第05話(全26話) 東へ
新歓稽古を終えたあとの、ある日曜日。ミサキはノブフサが運転する車の後部座席で、カエデと並んで揺られていた。三人でのドライブは二回目だけど、ちょっと緊張している。笠鷺の市街地を抜け、東へ向かう道は次第にのどかな風景に変わっていく。
「道沿いに、こんもりした丘が多いんですね」
車窓を流れる景色に気づきミサキがそう言うと、ハンドルを握るノブフサがバックミラー越しに頷いた。
「群馬の、ああいう独立した丘で木が生えているのは、たいてい古墳だよ。よく見ると、頂上に小さな鳥居や祠があったりするんだ」
「へえ、そうなんですか」と感心するミサキの隣で、カエデも「言われてみればそうかも」と窓の外に視線を移している。そんな会話を交わすうちに、車は広々とした田園地帯の一角に立つ、壮大な屋敷の前で停まった。瓦屋根が幾重にも連なり、白壁とのコントラストが青空に映えている。
「ここが田島弥平の家だ。ついこの間まで子孫の方が住んでいて、色々改修していたんだけど、今は元の形に復元したんだそうだ」
ノブフサが外側から建物を眺めて説明する。
「大きなお屋敷ですね……」
カエデが感嘆の声を漏らし、ミサキもその規模に圧倒されて頷いた。個人の邸宅というにはあまりに大きく、威風堂々としている。
「別にすべてが住居というわけではないさ。これは
「サンシュ、ですか?」
聞き慣れない言葉に、ミサキは素直に尋ねた。
「蚕種というのは、カイコの卵を産み付けた紙のことで、
楽しそうに語るノブフサの話は、少し専門的で難しい。
残念ながら田島弥平旧宅の内部は見られなかったが、すぐ近くに見学可能な建物があった。案内されるまま中に入ると、一階は畳の部屋や板の間が並ぶ、ごく普通の居住スペースだった。しかし、急な階段を上った二階は、がらんとしただだっ広い空間が広がっていた。柱以外に視界を遮るものはなく、壁の一部にはかつて使われていたのであろう蚕棚がそのまま残されている。窓から差し込む光が、空気中を舞う細かな埃をきらきらと照らし出していた。
「もともとは今の福島県が蚕種の生産地だったのが、供給が追い付かなくなり、あちこちで作られるようになる。その中でも、この島村はブランド力が高かった。利根川と広瀬川に挟まれた、中島のようなこの地形が蚕の病気を寄せ付けなかったという話もある。弥平が工夫した「清涼育」という生育方法は、全国に普及したんだ」
ノブフサが広い空間をゆっくりと歩きながら解説を加えている。ミサキとカエデは、彼の話を半分ほど聞き流しながら、古い木材の匂いがする空間のあちこちを見て回った。ミサキの頭には、この広い板張りの上で、無数のカイコが桑の葉を食む音が響いているような、不思議な感覚が湧き上がっていた。
一通り見学を終え、車に戻ってもノブフサの解説は続いた。
「弥平の屋敷は精密に計測されて、これをモデルにした建物が全国に作られた。山形にも、北海道にもね」
「この前もそんなことを言ってましたけど」と、後部座席からカエデが口をはさむ。「寒い北海道で、養蚕なんかできるんですか?」
「できるよ。というか、やろうとしていた人たちがいたんだ。この田島弥平の名前も、北海道の開拓使の文書の中に出てくる」
ノブフサの言葉に、ミサキは改めて自分が今いる場所の重要性を感じた。ここで生まれた技術が、遠く北の大地まで繋がっている。猫を探して群馬に来たはずが、北海道と群馬を繋ぐ歴史に触れたような気がした。
昼食の喧騒が遠ざかり始めたファミレスのテーブルで、ミサキはぬるくなったメロンソーダのグラスを指でなぞっていた。食べ終えた食器はすでに片付けられ、今はドリンクバーから持ってきたそれぞれの飲み物を飲みながらフライドポテトをつまんでいる。向かいに座るノブフサは、これで何杯目になるのか、運んできたコーヒーを無感動に飲んでいた。
「さて、と」
