第二章:沈黙の伝染

​ 月曜日の朝は、いつも以上に空気が重く澱んでいるように感じられた。教室の扉を開けると、ざわめきの中に奇妙な静けさが混じっている。視線を巡らせると、すぐ理由が分かった。三列目の窓際、鈴木の席が、がらんと空いている。


​ ホームルームが始まると、担任の教師は事務的な口調で「鈴木は体調不良で休みだ」とだけ告げた。その声には何の感情も乗っておらず、まるで天気の話でもするかのようだ。だが、生徒たちの間には、声にならない囁きが伝播していくのが分かった。隣の席のやつが、肘で俺の脇腹をつつく。


「おい、綾凡。また“アレ”じゃないか?」


「アレって何だよ」


「とぼけんなよ。『沈黙の日』だよ。昨日、鈴木のやつ、一日中寝てたって噂だぞ」


 馬鹿馬鹿しい。俺は心の中で毒づいた。ただの風邪か何かだろう。子供の噂話なんて、いつだって尾ひれがつくものだ。だが、脳裏に昨日の母の、恐怖に引きつった顔が蘇り、喉の奥に何かがつかえたような不快感が走った。


​ その不快感は、一日を通して俺の頭から離れなかった。休み時間になるたびに、教室のあちこちでひそひそと鈴木のことが話題に上る。誰もが声を潜めているのに、その内容は恐ろしいほど具体的だった。曰く、昨日、彼の家に遊びに行った友人が何度インターホンを鳴らしても応答がなかったこと。曰く、彼の母親が青白い顔で「今、寝ているので」とだけ繰り返していたこと。


 まるで、村全体が共有する悪夢の脚本を、誰もが知っているかのようだった。


 ​ 不意に、先週の記憶が蘇る。確か木曜日だったか、廊下でばったり会った鈴木が、俺にこう話しかけてきたのだ。


「なあ、嘉永。お前、止洞穴よすのほらあなって行ったことあるか? あの奥って、どうなってるんだろうな。大人が誰も近づかないってことは、何かすげえモンが隠してあるんじゃねえか」


 その時の俺は「さあな、興味ないね」と素っ気なく答えただけだった。鈴木はつまらなそうに「だよな」と笑って去って行った。


 あの時の、彼の妙に輝いて見えた目。あれは、ただの好奇心だったのだろうか。それとも――。


 ​ 重い足取りで家に帰ると、玄関のドアを開けた瞬間から、家の中の空気が張り詰めているのが分かった。テレビがつけっぱなしになっており、リビングから漏れ聞こえてくるローカルニュースのアナウンサーの声が、やけに大きく響く。


「……本日未明、砂土村の中学生、鈴木拓也君が、自宅から行方不明になっていることが分かりました。警察では、家出と事件の両面で捜査を……」


 リビングを覗くと、母さんがソファに座り込み、両手で顔を覆っていた。その指の間から、か細い嗚咽が漏れている。テレビ画面に映し出された鈴木の顔写真――俺の記憶にある、あの屈託のない笑顔――は、まるでこの世のものではないかのように色褪せて見えた。


 他人事だったはずの事件が、突然、生々しい手触りをもって俺の喉元に突きつけられた。昨日まで、すぐそこにいたはずの人間が、消えた。


「母さん……」


 俺が声をかけると、母さんはびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。その目は虚ろで、焦点が合っていない。


「……だから、言ったでしょう……あそこには……あの洞穴にだけは、近づいちゃいけないって……」


「洞穴? 鈴木が洞穴に行ったってことか? 母さん、何か知ってるのか!」


 俺が問い詰めると、母ははっと我に返ったように口を固く結び、激しく首を横に振った。「何も知らない。私は、何も知らないわ」と繰り返すばかりで、その瞳には明らかに、何かを隠す者の怯えが浮かんでいた。


 ​ その夜、俺は自分の部屋で眠れずにいた。


 天井の染みを眺めていると、鈴木の言葉、母の涙、ニュースのアナウンサーの無機質な声、そして、この島全体を覆う、言葉にならない「何か」の気配が、渦を巻いて俺の思考をかき乱す。


 ……なぜ鈴木は消えた?


 ……なぜ母はあんなに洞穴を恐れる?


 ……あの「沈黙の日」とは、一体何なんだ?


 分からない。何もかもが、不気味な霧の中に閉ざされている。そして、その霧の中心に、黒々とした口を開けているのが「止洞穴」であることだけは、確信できた。


 このまま、何も知らずに、この訳の分からない恐怖に怯えながら生きていくのか?


 ――冗談じゃない。


 衝動は、ほとんど怒りに近かった。俺の退屈で平凡な日常を、得体のしれない「何か」が好き勝手に踏み荒らすことを、俺は許せなかった。


 自分の目で確かめなければならない。この恐怖の正体を。


 ​ 俺はベッドから抜け出し、学習机の引き出しから安物のLED懐中電灯を掴んだ。軋む階段を抜き足差し足で下り、誰にも気づかれぬよう、そっと玄関の鍵を開ける。


 冷たい夜気が肌を刺す。見上げた空には月もなく、星も見えない。まるで墨を流したかのような闇が、世界を飲み込んでいた。


 目的地は、一つしかない。


 島の禁忌。大人たちが決して語ろうとしない場所。

 一歩、また一歩と、俺は闇の中へと足を踏み出した。恐怖はあった。だが、それ以上に、真実を知りたいという渇望が、俺を前へと突き動かしていた。


 やがて、目の前に、闇よりもさらに濃い闇が、巨大な獣の顎のようにぽっかりと口を開けているのが見えた。


 止洞穴だ。


 湿った腐臭と、岩が発するような冷気が、入り口からとめどなく溢れ出している。その暗闇の奥から、まるで俺を呼んでいるかのような、幻聴ともつかない微かな響きを感じた。


​ ここに来るべきじゃなかった……。


 本能が、全身の細胞が、危険信号を叫んでいる。分かる……ここに来た以上、俺はもう昔の俺には戻れない……。


 だが、俺の足は、もう止まらなかった。

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