第3話 銀金の髪、紫の瞳

第1節 朝の風景


 朝の光が、鏡の城の歪んだ壁面に複雑な模様を描いていた。アイリス・ノルヴェインは、ジークが用意してくれた客室の窓から、その不思議な光景を眺めていた。


 深い藍色の髪が、朝日に照らされてかすかに輝く。寝癖で跳ねた数本の髪を指で梳きながら、灰銀の瞳には、まだ眠気が残っていた。


「本当に、ここにいていいのかな……」


 昨日の出来事が、まるで夢のようだった。結界を素通りし、城の最深部まで迷い込み、兄の友人だというジーク・ヴァルドナインと出会った。


(兄さんも、この景色を見ていたんだろうか)


 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。懐中時計を握りしめると、金属の冷たさが現実を教えてくれた。


 コンコン、と控えめなノックの音。


「アイリス、起きているか?」


 ジークの低い声に、アイリスは慌てて身支度を整えた。旅装のままだった服を整え、髪を簡単に結い直す。


「は、はい! 今開けます」


 扉を開けると、漆黒の髪をきちんと整えたジークが立っていた。黒革のロングコートは朝の光を受けて鈍く輝き、琥珀色の瞳が、心配そうにアイリスを見つめている。


「よく眠れたか?」


「はい、ベッドがふかふかで……村の藁布団とは大違いでした」


 アイリスの素直な返答に、ジークはかすかに口元を緩めた。その表情の変化に、アイリスは少しほっとする。この人は、怖い人ではないのだ。


 しかし、ジークはすぐに真面目な表情に戻った。


「朝食の前に、君に会わせたい人がいる」


「会わせたい人?」


「ああ。この城の管理者だ」


(管理者……偉い人なんだろうな)


 ジークの案内で廊下を歩きながら、アイリスは不思議な感覚に包まれていた。昨日は迷子になったはずなのに、今日は城の構造がなんとなく分かるような気がする。右に曲がれば大きな窓のある廊下、左に行けば螺旋階段——


(変だな……でも、きっと気のせい)


 首を振って、妙な感覚を追い払う。


 大きな扉の前で、ジークが立ち止まった。扉には複雑な紋様が刻まれており、見ているだけで目が回りそうだった。


「ここが管理者の執務室だ。クラティア議長は……少し変わった人だが、君のことを理解してくれるはずだ」


「変わった人?」


 ジークは答える代わりに、扉に手をかけた。


 扉が開くと、そこには予想外の光景が広がっていた。


 部屋中に浮かぶ無数の鏡。大小様々、形も円形、四角、六角形と多彩だ。それぞれが異なる景色を映し出している。ある鏡には森が、別の鏡には海が、また別の鏡には見たこともない都市の風景が映っていた。


 その中央に、一人の女性が立っていた。


 白銀の髪は腰まで届き、まるで月光を紡いだかのような輝きを放っている。淡い青灰の瞳は、どこか遠くを見つめているようで、この世のものとは思えない神秘性を湛えていた。透明な外套が、光を受けて虹色に輝いている。


「ようこそ、アイリス・ノルヴェイン」


 クラティア・ラルゼンの声は、鈴を転がすような澄んだ音色だった。


「あなたが『観測者』ね」


「観測者……?」


 アイリスは首を傾げた。その言葉の意味が分からない。また新しい呼び名が増えた気がする。


「ふふ、今は気にしなくていいわ」


 クラティアは優雅に微笑んだ。その笑みには、まるで全てを見通しているような深みがあった。


「それより、朝食にしましょう。きっとお腹が空いているでしょう?」


 言われてみれば、昨日から何も食べていない。アイリスのお腹が、タイミング良く小さく鳴った。


「あ……」


 顔を赤くするアイリスに、クラティアは楽しそうに笑った。


「正直でよろしい。では、参りましょう」


 食堂へ向かう途中、アイリスは城の中を歩く人々の視線を感じていた。魔導士らしき黒いローブの集団、研究員らしき白衣の人々、警備兵たち。みんな、自分を見ては小声で何か話している。


