第04話(全26話) 見えない糸、見えない道
ミサキ、カエデ、ノブフサの三人は、富岡製糸場の正門前で立ち止まった。石造りの門柱に刻まれた「富岡製糸場」の文字は、百数十年の歳月を経て、ずっしりと重い歴史の塊のように思えた。
カエデが「「日本で最初の富岡製糸」ね」と口にすると、ノブフサがそのあとを続けた。
「そう。政府の金で作られたあと、いろんなところに売却されてね。最後の持ち主の片倉製糸が取り壊しもせず、大切に保存してくれてたんだ。今は公開されてないけど、日本の近代化を体現する国宝級のお宝だよ」
ノブフサの言葉に、ミサキは感嘆の声をもらした。
「初代場長の尾高惇忠は親族の渋沢成一郎と一緒に彰義隊に参加し、おそらく箱館五稜郭まで行っている」
ノブフサが、ふっと遠い目をする。ミサキはここにも出身地である北海道との奇妙な縁を感じた。まるで目に見えない糸が、北の大地とここ群馬とを繋いでいるような気がする。
「模範工場というのは、学校みたいなものだったと言われている。官営時代は全国各地から伝習生がやってきて、ここで学んだことを故郷に持ち帰っている」
ノブフサの話は続く。その声には歴史への深い敬愛がにじんでた。
「一八七二年に開場し、その二年後に北海道から六名の伝習工女がやってきた。札幌から三名。これは伊達家陪臣の娘。函館から三名。これは平民とされているが、僕の研究じゃ、和泉やえ、斉藤きんの二人は、幕末に蝦夷地に入植した八王子千人同心の娘なんだ」
「和泉やえ」という名前にミサキははっとした。大学の合格を報告しに行った時の叔父の言葉がよみがえる。
「ミサキのひいひいひいおばあちゃんのやえさんも、群馬に行ったことがあるんだよ」
叔父は、それ以上詳しい話はしなかった。ただ、それが不思議な縁であるかのように、嬉しそうに言っただけだった。
「和泉って、ミサキちゃんとおんなじ名字だね」
カエデが屈託なく声を上げた。
「もしかして、その和泉やえって、私のひいひいひいおばあちゃんかもしれません」
ノブフサは、その言葉を聞いて絶句した。
「まさか……。じゃあ、そのやえさんが将殿さんを連れて帰ったのか?」
ノブフサは身を乗り出してミサキに尋ねる。
「でも、将殿はうちの家とは関係ないから、違うと思うんですが……」
ミサキには判断がつかなかったが、やえと将殿は関係がないと直感で感じていた。
富岡製糸場を後にした三人は、カエデの「猫が集まると言えば、神社じゃない?」という思い付きのような提案で、貫前神社へと向かう。駐車場に車を止め、山門から本殿へ下っていく道で、カエデは「ゆかりは古し貫前神社」とつぶやいていた。
三人は神社の本殿でお参りを済ませ、境内を散策した。
ノブフサが熱心に神社の歴史を話している。
「ここの神様は、ヤマト朝廷が派遣した物部系氏族の神様なんだ。中央の神様だな。武神なんだけど、中世神話では女体化して、諏訪の神との間に子どもを作っている。群馬の土着の神様は赤城とかいろいろあるけど……」
カエデはノブフサの話には興味がないようで、スタスタと前を歩いていく。ミサキは一人で熱弁を振るう信房を置いて、カエデの後を追った。
境内の奥、何もない空間に「経蔵」と書かれた看板がぽつんと立っている。二人が立ち止まると、ノブフサが大きな体を揺らして、息を切らせながら追いついてきた。
「江戸時代まで、人々は神も仏も一体として信仰していたんだ。ここの神社には山門があったろう? あれはここに寺があったことの名残なんだ。明治政府が神仏の中を無理やり引き離して、日本の伝統を壊してしまった。ここには神社とペアになった寺院があったけど、明治政府の政策によって経典や仏像もろとも破壊されてしまった……」
ノブフサがそう話していると、どこからともなく猫が集まってきた。カエデはしゃがみこんで猫と戯れ、ミサキは集まってきた猫の中で一番老齢そうな猫に話しかけた。
「織衛さんって名前の猫、知りませんか?」
「織衛さんか。聞いたことがないな」
猫はそう答えるが、ミサキが工女の子孫だと知ると、少し身を乗り出した。
「このあたりから北海道に渡った猫はいるが、織衛さんというのは知らんな」
将殿のことも聞いてみたが心当たりはないようだった。
「北海道からきた工女も、ここで花見を楽しんだもんじゃ。ここに工女さんが来ていた時代があったんじゃ」