唐突にノブフサが呟き、傍らに置いていたトートバッグから一冊の古びた画集のようなものを取り出した。それはどこかの博物館が発行した企画展のカタログのようだった。彼はそれをテーブルの中央に滑らせる。
「岩松氏が描いた猫絵だよ」
表紙をめくると、そこに現れたのはお世辞にも上手いとは言えない、しかし妙に味のある猫の絵だった。隣に座るカエデが「わ、かわいい」と声をあげる。ミサキにはその感覚が今ひとつ分からなかったが、先輩の言葉に合わせて曖昧に頷いた。
「カイコの天敵はネズミだ。そのネズミを防ぐには、猫が一番効果がある。ウィスキーキャットと同じ考え方だね」
ノブフサはまた一口コーヒーをすすり、言葉を続けた。
「ただ、江戸時代には猫はそんなにそこらにいなかった。とても高価な愛玩動物だったんだ。だから、庶民は猫の絵を家に飾って、ネズミを追い払おうとした」
「絵で、ですか?」ミサキが尋ねる。
「そう。でも、ただの絵じゃだめだ。高貴な血を引く方が描いた絵じゃないと……、でここらで高貴というと新田だ」
「歴史に名高い新田義貞」
カエデがあとを続ける。
「そう、南朝の忠臣、新田義貞。彼の子孫……のようなものが、岩松を名乗ってこのあたりにいた。格は十万石、でも実際の収入は百五十石の旗本。徳川家は新田の分家を称しているから、将軍家の親戚として格だけは高いんだよね」
「百五十石って、大分少ないんじゃないですか?」
ミサキの素朴な疑問に、ノブフサは満足そうに頷いた。
「旗本としては最低ランクだろうね。江戸の町奉行の与力は御家人だけど二百俵。だいたい二百石相当だから、それより下だ」
彼はカタログのページをゆっくりとめくった。そこには、ミサキの感覚では「かわいい」とは到底思えない、しかし一度見たら忘れられないような個性的な猫たちが、様々なポーズで描かれていた。
「でも腐っても新田の後継者。その高貴な力で、彼らの描いた猫の絵はネズミを追い払う霊力を持っている。人々はそう信じて、こういった絵を描いてもらい、謝礼を支払った。殿さまには良いアルバイトだったようだよ」
その説明を聞いてから改めて絵を見ると、デフォルメされた猫の姿が、何か特別な意味を帯びて見えてくるから不思議だった。
「本物の猫は当時は珍しい。ミサキ君が探している将殿という猫は、単なるペットとしてではなく、カイコの守り神として、遠く北海道にまで連れていかれたんだと思う。それが僕が、養蚕や製糸関連の史跡を巡っている理由だ」
ノブフサはそこまで言うと、カタログの一点を指さした。
「もしかしたら、ここに載ってる絵の中に、将殿や織衛をモデルにしたものがあるかもしれないよ」
彼の指が示す先、そこに描かれた一匹の猫にミサキの視線が吸い寄せられた。地元の猫将殿によく似た、墨の絵だから色は判別できないがキジトラのような模様の猫がいた。もちろん、これだけで将殿がモデルとは断定はできない。けれど、ノブフサの話の一つ一つが、バラバラだった点を線で結んでいく。ミサキは、自分が確かにゴールへ向かって着実に歩を進めているのだと、胸が高鳴るのを感じていた。
「今日、ノブフサさんがじっと見ていた石碑、なんだったんですか?」
カエデが思い出したかのようにそう尋ねると、ミサキも身を乗り出した。漢文で書かれた石碑の内容がわからず、隣にあった解説の看板を読んで済ませてしまったからだ。島村という地域の環境が、なぜ蚕種の生産に適しているのかが書かれているらしい、ということだけは理解した。ノブフサが、何かに集中するようにじっと石碑を見つめていたのが、ミサキは気になっていた。
「ああ、石碑を書いた
ノブフサは静かに話し始めた。
「この周辺は、養蚕で経済力をつけ、幕末に欧米との貿易が始まると盛んに海外へと蚕種・生糸を輸出した。その経済の豊かさを背景に、国の将来を憂い、ついでに身分上昇をはかろうとした人たちがいたんだ」
