黒い地球に生きるぼく

@12114

黒い地球に生きるぼく

第1章 灰色の朝


空はまだ夜の余韻に包まれていた。街の輪郭はぼやけ、鉛色の雲が重たく垂れ込めている。風はない。まるで世界が息を止め、静かに何かを待っているような、そんな気配に満ちていた。


岩本玲は、いつもの通学路を無表情に歩いていた。石畳の冷たさが足の裏に伝わり、その硬さは彼の心の奥底に沈む何かを呼び覚ます。時間はいつも通りに動いているはずなのに、どこかゆっくりと、ねっとりと流れているような錯覚を覚えた。


学校の門をくぐり抜けると、彼の周りにはいつものざわめきが広がっていた。生徒たちの笑い声、制服の擦れる音、教室の窓から漏れる陽の光。だが、玲の目にはそれらがまるで異世界の幻影のように映った。現実の色がどこか褪せて、形だけが存在しているようだった。


教室の扉を押し開けると、いつもと変わらぬ席に腰を下ろした。窓際の席から見える景色は、枯れかけた桜の木が一本、静かに風に揺れている。遠くの空は、まだ夜の影を引きずって薄暗く、まるで何かに飲み込まれそうな不安定さを孕んでいた。


その日、転校生がやってきた。小倉ミカという名前の少女。彼女は教室の隅にひっそりと座り、誰とも目を合わせようとしなかった。玲は不意に、その静けさに引き寄せられた。


ミカの瞳は、曇り硝子のように透き通っていて、遠くの闇を見つめているかのようだった。彼女の存在は、まるでこの世界の隙間から漏れ落ちてきた光のかけらのように感じられた。


授業が始まり、教室には微かなざわめきが残ったままだった。玲は自分のノートに目を落としながらも、無意識にミカの方へ視線を投げる。彼女は時折、まるで空間を縫うように小さな呟きを繰り返していた。


「使い…」


その言葉が耳に届いたとき、玲の心はわずかに震えた。まるで遠い場所で響いた鐘の音のように、薄く鋭く。彼の中にあった日常の薄氷が、ゆっくりと割れていくようだった。


放課後、玲は図書室で偶然ミカと遭遇した。彼女は一冊の古ぼけた本を手に取り、静かに頁をめくっていた。玲は何となく声をかけてみた。


「使いって…何?」


ミカは一瞬だけ目を上げ、薄く笑った。


「夢の中で戦ってるの。地球を救うために。見える?あの異形たち…」


玲は答えに詰まった。現実と非現実の境界線が彼の中で揺らぎ始めていた。彼女の言葉は嘘くさくも、どこか真実の響きを含んでいるように感じられた。


夜、玲は眠りについた。だが、その夢は彼の想像を超えていた。薄暗い空間の中で、身体のあちこちがざらつく感触が襲いかかる。彼の前には、無数の目玉が蠢く異形の使いが立ちはだかっていた。


その姿は、腐敗した肉の壁に覆われたように醜く、低いうめき声を上げている。玲は叫ぼうとしたが、声は喉に詰まり、恐怖が彼を呑み込んでいく。


夢から覚めた彼の額には冷たい汗が光っていた。現実の世界は何も変わっていないはずなのに、彼の心の中では何かが確実に動き出していた。


日常の灰色のベールが、静かに裂けていくのを玲は感じていた。



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第2章 暗闇のささやき


放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘のように消え失せていた。窓の外から差し込む夕陽が、埃混じりの空気を鈍く赤く染めている。静かな教室の中、玲は机に肘をつき、ぼんやりと外の風景を見つめていた。枯れ葉が風に舞い、地面を這うようにして落ちていく。そのささやかな動きさえ、彼の心には不協和音のように響いた。


「玲くん、夢は見た?」


隣の席に静かに座った小倉ミカの声は、低くて掠れていた。まるで遠い空の奥から届いたささやきのように、玲の耳に忍び込んだ。


「……夢?」


玲はゆっくりと首を傾げる。ミカの瞳は依然としてどこか遠くを見ている。淡く光る彼女の目の奥には、見たこともない深淵が広がっていた。


「使いが現れたの。あの夢の中に……」


その言葉は、まるで古い錆びた鎖が解けるように、玲の胸の奥に響いた。信じたくない気持ちと、なぜか確信めいた感覚が入り混じる。ミカの語る世界は常軌を逸しているはずなのに、彼の心は知らず知らずその闇に惹きつけられていた。


