エピローグ
あの夜から、幾年かの歳月が流れた。
砂土島を覆っていた、あの陰鬱で息苦しい雰囲気は、嘘のように霧散していた。かつて若者たちを次々と死へと誘った、名状しがたい「飢餓」の気配は消え、島には穏やかな時間が流れている。
子供たちの笑い声が、以前よりも高く、明るく響くようになったと、村の老人たちは語り合った。あの忌まわしい連続自殺事件は、もはや遠い過去の悪夢として、人々の記憶の隅へと追いやられつつあった。
島民たちは、その平穏が、一人の少年の犠牲の上に成り立っているという事実を知ることはない。
嘉永の家には、すっかり白髪の増えた母親が、今も一人で静かに暮らしている。近所の人々は、彼女の息子である綾凡は、本土の高等な学校へ進学し、優秀な成績を収めているのだと噂した。
誰も、彼が島から一歩も出ていないことなど知りようもなかった。母親は、その噂を否定も肯定もせず、ただ寂しげに微笑むだけだった。そして時折、誰にも見られぬよう、止洞穴のある方角を、何かを悼むように、あるいは祈るように、じっと見つめるのだった。
嘉永綾凡という少年の存在は、まるで干潮の砂浜に書かれた文字のように、人々の記憶から急速に薄れ、消えていった。彼の同級生でさえ、卒業アルバムに写る彼の顔を見ても、「こんなやつ、いたかな」と首を捻るばかり。彼の席、彼の声、彼の記憶。その全てが、この世界の因果律から、丁寧に、しかし確実に「抹消」されていったのである。
だが、彼は存在している。
島の最も高い断崖の上に、彼はしばしば佇んでいる。その姿は、最後に目撃された中学二年生の頃から、まるで時が止まったかのように変わっていない。彼は、何の感情も浮かばぬ瞳で、眼下に広がる村の営みと、その向こうの広大な海を、ただ見つめている。
彼の知覚は、もはや人間のものではない。風の囁きに星々の運行法則を聴き、波の律動に次元の震えを感じ取る。食事も、睡眠も、彼にはもはや必要ない。彼はただ、この島の、そしてこの世界と、名状しがたき外なる宇宙との間の、歪みの「調律」を続けるだけだ。
彼は時折、あの止洞穴の奥深くへと姿を消す。
黒い石の台座は今もそこにあり、その上には『象牙の書』が開かれている。彼の役目は、一つの脅威を退けただけで終わりはしない。宇宙の綻びは無数にあり、この世界の薄い膜を破って、いつ、いかなる冒涜的な存在が滲み出してくるとも限らないからだ。彼は、次なる「時」に備え、永遠に禁断の知識を読み解き続ける。
いつからか、砂土島では、子供たちの間で新たな言い伝えが囁かれるようになった。
「止洞穴には入っちゃいけないよ。奥にはね、島の平穏を守っている『理の番人』がいるんだ。番人は、昔は人間だったんだって。でも今は、決して眠らず、決して語らず、ただ、空の星が道を間違えないように、ずーっと見つめ続けているんだ」
嘉永綾凡という少年が失った、ありふれた幸福。その代償の上に築かれた偽りの平穏を、今日もまた、島の夕日が赤く、赤く染めていた。
洞穴に座すもの 火之元 ノヒト @tata369
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