ノブフサの話を聞きながら、ミサキはぼんやりと考える。猫を探しているというのに、なぜか歴史の勉強をしている。猫を探すのが、いつの間にか歴史の旅になってるような気がする。
「伊勢崎に村上随憲という医者がいた。彼は今の埼玉県熊谷出身で江戸・長崎で医学の勉強をした。長崎ではシーボルトに学んでいたという」
向かいに座るノブフサが、芝居がかった口調で語り始める。歴史の話になるといつもこうだ。まるでスイッチが入ったかのように、その場の空気を自分の講義室に変えてしまう。
「ノブフサさんの講義が始まったよ」そんなような目で隣に座るカエデがミサキに目配せをした。ミサキはメロンソーダの炭酸が弾けるのをぼんやりと眺めた。聞いたこともない医者の名前。それが、教科書で見たことのあるシーボルトというビッグネームに繋がったことに、少しだけ驚いて顔を上げる。ノブフサは、その反応を待っていたかのように満足げに頷いた。
「随憲は、境村で蘭方医として開業し、種痘を行う。当時としては最新の医療で多くの人を救ったんだ。それだけじゃない。思想犯として幕府に追われていた高野長英が逃亡した際、彼を匿ったという話もある。ところで、幕末の医者は高野長英に限らず、軍事に詳しいのが結構いる。大鳥圭介とか大村益次郎とか……西洋医学を通じて、西洋の軍事技術にも触れる機会が多かったんだろうな」
「それはともかく」とノブフサは人差し指を立てる。「随憲は医者をやる傍ら、塾を開いて、周辺の若いのを教えた。さて、何を教えたと思う?」
挑戦的な視線が、ミサキと、隣に座るカエデに向けられる。カエデは長い髪を指でくるくるといじりながら、こともなげに答えた。
「それは、医学じゃないんですか?」
あまりに当たり前な答えに、ミサキは、それでいいのかな? と少し不安になる。医者が若者に教えることなんて、医学以外に何があるだろう。
「医学じゃなかったら、最新の欧米の情報ですか? それこそ戦争のこととか……」
ミサキも恐る恐る口を挟む。長崎で学んだのなら、海外の事情に詳しいはずだ。外国とどう戦うか、あるいはどう付き合うか、そういう話だったのではないか。
「いや、違うんだ。そこが人間の不思議なところだ」
ノブフサが楽しそうに、カエデとミサキを見渡す。彼のこういう、答えを焦らすような話し方が、ミサキは少し苦手だった。
「あるフランス文学者が言っているんだが、日本人は海外の文化にさらされると二通りの反応を示すという。一つは、その文化にどっぷりを浸かって適応してしまう者。留学中に現地で恋人を作って楽しくやっていた森鴎外タイプ。もう一つは、海外の文化に触れたことで、逆に自分の中の日本人的なものへの危機感を覚えてしまう者。帰国した後、草紙や俳句に耽溺した夏目漱石タイプ」
ノブフサはそこで一旦言葉を切り、自分のコーヒーを一口すすった。
「随憲は、典型的な夏目漱石タイプだった。西洋の進んだ知識を吸収すればするほど、日本の伝統が失われることを恐れた。だから彼は塾を開き、若者たちに国学、そして尊王攘夷思想を教え込んだんだ」
ミサキの頭の中に、大きなクエスチョンマークが浮かんだ。常識的に考えて、欧米の進んだ医学を学んだ人間が、外国人を追い払え、と教えるなんて。矛盾していないだろうか。まるで、最新の携帯電話を使いこなしている人が、文明を捨てて森で暮らせ、と説くような奇妙さを感じた。
「彼の弟子には近隣の医者の息子、儒学者の息子、画家の息子もいた。そう、金井之恭も随憲の教え子の一人なんだ」
ここで金井之恭と結びつくのか。回りくどいな、ミサキはそう思ったが、ノブフサの話はまだ終わらない。
「二人は新撰組を知っているだろう? 幕末の京都で活躍した治安維持部隊。近藤勇とか土方歳三とか沖田総司とか……。土方はミサキ君の出身地の北海道まで行ってるよね?」
急に話を振られ、ミサキは驚いてこくこくと頷くしかなかった。五稜郭。故郷の函館にある、星形の城郭が脳裏に浮かんだ。