夜。玲は初めて使いの姿を夢に見た。薄暗い空間、空気は粘度を持ち、重苦しく彼の体を包み込む。足元には何かが蠢き、視線を上げると、そこには異形の使いが立っていた。


その姿は言葉では言い表せないほどに醜く、奇怪だった。細長い腕は無数の関節で折れ曲がり、指先は鋭く尖っている。肌は腐敗した肉のように薄く剥がれ、無数の目玉が全身に散らばってはじっと彼を見つめていた。呻き声のような低い唸りが、耳の奥でざわめく。


玲は恐怖に押し潰されそうになりながらも、逃げ場を求めて必死に走った。だが、どこへ行っても暗闇は彼を追い詰め、出口は見えなかった。叫ぼうとしても声は喉の奥で詰まり、冷たい汗が背中を伝う。


目覚めたとき、玲は布団の中でひとり震えていた。額からは汗が滴り落ち、部屋の薄明かりが壁に揺れている。夢は夢であるはずなのに、胸のざわつきは簡単には消えなかった。


翌日、教室で玲はミカを探した。彼女はいつも通りに静かに座り、じっと何かを見つめていた。


「昨日の夢、覚えてる?」


ミカの声はほとんど囁きに近く、玲は小さく頷いた。夢の中の使いの姿が脳裏に蘇り、冷たい吐息が喉を塞ぐ。


「使いはただの幻じゃない。あの存在は、現実の世界にも影響を及ぼしている。私たちはその波の中にいる」


その言葉に、玲の中の何かが揺らいだ。世界の見え方が、微かにずれていく感覚。現実の境界線がひとつずつ崩れていくような、不安定な足場に立たされているような。


日常は、ただの繰り返しであるはずだった。しかし、ミカの言葉が示す闇は、静かに確実に彼の世界を蝕み始めていた。


玲は自分の目の前にあるものが、真実なのか幻なのか分からなくなっていくのを感じた。友達の笑い声、教室の時計の針の音、窓の外の風の匂い。すべてが遠く霞み、ただ虚ろな影だけが彼の心を覆っていた。


夜になると、使いの夢は再び訪れた。だが、前夜よりもはるかにリアルで、痛みを伴う幻覚のようだった。身体の奥底からじわじわと締めつけられるような感覚、心臓を鷲掴みにされるような冷たさ。使いの目玉が彼の魂を覗き込んでいるかのようだった。


玲は目を閉じても、逃げ場を見つけることができなかった。夢の中の戦いは始まったばかりで、終わりの見えない迷路の中に足を踏み入れたのだと悟った。


だが、それでも、玲はミカのそばにいることを選んだ。彼女の静かな声が、唯一の灯火だった。


「私たち、共に戦わなければならない」


言葉は柔らかく、しかし決して揺らぐことのない意志を帯びていた。


玲はその言葉に微かな希望を感じながらも、胸の奥の闇が深まっていくのを感じていた。



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第3章 使いの影


日が沈みきる前の、あの薄汚れた夕暮れの空気は、どこか粘り気を帯びていた。玲は教室の窓際に座り、机の冷たさを掌に感じながら外を見ていた。校庭の草は風に揺れてざわめいているが、その音すら遠く、まるで自分の世界がまっぷたつに割れて、片側だけが音を失ったかのようだった。


そのとき、ミカがそっと隣に座った。彼女の影は細長く伸び、まるで異界の使いが忍び寄るような不気味さを伴っていた。彼女の目はまたあの澄んだ深淵を湛え、微かに震える唇が淡々と語りだした。


「使いはね、人の心の隙間に入り込むの。誰にも見えないけれど、確かにそこにいる。あなたも、感じているでしょう?」


玲は答えを探すために唇を動かしたが、言葉はまるで鉛のように重く、喉に詰まった。彼女の言葉は正気のものではない。しかし、それでも彼の心の奥底に生まれつつある違和感は否定できなかった。


その夜、夢は前夜よりも鮮明で凄惨だった。薄暗い空間に、ひび割れた鏡の破片のように散らばる光と闇。使いたちはうねりながら、彼の意識の端を揺さぶった。腐敗した肉の臭い、爪先で掻き毟られるような痛み、そして何よりも目玉の群れが彼をじっと見つめ、魂の奥底を覗き込もうとしているのを感じた。


玲は身動きできず、体中に冷たい汗が流れ出した。使いの腕が彼の胸に絡みつき、爪が肉を抉るように深く食い込んだ。その痛みは現実のものだった。声にならない叫びが喉の奥で震え、彼の意識はかすかに遠のきかけた。


