第19話
中学三年。
最後の一年が、淡々と、いつものように始まった。
誰かが桜の蕾を気にしていたけれど、教室の中では、新しい席や担任の話題でその話はすぐにかき消されてしまう。
新しいクラス、泉と夏葵と雅貴は同じクラスになった。
けれど、陽翔だけが一人、別のクラスにいた。
「マジかよ……」
自分の名前がない、三人のクラス名簿を見て、陽翔は小さく呟いた。
何かを期待していたわけじゃない。
それでも、なんとなく、また四人で同じ教室に入れるような気がしていたから。
まるで、願掛けみたいに。
また元に戻れると思っていたのだ。
その日、陽翔の心の奥には、小さな亀裂のような感情が刻まれた。
ああ、また置いてかれたかもしれない。
教室の中では、雅貴がすっかり弱々しくなった泉のそばに座っていた。
少し前の雅貴だったら、きっと向かえなかった場所だ。
雅貴は、変わっていた。
夏に、夏葵と衝突してから。
自分の感情を言葉にすること、怒りや嫉妬や無力感を正面から向き合うことが、どれほど苦しくて、でも大事なことかを、あの日知った。
そして冬。
母が、真澄くんの進学について、「失敗作にはならないといいわね」と口にしたとき。
背筋が凍った。
人を嘲笑うような視線をする人だったか。
これが母親なのか。
「それはおかしいよ、母さん」
声を出せた。
気が付けば口をついて出ていた。
だがそんな必死の抵抗を母は笑って、「あなたにはまだ分からないわよ」とかわした。
だが確かにその瞬間、雅貴の中にあった母への幻想と、自分を縛っていた何かが切れるのを感じた。
その代わりに、今ある現実に向き合う覚悟が生まれた。
泉のこと、夏葵のこと。
今、この大切な人を支えられるのは、俺たちだけかもしれない。
だからもう、俺は鎖を食いちぎってでも檻から出る。
泉もこの春色んなことがあったようだった。
元々細かったのに、更にやせ細り顔色が悪く、ふらふらとしていた。
少しでも衝撃が走ったら割れてしまいそうな、ガラス細工のような。
透明で、冷たくて、きらきらしていて、そんな静けさ。
兄、真澄が追い出されるようにして家から出た後、親戚中の目は泉に向いた。
「次は君だよ」
「大丈夫、あの子より期待してるから」
褒めてるように見せかけた呪いの言葉たち。
泉はそれを、飲み込んで、飲み込んで、飲み込みすぎて、笑うことさえ苦しくなっていた。
如何に真澄が庇って、守ってくれていたのかを実感すると同時にこんな刃をずっと向けられていたと思うと苦しくなった。
だが、笑わなくても、何も言えなくても雅貴と夏葵は、隣にいてくれた。
それだけが、泉には本当に救いだった。
夏葵は最初、雅貴の言動をどこか不思議な目で見ていた。
昔はもっとこう、檻に籠ったような人間だったのに。
何かあって変わったのかな、と思いしばし考える。
そうして思い当たったのは、自分との喧嘩だった。
確かにあの一件から雅貴は随分さっぱりとして、吹っ切れたような接し方になったような気がするが、もしかしたらそれが今の雅貴を形作ったのかもしれない。
そう思うと不思議と悪い気持ちはしなかった。
そして、泉の方へと視線を移す。
泉には浴衣を貸してもらった恩があるし。
そんな建前を心の中でいいながら、雅貴と同様に出来るだけ泉の傍に居ることにした。
支える、なんて大層なことじゃない。
ただ、教室で話しかけたり、バカな話で笑わせたり。
手が届く範囲で、目の前の誰かを気にする。
それだけだった。
そして、陽翔。
教室で笑って、名前を呼ばれて、中心にいる。
サッカー部の後輩が肩を叩いてきて、「キャプテン候補っすよね」なんて言ってくる。
楽しい。
ありがたい。
文句なんてない。
でも、昼休み。
三人が教室の机をくっつけて先にご飯を食べているのを見つけたとき。
陽翔はいいな、と思った。
自分も本当にそこに座っていいんだろうか?
違うクラスなのに?
話題が分からなかったら?
笑えなかったら?
不安が、こっそり忍び寄ってくる。
雅貴が名前を呼んでくれたから、行けた。
夏葵が、ああ言えばこう返してくれるから、会話に混ざれた。
泉が、俺も分かる話題を振ってくれたから、安心できた。
でも、昼休みが終わって教室に戻るとき、俺はひとりだ。
三人がまたおなじ日常に戻っていくのを、教室のドアの外から見送る自分がいた。
そのうちに陽翔は気づく。
自分は今、あの物語の読者になっているのかもしれない。
中にいたはずなのに、ページの外に出てしまったような。
手を伸ばせば、触れられる距離なのに。
それでも。
陽翔は、歩いていく。
まだその物語に戻れるかどうかはわからない。
でも、もう一度、名前を呼ばれたいと思っている自分がいる。
俺も同じ方向を向いていたい。
向日葵の眠る場所 水底 @minazoko
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