Terre -テール- ~杜氏が追い求めた大地の光~

真久部 脩

第1話


東京、夜。

高層ビルがひしめくビジネス街の一角で、加藤大地だいちは乾杯のグラスを掲げていた。


三十代も後半に差し掛かった自身の顔が、手にした日本酒メーカーのロゴ入りグラスにぼんやりと映る。

宴席は熱気を帯び、スーツ姿の男たちが乾杯の音頭に合わせて声を張り上げていた。


「鈴木部長、今期の売上も絶好調ですね!」


「これもひとえに、加藤杜氏とうじの素晴らしい酒のおかげですよ!」


賛辞が飛び交う。

大地は、その言葉が嘘ではないと知っていた。

彼が手掛けた新銘柄は、確かに記録的なヒットを飛ばし、会社の業績に大きく貢献した。

国内外の品評会で賞を総なめにし、特に海外の若者層からは「クールジャパン」の象徴としてもてはやされた。


だが、大地の心は満たされていなかった。

この一ヶ月、彼は毎日のようにこんな宴席に駆り出されていた。

海外バイヤー向けのイベント、メディアへの露出、経営陣との「」。

彼が求められるのは、もはや酒造りの本質ではなかった。


「加藤君、この次の新銘柄は、北米のトレンドに合わせて、もっとフルーティで甘口に寄せていこう。データ分析の結果、それがだ」


「既存の酵母を遺伝子操作で改造して、香りを最大限に引き出すんだ。目標は、数値で測れる『最高』だからね」


そんな言葉が耳にこびりつく。

彼の目の前に並ぶ酒は、確かに香りが豊かで、口当たりも良かった。

最新の技術と綿密な化学分析によって「最適化」された、完璧な商品。

しかし、大地にはそれが、ただの「データに基づいた液体」に思えて仕方がなかった。

米の囁きも、水の歌も、酵母の息吹も、どこか置き去りにされているような気がした。


かつては彼自身も、効率化と化学的アプローチを追求した。

そのおかげで杜氏としての地位を確立できたのも事実だ。

だが、いつしかその先に虚しさを感じるようになっていたのだ。


「上辺だけの新銘柄だ」


心の奥底で、何かが冷めていくのを感じた。


その日も、大地は海外バイヤー向けの試飲イベントに参加させられていた。

きらびやかな会場には、世界各国の酒類関係者が集い、日本酒だけでなく、様々な国の酒が並べられていた。

日本のブースの一角で、大地は笑顔を張り付けながら、自社の新銘柄について解説していた。


ふと、彼の視線が、あるブースで止まった。

他の煌びやかなボトルとは一線を画す、無骨ながらもどこか温かみのあるラベルのワイン。

ラベルには、飾り気のない手書きのような文字で「Terreテール」とだけ書かれていた。

余計な装飾は一切なく、ただその存在だけが、周囲の喧騒を吸い込むように静謐なオーラを放っていた。


「よろしければ、お試しになりませんか?」


声をかけてきたのは、素朴なワンピースを着た若い日本人女性だった。

大地よりも十歳ほど若いだろうか、どこか翳りのある横顔が、ボトルと同じく静かな印象を与えた。


彼女の傍らには、古びた工房の写真が飾られていた。

北海道余市、と小さなキャプションが付いている。


大地は勧められるまま、そのグラスを受け取った。

液体は、深みのあるルビー色をしていた。


グラスを傾け、香りを嗅いだ瞬間、大地の嗅覚が覚醒した。

それは、彼の知るどのワインとも違っていた。

通常のワインにあるブドウの強烈なアロマとは異なる、奥深く、芳醇な香り。

まるで、上質な吟醸酒のような、繊細で複雑なフルーティさが、微かに熟成香と混じり合っている。


一口含む。

舌の上で広がるのは、まさしく「大地」の味わいだった。

ブドウの力強さがありながら、重すぎず、そして「ブドウだけじゃないフルーティな味わい」が、どこか懐かしく、そして魂を揺さぶるように心を打った。


まるで、遥か昔からそこに存在し、悠久の時を超えて語りかけるような、力強くも優しい味わい。


「…これは…」


大地は言葉を失った。

これこそが、彼が長い間探し求めていた「酒」の本質ではないか。

データや数値では決して測れない、生命の息吹と、造り手の魂が宿った、唯一無二の存在。


空山そらやま光虹みくと申します」


女性が名乗った。

彼女が、この「Terre」を造ったワイン工房「Le Moment de l'Arc-en-Ciel(ル・モマン・ドゥ・ラルク=アン=シエル)」の娘だと知る。


「このワインは……?」


大地は震える声で尋ねた。

光虹は寂しそうに微笑んだ。


「父が造った最後のワインです。残念ながら、もう造られてはいません」


大地は愕然とした。

これほどのワインが、この世から消えようとしているのか。

胸の奥で、何かが激しく燃え上がった。それは、失われたものへの惜しさと、彼自身の長年の渇望が混じり合った、強烈な炎だった。


その日、加藤大地は、北海道余市へ向かうことを決意した。

この「Terre」の足跡を、この目で確かめるために。


(第1話 終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る