夢から覚めたとき、彼は床にうつ伏せになっていた。血の味が口の中に広がり、唇にはひび割れた痕が残っていた。まるで夢の痛みが現実の体を侵食したかのようだった。


翌日、玲はミカのもとへ向かった。廊下のざわめきも彼の耳には遠く、全てがぼやけて見えた。ミカは相変わらず淡い声で、しかし確信に満ちて言った。


「私たちは、使いに抗わなければならない。夢の中だけじゃない。現実にも侵食が始まっている。」


玲はその言葉を反芻した。彼自身も既に、夢と現実の境界が曖昧になりつつあるのを感じていた。友人たちの笑顔も、教室の窓の外の風景も、まるで蜃気楼のように揺らぎ、壊れていく。


数日後、二人は初めて夢の中で“戦う”ことになった。夢の空間は無限の暗闇で満たされ、周囲には異形の使いたちが蠢いている。ミカは淡々と手を動かし、まるで予め決まった舞踏のように動く。玲も力を振り絞り、夢の中の身体を動かした。


使いの一体が、異様に長い指を伸ばし、玲の腕を掴んだ。爪は皮膚を掻き裂き、鋭い痛みが彼の意識を揺さぶる。だが、ミカの声が響いた。


「玲、逃げないで。こっちを見て。」


玲は必死に目を合わせようとし、ミカの小さな手が彼の手を取った。手のひらは冷たく硬いのに、どこか暖かさも感じられた。


「これはただの夢じゃない。あなたも戦える。」


その言葉に力が宿った。玲は恐怖に震えながらも、拳を握りしめて使いに立ち向かった。


夢の戦いは苛烈だった。使いたちはその醜い体をねじ曲げ、叫び声のような唸りを上げて襲いかかってくる。肉の裂ける音、骨の砕ける鈍い響きが玲の夢を染め上げていく。痛みは鮮烈で、現実に戻ったあとも体の奥にじんわりと残った。


その夜、玲は目を閉じたまま深いため息をついた。夢と現実が混ざり合う境界で、彼の心はゆっくりと蝕まれていた。だが、隣にいるミカの存在が彼を支えていた。


「一緒に、ここから逃げよう。」


そうミカが囁く声は、まるで暗闇の中の唯一の灯火だった。



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第4章 境界線の揺らぎ


玲の胸は重く、まるで底なしの泥沼に沈み込むような感覚に囚われていた。朝の校舎はいつもより静かで、彼の足音だけがひときわ響いた。教室の扉を押すと、そこには小倉ミカがいた。彼女はいつものように、静かに、しかしどこか遠くを見つめていた。


「玲くん、今日は夢、見た?」


その声は微かに震え、まるで誰かに聞かれるのを恐れているかのようだった。玲は黙って頷いた。言葉にすれば、どこかが壊れてしまいそうだった。


夢はただの夢ではなかった。あの醜い使いは、確実に玲の心と体に爪痕を残していく。毎晩、夢の中で繰り返される戦いは、苛烈で、痛ましく、現実の境界線を曖昧にさせていった。


ミカはその日の放課後、玲を校舎裏の古い倉庫へと誘った。周囲は薄暗く、壁のひび割れから冷たい風が入り込んでいた。そこで彼女は静かに言った。


「ここは、使いの境界線が薄い場所。」


玲は薄暗い空間に目を凝らした。空気は鉛のように重く、息苦しさを感じた。ミカの言葉に、不安とともに奇妙な好奇心が湧いてきた。


「境界線?」


「夢と現実が溶け合うところ。ここにいると、使いの影が見えることがある。」


ミカの瞳が揺らいだ。彼女の身体は儚く、小さな声が暗闇に吸い込まれていくようだった。


その夜、玲の夢はさらに深い闇へと沈み込んだ。使いの群れが蠢き、彼の意識を絡め取る。逃げ場はなく、叫びは闇に呑み込まれた。身体中に刻まれた痛みが現実の肉体にも広がっていくのを感じた。


だが、その中でミカの声だけは鮮明に響いた。


「玲くん、諦めちゃだめ。私たちはまだ負けていない。」


玲はその言葉にすがるように目を開け、薄暗い部屋の中で震えながら息を整えた。夢の中の戦いは彼らを変えていく。心も身体も蝕みながら、しかし二人は共に歩み続けていた。


日常の灰色の壁は、少しずつ割れ始めている。使いの影が確かに現実の隙間から忍び寄り、玲の視界を狂わせていく。しかし彼はまだ、その真実の一端すら掴めずにいた。



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第5章 揺らぐ灯火


放課後の教室は、いつもより冷たかった。外の空気は灰色に澱み、遠くでカラスの鳴き声が一羽、寂しげに響いていた。玲は席に着くと、無意識に机の上に置かれたミカのノートを見つめていた。文字は整然と並び、奇妙な詩や断片的な図形が散りばめられている。


