鏡の標本

つつみやきミカ

 

 それを見ると、自分の姿がそっくり見えるらしい。

 それを見ると、自分の辛い過去が見えるらしい。

 それを見ると、自分の本当の未来が見えるらしい。

 世界で絶賛された『鏡の標本』、ついに大都会で展示!


「世界中で有名作品になった『鏡の標本』。いよいよ明日から大都会美術館で展示が始まります。本日は特別に、制作された芸術家のイトウさんにお話を聞きたいと思います。自身最大級の展示となりますが、お気持ちいかがですか?」

「はい、こうして標本がたくさんの方に見ていただけるのは、とても光栄なことです。しかし、自分は実際、代表的な作品はこれしかないので、芸術家と言われるのは、正直仰々しいと思ってしまいますが」

「これだけ人の心を奪う作品を制作できるのは、素晴らしい感性あってのことだと思います。どうでしょうか、この作品を制作された背景や、ご苦労されたことなど?」

「そうですね、やはり当時の親友の影響が大きいですね」

「ご親友。芸術家かなにか?」

「いえ、普通の、魚が好きな子でしたよ。そうですね、不思議な話、『鏡の標本』を見ると、どなたもご自身が見えると言いますね。しかし私はそうではないんですよ。私にはその親友が見えるんです」

「なるほど。ご友人をモデルに制作されたとか?」

「ああ、まあ、そうとも言えるかもしれません。私にとってこれは、親友の再現。ほとんど、親友そのものといえる存在なのです」


 ***


 まりかは、大学の時に知り合った友人だった。同じような田舎から、ちょっとマシな田舎の大学に進学した、似た境遇の友人。学部が一緒で、授業で隣の席になってから、なんとなく毎日を一緒に過ごした。

恋愛は私たちには縁がなかったけど、人並みに勉強をして、遊んで、なんともよくある大学生活だったと思う。ただ何か特徴があるとしたら、まりかが魚を好きだったこと。それだけは印象に残っている。大学の近くには水族館があって、私たちはそこによく通っていた。そう大きな水族館ではないが、空調もきいていて落ち着いた雰囲気で、年間パスポートでも購入すればずっと滞在できたので、たいしてお金のない大学生には悪くない場所だった。大水槽があるフロアの端の椅子に座って、二人でよく話をしていた。けれどまりかの関心は、話している最中でも水槽のほうにあったように思う。私もまりかに倣って水槽を眺めていたが、何度通えど私は魚の種類すらまともに覚えなかった。

まりかは青いライトが目に痛い、暗い水槽を好んだ。暗くて、反射した自分たちの姿がよく映った。写真を撮ろうと水槽にカメラを向けても、わたしとまりかの影しか映らなかった。そこには椅子が無かったから、まりかは私を気遣っていつも先を急いだ。

大学を卒業してから、私はそのまま田舎に残ったが、まりかは大都会に移った。物理的な距離があるので、会うのも億劫になり、そのうち話す機会もなくなった。社会人になって何年目かになったころ、突然まりかから大都会に遊びに来なよ、と連絡があった。私は案外迷うこともなく返信をし、飛行機に乗った。

 大都会の空港に着いたのは夜だったから、ずいぶんと暗かった。道もわからないのでタクシーを拾って、まりかが指定した最寄り駅に向かう。駅に着いて、辺りの暗さに驚いた。タクシーはどこを照らしているかもわからないハイビームを追って闇に消えていった。雨が降っていたのだろうか、地面が濡れて、ただでさえ星のない夜空を反射してどこもかしこもまっくらだった。かすかにうごめく人影が見える。ひどく気味が悪いと感じたのは、大都会慣れしていないせいなのだろうか。

「ひさしぶり」

 ビニール傘が目の前に現れる。まりかだった。

「ひさしぶり。びっくりした。都会ってこんなに暗いの?」

「え? そうかな」

 顔を上げたまりかはちっとも変わっていなかった。この奇妙な土地で、見慣れた顔が目の前にあることがどんなに安心することか。

「何も見えなくて、怖いよ」

「きっと明るいところにいたから、暗いところに目が慣れていないんだね。大丈夫。すぐに慣れるよ」

 まりかは暗い道を先導した。まりかの姿だけを見失わないように、必死についていく。まりかの家に到着して、部屋の電気を点けて姿が煌々と照らされるまでずっと冷や汗が止まらなかった。だから都会は嫌なんだと思った。

 朝になったら、街はすっかり明るくなっていた。普通の住宅街みたいで、それはそれで都会じゃないみたいだった。

「おはよう。今日、何するか決めてないね。何かしたいことある? 行きたいところとか」

「ううん、特にないかな」

「そっか。じゃあ、水族館に行こう」

 外に出て、生ぬるい風に吹かれる。昨日、ここを歩いてきたとはとても思えない。普通のコンクリートの道だ。まりかに連れられて、乗り慣れない電車に乗り、オープンして数年しか経っていないという水族館に向かった。まりかと通い詰めた水族館の倍、そのまた倍くらいの入場料金で、価格設定の違いに驚いた。

 入ってすぐ、どろどろとした光を浴びた水槽と、私を照らすレーザービームのようなライトに、まばたきが止まらなかった。私が思い描いていた大都会はまさにこんな感じだったけれど。

「なんか、すごいね」

「そうでしょ。すごいでしょ。全然違うよね」

 おそらく、展示されている魚も違うのだろう。私にはわからないけど。まりかは、大学生だった時と同じような目で水槽を見つめる。反射して金色や青色に見える目。魚を見上げるまりかは、いつも水の底にいるみたいだった。