その猫は、まるで遠い過去を思い出すかのように目を細めた。
その後三人は、荒船風穴へと向かった。ノブフサが、カイコの卵の温度管理のために使われた天然の冷蔵庫であること、全国各地から荷物を預かっていたのはここだけであることを熱心に説明する。ここでも猫に話を聞いてみるが、織衛のことは知らないという答えだった。
富岡製糸場、貫前神社、荒船風穴と足を延ばしたが、収穫はなかった。しかしミサキは故郷とこの地を繋ぐ、不思議な糸の存在を強く感じていた。
ある土曜日、いつものように大学で合気道の稽古に心地よい汗を流し、先輩たちと連れ立って昼食を済ませたミサキたちは、一路、群馬の名湯を目指して車を走らせていた。今日の目的地は、全国にその名を知られる草津温泉だ。車窓を流れる景色は、この間、東善寺へ向かった時と同じ倉渕ののどかな風景だった。
「群馬って、本当に温泉が多いんですね」
助手席のミサキがそう呟くと、ハンドルを握るカエデが「そうでしょ」と笑う。
笠鷺のキャンパスから車にも満たない道のりで、あの草津温泉に行けるという事実に、ミサキはまだ驚きを隠せないでいた。
駐車場に車を止め、温泉街の中心へと歩を進める。硫黄の香りがふわりと鼻をかすめる。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。視界が開けた先にあったのは、湯畑だった。
広大な岩場のような空間から、もうもうと湯けむりが立ち上り、地面を勢いよく温泉が流れ落ちている。岩肌は温泉の成分で真っ白になっていた。その岩場を渡るようにして何本も架けられている木製の樋を、エメラルドグリーンのお湯が滑っていく。樋の底にも、白い粉のようなものがびっしりと沈殿していた。
「あれが『湯の花』。温泉の成分が結晶化したものだよ」
隣を歩く先輩が教えてくれる。入浴剤として使われるのだそうだ。ミサキたちは湯畑をぐるりと囲む遊歩道を歩き、そのまま光泉寺へと続く長い石段を上った。上から見下ろす湯畑は、地上で見るのとはまた違う。壮大なスケールで、湯けむりの向こうに広がる温泉街の景色と相まって壮観だった。
寺へのお参りを済ませたところで、主将のヨウヘイがパン、と手を叩いた。
「みんな、印刷した地図は持ったか? ここ草津にはいくつもの公衆浴場がある。地図を頼りに好きな所に入って、二時間後に白根神社に集合。新入生は、上級生についていくこと」
ミサキにとって、外湯を巡るという温泉の楽しみ方は新鮮な驚きだった。温泉というのは旅館やホテルの泊まって入るものとばかり思っていた。
「あと、入浴したら、タダで入れてもらった感謝の気持ちを置いてくるのを忘れるな。それじゃ、解散!」
「ミサキちゃん、一緒に行こ」
カエデがミサキの手を引く。
「まず、初心者は『地蔵の湯』かな」
カエデはそう言って、慣れた足取りで石段をおり、湯畑脇の道を下っていく。少し歩いて角を曲がると、こぢんまりとしたお堂の前に「地蔵源泉」と書かれた看板があった。
ここでも湯畑と同じように、地面から温泉が湧き出している。看板には、ここの湯で目を洗って眼病が治ったという言い伝えが書かれていた。カエデ先輩がお堂に向かって静かに手を合わせるのを、ミサキも見よう見まねで真似をした。
「地蔵の湯」の引き戸を開けると、そこはもう浴室だった。脱衣所がない。壁際に作り付けられた棚に、先客の脱いだ服や荷物が置かれている。ミサカが驚いて立ち尽くしていると、カエデは笑いながら服を脱ぎ始めた。
「昔の公衆浴場は、みんなこうだったんだって」
郷に入っては郷に従えだ。ミサキも覚悟を決めて、棚に荷物を置いた。
しかし、次なる関門はお湯そのものだった。熱いだけでなく、肌がピリピリと痛い。どうしようかとためらっていると、カエデが何度もかけ湯をして、ゆっくりと足から身体を沈めていく。ミサキもそれに倣った。不思議なもので、一度肩まで浸かってしまえば、さっきまでの痛みは嘘のように消え、身体の芯からじんわりと温まっていく心地よさだけが残った。
湯上がりには、温泉街を散策しながら、お店で熱いまんじゅうとお茶をごちそうになった。ふわりと甘い湯気が立ち上るまんじゅうは、火照った身体に優しく染み渡る。そのお店のすぐ近くにも「凪の湯」という共同浴場があった。
