第十話 魔女の悪戯、大蛇の怒り

 ​日本妖怪、四連勝。


 その報は、闘技場を揺るがすほどの歓喜を日本妖怪サイドにもたらした。だが、その裏で、一部の者たちは、勝利の美酒に酔うことなく、冷徹に戦況を見つめていた。


​「四つの勝利。しかし、その全てが異なることわりもたらされた」


 控室で、ぬらりひょんが静かに呟く。


「鬼は『情』で、狐は『知』で、蜘蛛は『怨』で、天狗は『道』で勝った。あまりに、バラバラ。これでは軍とは呼べぬ。ただの、個の寄せ集めじゃ」


 その言葉に、控室の空気がわずかに引き締まる。日本の勝利は、個々の代表者の類稀なる力と、巫女との奇跡的な絆によって、かろうじて成り立っているに過ぎない。その脆い均衡が、一度崩れればどうなるか。誰もが、その不安を口に出せずにいた。


 ​一方、世界の怪異サイドの空気は、もはや絶望を通り越し、不気味な静寂に包まれていた。敗北を重ねた代表者たちが、まるで亡霊のように控室の隅に佇む中、主催者であるババ・ヤーガが、ケタケタと甲高い笑い声を上げた。


​「ククク……負けて、負けて、負けて、また負けた! ……クク……アーッヒャッヒャッヒャッ!! 最高の舞台は整ったわい!」


 その目は、狂気と、そして、全てをひっくり返す悪戯じみた喜びに爛々と輝いていた。


「もう良い。もう『決闘』ごっこは終いじゃ。次は、一方的な『狩り』を見せてやろうぞ」


 ​銅鑼の音が、第五回戦の開始を告げる。


 だが、選手が入場するより先に、ババ・ヤーガがその場から立ち上がり、おぞましい呪文を唱え始めた。


​「のう、ぬらりひょんよ。一方的な戦況で、客人も退屈しておろう。少し趣向を変えて、余興と洒落込もうではないか!」


 ​老婆が鉄の杖をアリーナへと突きつける。


 すると、月の砂でできていたはずの清浄な闘技場が、黒い泥のように変質し始めた。地面からはねじくれた木々が突き出し、視界を遮る濃密な霧が立ち込める。ほんの数秒で、アリーナは、光の届かぬ、湿った熱帯のジャングルのような、不気味な狩場へと姿を変えた。


​「な、なんだァッ!? 闘技場が……森に! これはルール違反ではないのか!?」


 一つ目小僧が叫ぶが、ぬらりひょんは盃を傾けたまま、静観しているだけだった。


​「さあ、世界の反撃の狼煙のろしだ! この絶好の狩場に解き放たれるのは、変幻自在の捕食者!」


 濃霧の中から、何の予兆もなく、一体の怪異が姿を現した。


 それは、長い黒髪を持つ、美しい村娘のような姿をしていた。しかし、その背中からは、蝙蝠のような皮膜の翼が不気味に生えている。女は、観客席へと妖艶に微笑むと、次の瞬間にはその姿を霧の中へと溶かすように消し去った。


​「フィリピンの夜を支配する、最悪の夢魔! 姿を隠し、内臓を啜る、神出鬼没の恐怖! アスワングだ!」


 ​獲物が潜む、混沌の森。その絶望的なフィールドに、日本の五人目の代表が姿を現す。


 ​闘技場そのものが、巨大な地震に見舞われたかのように激しく揺れる。森と化したアリーナの地面が、八箇所で同時に爆発的に隆起した。


​「な、なんだあっ!? 地震か!?」


「——否」 


 白澤の声が、畏怖に震える。


「——神が、お目覚めになられたのです」


 ​土中から現れたのは、山のように巨大な蛇の、八つ叉の頭。一つは業火を纏い、一つは絶対零度の冷気を放ち、また一つは雷を、毒を、風を、闇を、光を、そして大地そのものを司る。


 古事記に記された、日本最古にして最強の龍神。


 ​「出雲の地に眠る、八百万の神々さえも喰らった、原初の大災害! 八岐大蛇やまたのおろち、その神威をここに顕現させるッ!!」


 ​八つの頭の中心。無数の巨大な鱗に守られた祭壇のような場所に、一人の巫女が静かに佇んでいた。


 代々、大蛇への生贄を捧げてきた一族の末裔、千代ちよ。彼女は、主の力を恐れてはいない。むしろ、その破滅的な神威に、恍惚とした表情さえ浮かべていた。 


​「さあ、第五回戦、開始ッ!」


 ​しかし、戦いは始まらない。


 八岐大蛇は、その八つの頭で周囲を見渡し、明確な敵意を放つ。だが、相手の姿はどこにもない。


 濃霧に満ちた森は、完全に沈黙している。


​「どこだ……どこに隠れた、卑小な虫けらは……!」

 炎の頭が、怒りに咆哮する。


​「見つけ次第、喰ろうてくれるわ……!」


 毒の頭が、牙から毒液を滴らせる。​その、刹那だった。


​「——ギィヤアアアアアッ!?」


 ​悲鳴を上げたのは、雷を司る頭だった。その巨大な首筋に、何者かによって、深く、鋭い傷が刻みつけられていたのだ。


 血飛沫が舞い、紫電が明滅する。しかし、攻撃主の姿は、どこにも見えない。攻撃があったはずの場所には、ただ、ゆらりと揺れる霧があるだけ。


 この混沌の森の中では、どちらが「狩人」で、どちらが「獲物」なのか、誰にも分からなかった。

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