第九話 破魔の風、鎮魂の太刀
闘技場は、二つの相反する概念がせめぎ合う、混沌の
バンシーの慟哭は、全ての色を褪せさせ、存在の熱を奪う、灰色の霧。
大天狗の神風は、全ての穢れを祓い、秩序の威光を示す、白金の竜巻。
霧は竜巻を内側から侵食し、風は霧をその力で吹き払う。拮抗。一進一退の攻防は、しかし、徐々に、確実に大天狗側を不利へと追い込んでいた。
「ぐっ……!」
大天狗の膝が、再び震える。神風を維持するために、彼の霊力は凄まじい勢いで消費されていく。
それ以上に、巫女である小夜の負担は限界に近かった。結界を維持する彼女の鼻から、つぅ、と血が垂れる。バンシーの呪いは、それほどまでに執拗で、根源的だった。
「まずいぞ! 大天狗様の神風が、わずかに押し返されている! このままでは……!」
一つ目小僧が悲鳴を上げる。
(このままでは、ジリ貧か……!)
大天狗は、自らのプライドが招いた苦境に、奥歯を噛み締めた。小細工と侮った、人の子の祈りがなければ、今頃はとうに心が折れていた。そして、その巫女が、今、自分のために限界を迎えようとしている。
初めて、彼は自らの力だけでは届かぬ領域があることを、認めざるを得なかった。
(……小夜!)
初めて、大天狗は一方的な命令ではなく、「問いかけ」の思念を送った。
(聞こえるか。私の風に、お前の感覚を乗せろ。あの女の慟哭の中心を、その心の目で見抜くのだ!)
それは、師が弟子を信じ、己の背中を預ける行為。その信頼が、小夜の消えかけていた意識に、最後の力を与えた。
(——はい、師匠!)
小夜は、現実の視界を閉じた。全ての意識を、大天狗が巻き起こす神風との同調に注ぐ。風が、彼女の目となり耳となる。絶望の霧の中を、浄化の風が切り拓いていく。
その風の先端で、彼女は「見た」。
バンシーの魂の、その中心を。
そこにあったのは、憎悪でも、悪意でもなかった。ただ、果てしなく広がる、哀しみの湖。霧深い古戦場で、鎧をまとった騎士の亡骸を抱きしめ、永遠に涙を流し続ける、一人の女の幻影。
彼女は戦っているのではない。ただ、愛する者を失った、その瞬間を、永遠に繰り返し続けているだけ。
(師匠……! あの人は、戦ってはいません……! ただ、弔っているのです……! 終わらないお葬式を、たった一人で……!)
小夜からの思念を受け取った大天狗は、全てを悟った。
なるほど。それでは、祓うことはできぬ。悲しみは、穢れではない。愛する者を悼む心は、断罪されるべき悪ではないのだから。
ならば……。
力で浄化するのでなく、
「……見事だ、小夜」
大天狗は、ふっと笑みを漏らした。それは千年の修行の中で、彼が初めて見せた、弟子の成長を喜ぶ、師の顔だった。
彼は、神風を放つのをやめた。そして、羽団扇を、全く異なる軌道で、静かに、薙いだ。
「奥義——【
巻き起こったのは、風ではない。その逆。闘技場に存在する、全ての音、全ての振動、全ての光さえも吸い込む、絶対的な『無』。慟哭の呪詛が、鋭利な刃物で切り裂かれたかのように、その中心から断ち切られた。
シン………………。
闘技場の全てが、完全な静寂に包まれた。永遠に続いていた葬送曲が、初めて止まった。バンシーの瞳から、呪詛の光が消え、困惑したような、澄んだ光が宿る。
彼女は、目の前に立つ、威厳に満ちた日本の妖怪を、初めて「敵」としてではなく、一人の「存在」として認識した。その一瞬の静寂が、勝敗を分けた。
大天狗の姿は、すでに彼女の目の前にあった。抜かれた刀は、しかし、その刃を向けてはいない。
峰打ちだった。乾いた小さな音と共に、大天狗の太刀の峰が、バンシーのうなじに、寸分の狂いもなく正確に打ち込まれた。それは、相手を傷つけず、ただ意識のみを刈り取る、武人の慈悲の一撃。
バンシーの瞳から光が消え、その体は、糸が切れた人形のように、静かに前方へと崩れ落ちる。その寝顔は、数百年の間、誰にも見せることのなかった、安らかなものだった。
「………………勝者、大天狗ッ!!!」
一拍の静寂の後、一つ目小僧の絶叫が、闘技場に再び「音」を取り戻した。
日本妖怪、四連勝。だが、その勝利の意味は、これまでの三つとは、決定的に異なっていた。
大天狗は、倒した敵に背を向け、力尽きて倒れた巫女・小夜のもとへと静かに歩み寄った。そして、その小さな体を、大きな羽で、優しく包み込んだ。それは、孤高の天狗が、初めて「絆」の温かさを知った瞬間だった。
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