「あそこはノブフサさんのお気に入りなんだよ」とカエデが笑う。「いつもは熱すぎて入れないんだけど、ごく稀に入れる温度になってる時があるんだって。そのギャンブルみたいなのが楽しいらしいよ。前日に雨が降ったかどうかでも、お湯の温度は変わるんだって言ってたな」
そんな話を聞きながら二人は集合場所の白根神社へと向かった。境内にはまだ誰もおらず、ミサキたちが一番乗りのようだった。お参りを済ませ、手持無沙汰になったミサキは、社の隅で丸くなっていた一匹の猫に話しかけた。織衛のことは知らなかったが、みんなが集まってくるまで遊んでもらった。その穏やかな時間が、私の心を優しく満たしてくれた。
帰りの車中、心地よい疲労感に包まれたミサキは、運転してくれるカエデに申し訳ないと思いながらも、いつの間にか深い眠りに落ちていた。瞼の裏に、湯けむりの向こうに広がる街並みと、何も言わずにそばにいてくれた、あの猫の姿がぼんやりと浮かんでいた。
合気道部のドライブで四万温泉を訪れたのは、五月の終わりだというのに夏の気配が感じられる土曜日だった。
「暑いですね」
ミサキがそう言うと、カエデは「群馬の夏はこんなもんじゃないよ」と言って笑った。
カエデが鼻歌まじりにハンドルを切り、ミサキは窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めている。目的は四万温泉のホテルの日帰り入浴だ。
「ここ、すごいですね」
通された浴場に足を踏み入れた途端、ミサキは思わず声を上げた。床も壁も、湯船の内側までもが真っ白で、窓から差し込む陽光を反射させている。柔らかな蒸気と相まって、まるで雲の中にいるような錯覚を覚える。それは、日本ではないどこか異国の、神聖な神殿に迷い込んだかのようだった。
「でしょ? ちょっと変わってるんだ」とカエデも満足げに微笑む。
壁の一部に、人が一人やっと潜り込めるような奇妙な横穴が設えられているのにミサキは気づいた。「なんですか、これ」。覗き込むと、奥からしっとりとした熱気が頬を撫でる。
「蒸し風呂だって。昔のサウナみたいなものかな。あそこで横になって蒸気を浴びるんだってさ。ここのホテル、古い施設をそのまま活かしてるらしいよ」
説明書きを読みながらカエデが教えてくれた。そんな不思議な設備を横目に湯船に浸かった。肌を滑る柔らかな湯の感触に、ほう、と心地よい息をついた。
入浴のあと、街の中を散策する。エメラルドグリーンに輝く川の流れががあった。川べりには、申し訳程度の囲いしかない露天風呂がある。あまりにも開放的で、対岸の遊歩道から丸見えだった。
「あんな所、入る人がいるんですか?」
ミサキが呆気にとられて尋ねると、カエデは楽しそうに笑った。
「ノブフサさんは入ったって言ってたよ。川の音を聞きながら入るのが最高なんだってさ」
あの飄々としたOBの姿を思い浮かべ、ミサキは苦笑した。自分には少し、勇気が出そうにない。
また別の日、今度は新潟との県境に近い山奥へと分け入っていた。目的地は法師温泉。鄙びた木造の一軒宿は、それ自体が重要文化財に指定されているという。ミサキたち女性陣はこぢんまりとした女性用の小浴場へと案内されたが、ロビーには有名な大浴場の写真が飾られていた。草津温泉で見た地蔵の湯のように、浴場の壁に沿って脱衣棚が備え付けられている。今ではなかなか見ない構造だ。
「すごい……」
実際に足を踏み入れた小浴場も、その感動は変わらなかった。浴場の建物が、もともと川の底に湧き出ていた源泉の真上に建てられているという話は本当らしかった。
湯船の底には玉砂利ほどの大きさの小石が敷き詰められており、その隙間からこんこんと、しかし静かに温泉が湧き出してくるのが足の裏で感じられる。まるで地球の呼吸に直接触れているような、不思議な感覚だった。いつかあの、写真で見た混浴の大浴場も体験してみたいな、とミサキは密かに思った。
倉渕、富岡、草津、四万、法師と、立て続けに群馬の魅力的な場所を巡る非日常の時間が過ぎ、ミサキは少しずつ、大学のあるこの地での新しい日常を築き始めていた。
ミサキは、合気道部の先輩であるユイから紹介された、大学近くのパスタ屋でアルバイトを始めた。サークルに代々受け継がれているという暗黙の指定席のようなバイト先だった。とりあえず週に二回、ディナータイムのシフトに入る。覚えることは多いが、心地よい忙しさだった。そして何よりの楽しみは、仕事終わりに食べさせてもらえる賄いだ。