「昨日の結界の件か……」


「信じられない。第三級防御結界を素通りだなんて」


「でも、見た目は普通の女の子じゃないか」


「だからこそ恐ろしいんだよ」


 聞こえてくる会話に、アイリスは肩を縮めた。


「私、何か変なことしたでしょうか……」


 不安そうなアイリスに、ジークが答えた。


「君が結界を通り抜けたことは、もう城中の噂になっている」


「そんなに珍しいことなんですか?」


「珍しいどころか、前代未聞だ」


 ジークの言葉に、アイリスはますます肩身が狭くなった。


(やっぱり、私って変なんだ……)


 兄の言葉を思い出す。『私に効かないなら、それでいい』


 でも、本当にそれでいいのだろうか。みんなを困らせて、怖がらせて——


「気にすることはないわ」


 クラティアが優しく声をかけた。


「人は未知のものを恐れる。でも、理解すれば恐れは消える。時間が解決してくれるわ」


 その言葉に、アイリスは少し救われた気がした。



   * * *



第2節 銀金の髪の少女


 食堂は、すでに多くの魔導士や研究員で賑わっていた。長いテーブルが何列も並び、天井からは魔法の光を放つシャンデリアが下がっている。香ばしいパンの匂いと、スープの湯気が食欲をそそった。


 アイリスたちが席に着くと、周囲がざわめき始める。


「あれが噂の……」


「本当に結界を素通りしたって?」


「ノルヴェイン研究員の妹だとか」


「信じられない……普通の子にしか見えないのに」


 小声での会話が耳に入り、アイリスは俯いた。こういう注目は苦手だ。村でも変わり者扱いされていたが、ここまで大勢に囁かれたことはない。


(早く食べて、部屋に戻りたい……)


 その時、食堂の入り口から明るい声が響いた。


「ジーク様! おはようございます!」


 振り返ると、そこには目を引く少女が立っていた。


 銀金混じりの巻き髪が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。複雑に巻かれた髪は、まるで貴金属を紡いだような不思議な色合いだった。ライラック色の瞳は好奇心に満ちていて、宝石のような輝きを放っている。白銀の制服風ローブは高級そうな生地で作られており、随所に精緻な魔法陣の刺繍が施されていた。


 手にはクリスタルの杖。先端には複雑にカットされた水晶が嵌め込まれ、かすかに魔力の光を宿している。


 レイナ・ミストリュウ。若干十五歳にして、魔導学院の主席を務める天才少女だった。


「レイナか」


 ジークが軽く頷くと、レイナは嬉しそうに近づいてきた。その足取りは軽やかで、まるで踊るような優雅さがある。しかし、その視線はすぐにアイリスへと移る。


「もしかして、この子が噂の……」


 レイナの瞳が、興味深そうに輝いた。研究者が珍しい標本を見つけた時のような、純粋な知的好奇心がそこにあった。


「初めまして! 私、レイナ・ミストリュウ。あなたがアイリス・ノルヴェインさんね?」


 一気に距離を詰めてくるレイナに、アイリスは少したじろいだ。


「あ、はい……」


 アイリスは戸惑いながら頷いた。同年代の少女だが、その堂々とした態度に圧倒される。きらきらと輝く銀金の髪、高そうな服、手入れの行き届いた白い手。何もかもが、田舎育ちの自分とは違って見えた。