しかし、その文字の間に、どこか狂気じみた熱が滲んでいるのを彼は感じ取った。ミカの言葉は、ただの“電波”ではなく、何か深淵の底からの叫びのようだった。


「玲くん……」


ふいに彼の肩に触れた細い手。その冷たさに、玲の体が小さく震えた。振り返ると、ミカの顔色が青白く、唇は薄く割れていた。彼女の目はいつもと違い、焦点が定まらず、まるで遠くの闇を見つめているようだった。


「熱が……あるのかもしれない」


玲は心配そうに呟き、彼女の額に手を当てた。熱は確かに伝わり、彼の胸に重くのしかかった。ミカは微かに笑い、けれどその笑顔はどこか痛々しく、彼の胸を締めつけた。


夜が訪れると、ミカは静かに寝室へと向かった。玲もまた、自分の部屋で身動きが取れずにいた。夢はますます鮮明で、痛ましく、使いの姿は膨れ上がるように増え続けていた。


夢の中で使いは一体、また一体と現れ、玲の心と体を鋭い爪で抉っていく。ミカの声だけが遠くで響く。


「負けちゃダメ……玲くん……」


しかし、彼女の声は弱々しく、まるで風に溶けて消えそうだった。


翌朝、玲はミカの姿を見つけた。彼女はベンチに腰掛け、肩を震わせていた。顔には涙が伝い、その細い身体は明らかに弱っていた。


「ミカ……」


玲の声は震え、彼女に駆け寄る。だが、その瞬間、視界の端に黒い影が蠢いた。使いの幻影。夢の中だけの存在だと思っていたものが、現実の隙間から侵食しているのか。


「玲くん……私、もう……」


言葉は途切れ、ミカの体はふらりと崩れ落ちた。玲は必死に彼女を抱き止め、冷たくなっていく身体を感じた。


世界は一瞬で灰色に染まり、音は遠のいた。地球の色が吸い取られるように、黒に覆われていく錯覚に襲われた。


そして、現実も夢も区別のつかぬ彼の視界に、使いは静かに立ち尽くしていた。



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第6章 黒の波紋


朝の光は、まるで汚れたガラス越しに漏れるように弱々しく、玲の部屋をぼんやりと照らしていた。けれどその光は、どこか不自然なほど鈍く、灰色のベールに覆われているようだった。彼の瞳は疲弊し、眠りは浅く、夢の影が現実にまで押し寄せていることを痛感させていた。


ミカはもう学校に来なかった。玲が彼女の机に置かれたノートを見たとき、そこには奇妙な文字と図形がびっしりと書き込まれていたが、彼女の筆跡は乱れ、濃く何度も塗り潰された痕がいくつも残っていた。まるで、己の心の奥底の闇を引きずり出そうとしているかのようだった。


そのノートの中に、短い一文が書かれていた。


「使いは、世界の隙間に巣食う。私はその狩人。」


玲はページを閉じ、深い闇に沈み込むような感覚に襲われた。


夜になると、夢はもはや夢ではなくなっていた。使いは形を変え、得体の知れない異形の姿で彼の意識に侵入してきた。彼らの皮膚は薄く、湿ったように光り、眼球が無数に蠢いていた。長く伸びた指先は糸のように細く、触れるだけで皮膚を腐らせるかのようだった。