「ミサキちゃん、お疲れさん。今日の気まぐれね」
寡黙なマスターが差し出してくれるパスタは、日によって具材もソースも全く違う。今夜は、香ばしくソテーされたキノコとベーコンのクリームパスタ。湯気とともに立ち上る香りは、空腹を満たすだけではなく、一日の疲れを溶かしていくようだった。
群馬の地で感じた不思議な縁を思いながら、ミサキはフォークを口に運ぶ。
この地に来て、遠い昔に北海道と繋がっていた、この土地の歴史に触れてきた。それはまるで、彼女の人生に、それまで見えなかった新しい色が加えられていくような感覚だった。
美味しいパスタを頬張りながら、ミサキはぼんやりと考える。
もしかしたら、新しい自分自身の「居場所」というのは、そうした過去と今とが、見えない糸で紡ぎ合わされる、そんな感覚の先に静かに生まれてくるものなのかもしれない。彼女の新しい日常は、確実に、その色を少しずつ濃くしていっていた。
六月、合気道部では新入生歓迎稽古とコンパが開催される。本部道場から師範を招いての直接指導と、その後の昇段昇級審査。ミサキたち新入生にとって、この日を乗り越えて初めて、正式な部員として認められる。言わば、最初の関門だった。
稽古が始まる前に部室と道場の掃除をする。初夏の風が窓から入り込み、柔らかな光で埃をキラキラと舞っている。
掃除のあと、掛け軸をかける。桐の箱から慎重に取り出したそれには、力強い筆致で「合気道」と書かれていた。「気」の字は中の「メ」が「米」になってる不思議な字だった。署名は「植芝盛平」とある。合気道の開祖だ。
開祖はかつて北海道の白糠に入植したことがあるとノブフサは言っていた。ミサキはここにも、遠い故郷とこの地を繋ぐ、見えない糸の存在を感じていた。
先輩から聞いた話では、大学のサークルに開祖直筆の書があるなんて、極めて珍しいらしい。ホントかどうか知らないが、開祖が書を求められた際に、本番前の練習として書いた、本来表に出すものではないそれを、師範が開祖に黙って持ち出して、表装して部に持ってきてくれたものだということだ。
掃除が終わり、部員たちが道着に着替え始める頃、OBたちがやってきた。その中には、ノブフサの姿もあった。
他のOBたちが談笑しながら準備運動を始める中、ノブフサは一人、道場の隅で奇妙な運動を始めていた。畳の同じ場所で、前回り受け身を一つ、そしてすぐさま逆方向にもう一つ。行ったり来たりの反復を、黙々と続けている。
「ニレツ、っていうんだよ」
カエデがミサキにそっと教えてくれた。昔は遅刻したり稽古をサボったりした部員に課せられた、刑罰のような練習方法だったらしい。昔の体育会系は厳しかったようだ。そう言えば、高校のバスケ部でも昔はひどかったという話をよく聞いていた。
ノブフサのニレツは、まるでボールが転がっているようだとミサキには思えた。巨体が見事に回転し、畳に吸い付くように音もなく着地する。
袴をはいたノブフサの姿を見るのは、今日が初めてだった。すらりとした細身のカエデの袴姿は凛々しく美しいが、ノブフサのような恰幅の良い身体にこそ、袴という衣服はよく映えるのかもしれない。彼の姿には、どっしりとした安定感が感じられた。
やがて、道場の入り口が静かに開かれ、一人の男性が入ってきた。佐田師範だった。三十代ほどだろうか、まだ若いが、道着の上からでも分かるほど全身が鍛え上げられている。分厚い胸板と、丸太のように太い首が印象的だ。先輩の話では、師範はもともとソ連の軍隊格闘術を専門にしていたが、ある時合気道に出会い、その奥深さに魅せられて転向したという経歴の持ち主らしい。
師範が入ってくると、道場の空気が一瞬で張り詰めた。主将であるヨウヘイの号令で稽古が始まる。
合気道の稽古では、技をかける側を「取り」、かけられる側を「受け」と呼び、互いに交代しながら練習を進める。師範稽古では、まず師範が「取り」となり、主将のヨウヘイを「受け」として技の模範を示す。その後、部員たちが二人一組になって、同じ技を繰り返し稽古するのだ。
ミサキは、何回か目の順番でノブフサと組むことになった。
「よろしく、お願いします」
お互いに礼をして、稽古を始める。