 一通り回って、建物から出る。外はもう日が傾いていた。これからまた、あの暗い夜が来るのだろうか。夕日を金色の目で眺めて、まりかは「悪趣味だよね」と言った。それが何を指すのか、なんとなくわかった。しかし推測の域を出ない。それでもきっと、この水族館も、見世物にされている魚も、それを見るまりかも、すべてを含めてのことだろう。まりかは魚が好きでも、魚を見るときに楽しい表情をしていたことはなかった。

 まりかはそのあと、湖に行きたがった。案内されたところは確かに大きな湖で、それ以外には何もなかった。湖にいるうちに夜が来たが、やっぱり夜になると、私は何も見えなくなった。まりかに手を引かれて進んでいるうち、足が冷たくなって初めて、二人で湖の中に入っていることに気が付いた。

「まりか?」

 水の音がうるさい。歩くたびに水位はぐんぐん上がっていく。

「まりかってば、ねえ、どこ行くの」

「わたしは、生まれ変わらないといけないんだよ」

 波の音で声がかき消される。その時、月が出た。薄明かりで湖と、まりかが照らし出される。

「これで、気持ち悪い世の中から逃げられるの」

 そのまま二人、湖の中に沈み込んで、朝を待った。私はそのうち眠りにつく。うなるサイレンの音でやっと目が覚めて、麻痺をするほどの身体の冷たさに恐怖した。暗いままの景色に赤いランプが眩しかった。きっとこの時、人生でいちばん死にたかった。なんなら、いままで自分がずっと死にたかったことに気付いた。そのあと数日続いた高熱で何もできず、死ぬ体力がなくなったことは、おそらく幸運と言えた。

 それからまりかの幻覚が消えなくなった。ずっと正面で笑っている。まりかは大都会に行くべきではなかったのだと思うようになった。私が狭い水槽の中に引きとめるべきだった。汚い空気を吸わせるより、きれいな空気で窒息させた方がよかった。分厚いアクリル板で覆って、毎日死んでいないか点検をするべきだったのだ。

 まりかが死んではじめて、大学の近くの水族館に行った。年間パスポートはずいぶん前に切れていたから、一般入場券を買った。

 まりかが好きな水槽は、割れていた。流星群のような細かい罅が一面に迸っていた。危ないので近づかないようにと、事件現場のようにテープで囲われていて、そばには『深海水槽 調整中』の張り紙がある。

 それも見て、今までにないほどの絶望を感じた。つまりは、私はまりかと同じところまで、沈んだのだ。潜ったのだ。水圧で軋む身体と沸き立つ血を堪えて、肺に息を入れる。

 その日の夜は、湖の底に沈むまりかを吊り上げる夢を見た。私は釣りなんてしたことがない。これは釣りじゃない。ただただ、蜘蛛の糸のような細いもので、まりかを吊り上げた。まりかは当然死んでいた。

 それからわたしはまりかの血を流して、削いで、大きな水槽の中に標本として飾った。月日が経ってまりかは名前を変え、鏡の標本と呼ばれるようになった。どす黒くなった水槽は芸術品となり、見る人の顔をそっくり映した。鏡というのはその通りの意味だ。標本の中に自分を見る。昏く混沌としたなかに、自分の姿を見て、恐れ、憧れる、そういう芸術品を作った。


 ***


「そういうわけで、私はある意味で、この作品は未完成とも思っているんです。まりかの人生の途中までしか表現できていないわけですから」

「へえ、そんなコンセプトがあるんですね。なんだかドラマチック。さて、お話はこのくらいで、今から実際に『鏡の標本』をイトウさんと一緒に鑑賞させていただきたいと思います。わたし、実際の作品を見るのが初めてで! とても楽しみです」

 カメラがレポーターを画面から外し、ドアが開く様子を撮影する。

「『鏡の標本』は作品の性質上、薄暗い部屋で展示されています。そのため、特別に部屋にはドアが設置されています」

 ぞろぞろと撮影スタッフが順に展示室に入る。全員が入ったのを確認して、重いドアを閉めた。

「あ……すごい、まっくら。思ったよりもずっと暗い水槽……中に何かあるのでしょうか?」

 レポーターが水槽に顔を近づけて、手からマイクを滑り落とす。

「あっ?」

 青ざめたレポーターが後ずさると同時に、地面に落ちたマイクが水槽に向かって転がり、肩を押すようにぶつかった。

 瞬間、ごしゃり、ぴき、がごん、と水槽が割れて、真っ黒な水が噴き出す。そこにいた全員がそれを浴びた。それは深海の水のようにひどく冷たかった。水槽は人がすっぽり入るくらいの大きさでしかなかったのに、水はみるみるあふれ出し、密室の部屋に注がれ、腰くらいの高さまでかさを増す。

 騒ぎ立てる人間の声が遠く聞こえる。耳鳴りがする。体温が奪われて、頭が朦朧とする。完成だ。まりかが完成した。

この、作品は何年も前から、まりかのためにある。

姿を変えずに、まりかの人生を再現するためにある。

窒息するほどの水圧を堪えて、身をかがめて闇に目を凝らす。ずっとずっと昔より暗闇に慣れた目が、人影を捉える。展示室の底でうずくまるまりかが、悪趣味だと笑った。

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鏡の標本 つつみやきミカ @tutumika

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