「ねえねえ、本当に結界を素通りしたの? どうやって? 特別な術式? それとも魔導具? もしかして古代の秘術?」


 矢継ぎ早の質問に、アイリスは困った顔をした。


「えっと……普通に歩いただけです」


「普通に?」


 レイナの目が真ん丸になった。ライラック色の瞳が、信じられないという色に染まる。


「嘘でしょ? あれは第三級防御結界よ? 私だって突破するのに三十秒はかかるわ」


「三十秒……すごいですね」


 アイリスの素直な感嘆に、レイナは複雑な表情を見せた。


「いや、そうじゃなくて……」


 言いかけて、レイナは言葉を詰まらせた。この子は本当に分かっていないのか、それとも惚けているのか。


 ジークが割って入った。


「レイナ、彼女は特殊な体質なんだ。魔法が一切効かない」


「魔法が効かない!?」


 レイナの声が跳ね上がった。周囲の注目がさらに集まる。


「そんなことって……理論的にあり得るの?」


 レイナの中の研究者魂に火が付いた。ライラック色の瞳が、らんらんと輝き始める。


「ちょっと、ちょっと待って」


 レイナは慌ててクリスタルの杖を構えた。


「ちょっと試してもいい?」


「え?」


 返事を待たずに、レイナが呪文を唱え始めた。


「〈光よ、我が手に集いて球となれ〉」


 レイナが手をかざすと、野球ボール大の光の球が現れた。基礎中の基礎、光魔法だ。しかし、その光球は完璧な球体で、表面には細かい魔法陣が浮かんでいる。基礎魔法でも、これほど精緻に作れるのは上級者の証だった。


「これ、触ってみて」


 アイリスは言われるままに手を伸ばした。


(綺麗な光……温かそう)


 指先が光球に触れた瞬間——


 ポン、という小さな音と共に、光の球が霧のように消えてしまった。


「……嘘」


 レイナの顔が青ざめた。杖を持つ手が、かすかに震えている。


「私の魔法が……消えた?」


「あ、ごめんなさい!」


 アイリスは慌てて謝った。両手を振って、必死に弁解する。


「私、何か悪いことしちゃいました? 壊しちゃったんでしょうか?」


「壊すって……」


 レイナは言葉を失った。魔法が通じない。それは魔導士にとって、理解の範疇を超えた現象だった。存在そのものが、魔法の否定——


 沈黙が流れた。食堂中の視線が、アイリスに集中している。


 そして——


「面白い!」


 突然、レイナの表情が輝いた。さっきまでの困惑が嘘のように、目を輝かせている。


「すごいじゃない! 魔法が効かないなんて、まるで伝説の英雄みたい!」


「え、英雄!?」


 アイリスは慌てて首を振った。


「違います! 私、ただの村娘で……」


「謙遜しないで!」


 レイナはアイリスの両手を取った。その手は思ったより温かく、柔らかかった。


「ねえ、一緒に授業を受けない? あなたのこと、もっと知りたいの!」


 その純粋な好奇心に満ちた表情に、アイリスは戸惑いながらも少し嬉しくなった。同年代の友達なんて、村を出てから初めてだ。


(この人、怖がらないんだ……)


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「でも、私、魔法が使えないから授業とか……」


「大丈夫! 見学でもいいから! ね?」


 レイナの押しの強さに、アイリスは頷くしかなかった。でも、それは嫌じゃなかった。


 ジークが苦笑しながら口を開いた。


「では、今日は基礎理論の授業から始めよう。アイリス、君も同行してくれ」


「はい」


 朝食もそこそこに、レイナはアイリスの隣に座って質問攻めにした。


「ねえ、いつから魔法が効かないの?」


「生まれた時からみたいです」


「へえ! じゃあ治癒魔法も?」


「はい、擦り傷も自然に治るのを待つしかなくて」


「すごい……完全な魔法絶縁体質なのね」


 レイナの瞳が、研究者のそれになっている。アイリスは少し不安になった。


(実験材料みたいに見られてる……?)