技は「片手取り四方投げ」だった。上級者が先に技をかける。「受け」のミサキはノブフサの右の手首を、左手でぐっと掴む。ノブフサの身体がすっと沈み、半歩内側に入り込んできた。ミサキの身体が、まるで根こそぎ引き抜かれるかのように斜め上に引っ張られ、いとも簡単に体勢が崩れる。気づいた時には、空いていたノブフサの左手がミサキの左手首を掴み、頭上に掲げさせていた。抵抗しようにも、身体の中心が定まらない。体勢が極められ、流れるような動きで投げられた。
ミサキは畳の上を転がった。畳の上を転がりながら、恐怖よりも先に、今まで感じたことのない不思議な浮遊感に包まれた。力でねじ伏せられたのではない、抗うことのできない、どこか心地よささえある動きだった。
受け身を取り、すぐに立ち上がる。今度はノブフサの左手を取ろうと右手を伸ばすが、彼はまるで最初からそこにいたかのように、少しも動じることなく静かに立っていた。
彼の技は、力強さとは無縁の、どこまでも柔らかいものだった。
熱気のこもった稽古と審査が終わり、一行は大学近くの居酒屋へ移動した。この部では、師範への感謝を示す宴席を「コンパ」と呼ぶ。
道着からスーツに着替え、汗をぬぐった部員たちの顔には、さっきまでの緊張が嘘のように溶けていた。
ヨウヘイの司会でコンパは始まった。佐田師範の挨拶、OB会長による乾杯の音頭。ビールやサワーのジョッキを掲げる者、ウーロン茶のグラスを掲げる者、それぞれが解放感に満ちた表情で料理を口にした。しばらく歓談が続いた後、新入生の自己紹介が行われ、宴もたけなわとなった頃、師範が静かに席を立った。
師範を見送った後、残った学生とOBたちで二次会へと流れた。場所を移した小さな居酒屋は、気安い空気に満ちていた。ミサキの隣には、今夜ミサキの家に泊まることになっている同期のミワが座っている。
コンパでは師範や他の先輩たちに囲まれ、結局ノブフサの近くに行くことはできなかった。しかし二次会では、テーブルの向かいに、上機嫌で頬を赤らめたノブフサが座っていた。
「ミサキ君、知ってるかい?」
ノブフサが唐突に話しかけてきた。
「「君」とか「僕」という言葉はね、幕末の吉田松陰が使い始めたそうだよ。それまでは相手の身分によって厳格に呼称を使い分けていたけど、松陰は松下村塾で、身分の上下を問わずに誰もが対等に議論できるよう、この新しい言葉を奨励したんだ」
ノブフサは一度言葉を切り、ビールのジョッキを持ち上げた。
「そして、群馬県の初代県令、今の知事にあたる楫取元彦という人物は、松陰の後継者で、松下村塾を引き継ぎ、松陰の妹を妻にしている。彼は群馬に赴任すると、この「君」と「僕」を使う対等な精神を学校教育の根幹に据えた。それ以来、群馬では男女の区別なく、誰もが当たり前に「君」と「僕」を使い続けてきた。まあ、その良き伝統も、最近では廃れつつあるんだけどね。それでも群馬は女の子が「ボク」という比率は高いと思うよ」
その、もっともらしい話に、ミサキはすっかり感心してしまった。
「へえ、そうなんですか!?」
驚いて、隣に座っていた群馬出身の三年生のユイに同意を求めるように尋ねた。
「それ、本当なんですか?」
質問を終える前に、唐揚げを頬張っていたユイが呆れたように言った。
「ウソだよ」
「え?」
「ノブフサさんは、いっつもああいう本当だかウソだか分からない話をするんだから。本人は気の利いた面白い冗談のつもりなんだよ、きっと」
ユイの言葉に、ミサキはあっけに取られてノブフサを見た。当の本人は、ばつの悪そうな顔をするでもなく、ただ楽しそうににこにこと笑っているだけだった。
富岡で熱心に歴史を語り、織衛探しを手伝ってくれた真面目なノブフサと、稽古中の柔らかく包み込むような技をかけるノブフサと、そして目の前でヨタ話を語るノブフサが、ミサキにはどうしても一つに結びつかなかった。
しかし、その掴みどころのなさを、ミサキは少しだけ面白いと思ってしまっている。
「織衛さんのこと、思いついたことがあるんだ。また都合のいいときに、一緒に行こう」
解散のときに、ノブフサはそうミサキに囁いて去って行った。ミサキは、その言葉を胸に、不思議な縁の続きを予感していた。
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