玲は叫びたかったが、声は出ず、ただその気持ち悪さに耐え続けた。使いの群れは彼の心を裂き、無限に押し寄せる波のように呑み込もうとしている。


そして、あの夜。ミカの幻影が夢の中に現れた。だが、彼女の顔は蒼白で、笑顔は薄く剥がれ落ちる仮面のように歪んでいた。


「玲……助けて……」


彼女の声は蜃気楼のように揺らぎ、玲の心に刺さった。彼は手を伸ばしたが、指先は掴むことができなかった。ミカはゆっくりと使いの影に包まれていく。


現実世界でも、使いの影は確実に広がっていた。玲の視界に時折映る黒い塊、学校の廊下の隅で蠢く得体の知れない影。友人たちの笑顔は遠くなり、彼の孤独は深まった。


玲は気がつくと、放課後の校庭の隅で一人立っていた。周囲の景色が歪み、地面がひび割れ、そこから黒い霧が溢れ出すようだった。


「玲くん……」


背後からミカの声がした。だが振り返るとそこには誰もいない。声は幻聴だったのかもしれない。彼の足元で、地面が黒い液体のように染み出していた。


玲は目を閉じ、深呼吸をした。だが、彼の中の闇は広がるばかりで、心の奥底に小さな灯火が消えそうだった。


「もう、逃げられない……」


そう呟いた彼の首筋に、冷たい何かが触れたような気がした。


夜の闇は、ただの闇ではない。世界の裂け目、使いの世界と繋がる裂け目だった。玲はもう、その闇の中で孤独に戦い続けるしかなかった。



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第7章 沈黙の螺旋


玲の世界はゆっくりと、確実に崩れていった。朝の教室の窓の向こう、世界は黒ずみ始め、色を失い、無機質な影だけが蠢いていた。クラスメイトの笑い声も、遠い幻のように聞こえ、まるで自分だけが別の次元に取り残されたようだった。


ミカはもう帰らなかった。彼女の席は空白で、ノートも鞄もそこにあったはずが、いつの間にか消えていた。玲の胸にはぽっかりと穴が空き、どうしようもない虚無が押し寄せた。


夜になると、使いの夢は狂気を孕んで暴走した。彼らは狂ったように形を歪め、肌は剥がれ落ち、露出した筋肉が蠢いている。無数の眼が玲を凝視し、その唇からは言葉にならぬ低い唸りが漏れた。


玲はその中で、ミカの姿を探した。だが彼女はもうそこにはいなかった。唯一残ったのは、薄暗い空間に浮かぶ彼女の声だけだった。


「玲くん、私を忘れないで……」


しかし、その声も次第に遠のき、消えていった。


現実でも、使いは確かに姿を現した。玲の目の前に、黒くねじれた影が浮かび上がり、彼の呼吸を奪った。だがそれは幻覚かもしれないという不安が、彼の理性を蝕んだ。


友人に助けを求めようとしたが、彼の声は掻き消され、誰も彼の叫びを聞かなかった。孤独は深まり、闇は全てを覆った。


玲はある夜、校舎の屋上に一人立った。冷たい風が彼の身体を切り裂き、下の世界は底なしの黒に沈んでいるように見えた。


「ミカ……」


彼は叫んだ。だが返事はなく、ただ風が虚しく鳴るだけだった。


彼の手には、ミカの形見のペンダントが握られていた。薄い金属は冷たく、そして重かった。


その瞬間、闇が彼を包み込み、世界は沈黙した。玲は首にロープをかけるため、静かに身を投げ出した。



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最終章 黒い終焉


世界が歪み始めたのは、ミカが死んでからだった。

その日、学校の空気は鉛のように重く沈み、日差しは薄く、まるですべてが滅びに向かう予兆のようだった。玲の心もまた、深淵へと引きずり込まれていくようだった。


朝、目覚めると部屋の壁が黒く染まり、見慣れたはずの世界は何か異質で、冷たく、拒絶するものに変わっていた。息を吐くたび、空気が重く、重く胸を締めつける。彼は震える手でミカのペンダントを握り締めた。もう、あの温もりはどこにもない。


「ミカ……お前は本当に、いなくなってしまったんだな……」


声は空虚に響き、何も答えなかった。


外へ出れば、世界は黒い霧に包まれていた。木々は影のように立ち、校庭は死んだ川のように乾ききっていた。使いがそこかしこに蠢き、彼の視界の端を走る。しかし、それは幻覚なのかもしれない。玲にはもう、何が現実で何が夢なのか分からなかった。


夢の中では、使いは日に日に強くなっていった。逃げ場もなく、戦うたびに自分の魂が引き裂かれるような痛みが走る。ミカの声が幻として響く。


「玲くん……まだ、戦えるよ……」


だがその声は次第に掠れ、消えていく。


彼はふと気づいた。使いも、黒く染まった世界も、ミカもすべてが自分の心の中の産物だということに。現実は、彼が自らの絶望と孤独に沈み込んだ結果生まれた幻だった。


その真実に打ちのめされ、玲は呟く。


「もう、終わりにしよう……」


静かな夜。彼はミカが眠る場所を求め、心の闇の彼方へ旅立つ。首にロープをかけるその瞬間、世界は静寂に包まれた。


黒い終焉の中、玲の存在は消えていく。すべては終わり、ただ闇だけが残った。



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