮かんでは消えた。
(……これは任務なのに)
そう言い聞かせても、美月の無邪気な笑顔が胸の奥に深く突き刺さる。
「イオリ君?」
美月の声が、意識を引き戻した。
いつの間にか、彼女が目の前にいた。春樹は少し後ろで、スマホをいじっている。
「……一緒に帰ろ?ハルキ君は、昔とは別の場所に住んでて、家は反対方向なんだって」
その問いに、一瞬だけ迷いが生まれる。
だがイオリは小さくうなずいた。
「……いいよ」
美月は、春樹に手を振って歩きだした。
帰り道。
二人きりになると、さっきまでの楽しそうな雰囲気とはまた違う静けさが流れる。
「ハルキ君、懐かしかったなぁ……」
美月がふと、ぽつりと呟く。
「でも……なんか、不思議な感じがした」
「何が?」
イオリが問い返す。
「うーん……再会したのに、昔ほど胸がときめかなかった、っていうか……彼の事、好きだったんだと思う」
小さく笑って、美月は空を見上げた。
「でもなんかもう、“思い出の中の彼”になっちゃったのかも」
その言葉に、イオリは目を伏せる。
たとえそれが真実だったとしても、未来がそのように決まっていたとしても——
彼の中には、もう一つの感情が確かに生まれてしまっていた。
(本来の歴史とか、任務とか、未来とか……)
(もし、それらが全て“彼女を傷つけるためのもの”なら——)
イオリは、無意識に拳を握っていた。
「俺は、彼女の笑顔を守りたい」
声に出すには至らなかった。
だが、彼の視線は確かに、美月の横顔に注がれていた。
その夜、眠りにつく直前。
デバイスが、再び異常な反応を示す。
【因果干渉反応:微弱発生】
【観察者の存在安定度:0.98→0.96】
——イオリはその数字を見つめたまま、しばらく目を閉じることができなかった。
それは存在の安定性。つまり、彼の存在が揺らいでいる証だった。
【報告書】
任務日:2025年9月19日
記録者:一之瀬イオリ
対象:白波美月(17歳/高校生)
任務コード:T-2025-Operation-α
【観察メモ】
・転入生:東雲春樹の出現。対象と過去の強い関係性あり。
・対象の情動安定状態に一時変化。笑顔の回数・発話速度増加。
・対象と春樹の会話には旧知の親密性が認められる。
【主観的所感】
・対象の笑顔に対し、明確な情動干渉を自覚。
・春樹が“本来の運命”における交際相手であった可能性を検知。
・自己の存在と未来の整合性に対し、揺らぎを感じ始めている。
【補足事項】
・本日深夜、デバイスが「因果干渉反応」を検出(数値0.96)。
・これは初の事例であり、存在安定度の揺らぎとして記録された。
・今後、さらなる因果律の自動修正現象が発生する可能性あり。観察強化が必要。
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