「新撰組の母体は、もともと浪士を集めて京都の治安を守るために組織された浪士組なんだ。そこに、随憲の弟子たちがこぞって参加する。実は、浪士組には群馬からも結構参加したんだ。男装の剣士とか、赤城神社の神官の息子とかね」
「結局、浪士組は内部対立で空中分解してしまう。一部は京都に残って新撰組になり、一部は江戸に戻って新徴組になる。そして、過激な思想を持っていた者たちは脱退する。随憲の弟子たちの多くは、この脱退組だった。彼らは各地でテロ活動をするようになるんだ」
話がどんどん物騒になっていく。ドリンクバーの喧騒が、遠い世界の音のように聞こえ始めた。
「随憲の息子は京都で捕まって刑死し、金井らは関東で出流山事件という蜂起に参加して失敗、捕まって岩鼻代官所に投獄される。仲間の中には処刑された者もいた」
「岩鼻って、あの、博物館がある群馬の森のあたりですか?」
カエデが質問する。ミサキには全く分からない地名だが、カエデはさすがに詳しい。「先輩は群馬の地理に詳しいんだな」、そんな当たり前のことに、ミサキは少し感心した。
「そう。あそこには代官所が置かれ、幕末には関東の治安を維持する重要な機関、関東郡代が置かれたんだ。で、金井たちが岩鼻の牢に入っているうちに、時代が大きく動く。鳥羽伏見の戦いが起こり、薩長軍が東へと進軍してくる。牢から助け出された金井たちだったが、ここでもまた道が分かれる。金井はそのまま薩長軍、つまり新政府軍と一緒になって奥州を転戦することになるんだけど、大館謙三郎とか黒田桃民は違った。二人とも医者の息子なんだけど、彼らは地元の岩松の殿様を中心に、尊王を掲げる「新田官軍」を組織するんだ」
「えっ、ここでさっきの猫絵の殿様と繋がるんですか?」
思わずミサキは声を上げた。先ほど、ノブフサが見せてくれた、殿様が描いたという少し間の抜けた猫の絵。それが、こんな血なまぐさい話の先に繋がっているとは。ノブフサの話は、まるでとりとめがないようでいて、その実、すべてがどこかで連関している。巨大な蜘蛛の巣のように、一つの糸を引けば全体が揺れる。
「南朝の忠臣として知られた新田氏の末裔が、今度は薩長の側についた。象徴的な意味はあったかもしれないけど、実際の戦果はほとんどなかったらしい。その殿さまは明治政府で男爵となり、ヨーロッパでは「バロン・ニッタ」という画家として知られたとかなんとか。一方で、新田官軍に参加した大館は地元で教育に尽力し、黒田は医療で地元に尽くした」
ノブフサの話の熱が、ふっと冷めていくのが分かった。彼は、まるで遠い目をするかのように、グラスの向こうの景色に視線を移した。
「僕は、金井之恭の字を見るたびに考えるんだよ。同じ村上随憲という師を持ちながら、幕末を処刑されるほど時代を駆け抜けた者と、時流に乗って新政府側につき、書家として名を馳せて貴族院議員にまでなる者と、そして、大きな動乱に参加はしたものの、その後は郷里のために静かに尽くす者と……。一体、どれが一番幸せだったんだろうかと……」
ノブフサはそう言うと、黙って目を伏せ、すっかり冷めてしまったコーヒーを静かにすすった。
ファミレスの中は、相変わらず他愛のない笑い声と食器の音に満ちている。けれど、ミサキたちのテーブルだけが、まるで別の時間が流れているかのように静まり返っていた。歴史という大きなうねりの中で、翻弄され、選択を迫られた人々。その一人一人の人生の重みが、ずしりとミサキの胸にのしかかってくるようだった。
そして思う。自分がいま探している「織衛」という名の猫もまた、この複雑に絡み合った歴史の蜘蛛の巣の、どこか一本の糸に繋がっているのだろうか、と。ミサキは、まだフライドポテトの塩味が残る指先を、そっと握りしめた。
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