 しかし、レイナの次の言葉で、その不安は消えた。


「でも、それってすごく大変だったでしょう? 周りの理解もなかったんじゃない?」


「あ……はい」


 アイリスは驚いた。初めて会った人に、自分の苦労を理解してもらえるなんて。


「私もね、小さい頃は『天才』って呼ばれて、友達ができなかったの」


 レイナは苦笑した。


「だから、なんとなく分かる。『普通』じゃないって、辛いよね」


 その言葉に、アイリスの目が潤んだ。


 こうして、アイリスの学園生活(?)が始まることになった。



   * * *



第3節 規格外の授業


 基礎魔法理論の教室は、階段状になった大きな講堂だった。石造りの壁には、歴代の偉大な魔導士の肖像画が飾られている。天井は高く、アーチ状になった梁には、淡い光を放つ魔法陣が刻まれていた。


 すでに多くの生徒が席に着いている。年齢は様々で、十代前半から二十代まで幅広い。皆、真新しいノートと羽根ペンを用意して、授業の開始を待っていた。


 アイリスは最後列の隅に座ろうとしたが、レイナに引っ張られて前の方の席に着くことになった。


「ここなら先生の説明もよく聞こえるわ」


「でも、目立つし……」


「大丈夫! 私がいるから」


 レイナの配慮に感謝しつつも、注目を集めることに慣れていないアイリスは落ち着かなかった。実際、周囲の生徒たちがひそひそと囁き合っている。


「あれが例の……」


「天井を吹き飛ばしたって本当かな」


「レイナ様と一緒にいるということは……」


 教壇に立った中年の教師が、咳払いをして静粛を促した。灰色の髭を蓄えた初老の男性で、ローブには複雑な紋章が刺繍されている。


「では、授業を始めます。今日は第三位階の召喚術式について説明します」


 教師は振り返ると、黒板に向かった。チョークが踊るように動き、複雑な図形を描いていく。円、三角、四角、星形——それらが幾重にも重なり合い、一つの術式を形成していく。


「この術式の特徴は、外円と内陣の関係性にあります。魔力の流れは、ここからここへ……」


 チョークが線を引きながら、魔力の経路を示していく。


「そして、この接続点で増幅され、中央の核に集約されます」


 生徒たちが真剣にノートを取る中、アイリスは首を傾げていた。


(なんだか、バランスが悪いような……)


 じっと術式を見つめる。円と四角の配置、線の角度、全体の調和。何かが引っかかる。


(あそこの部分、変だ)


 無意識のうちに、手が挙がっていた。


「先生」


 思わず声を出してしまってから、アイリスは自分の行動に驚いた。教室中の視線が集まる。


「な、なんでしょうか……」


 教師も、まさか質問が来るとは思っていなかったらしい。基礎理論の授業で、しかも新入りから質問とは。


「あの、この丸い部分ですけど……」


 アイリスは黒板を指さした。震える指先が、外円の一部を示している。


「ここと、こっちの四角を繋げた方が、もっとスムーズに力が流れるんじゃないでしょうか?」


 教室が静まり返った。


 針が落ちても聞こえそうな沈黙の中、教師の顔が驚愕に染まっていく。目を見開き、口をぱくぱくと動かすが、言葉が出ない。


「それに、この角度も……」


 アイリスは続けた。もう止まらない。


「三十度ずらせば、抵抗が減って効率が上がると思うんです」


 がたん、と椅子が倒れる音がした。後ろの席の上級生が、驚きのあまり立ち上がったのだ。


「君は……どこでそんなことを……」


 教師の声が震えている。


「え? なんとなく、そう見えただけです」


 アイリスの答えに、教室がざわめいた。


「なんとなくって……」


「あれは上級改良理論じゃないか?」


「ヴァンドール改良式を一目で看破するなんて」


「一年生が気づくレベルじゃない……」


 レイナも目を丸くしている。しかし、その驚きの中に、興奮の色が混じっていた。


「アイリスちゃん、すごい! 私も今気づいたけど、確かにその通りよ!」


 レイナは立ち上がると、黒板に近づいた。


「見て、ここの魔力密度が偏ってる。アイリスちゃんの言う通りに修正すれば……」


 レイナがクリスタルの杖で空中に光の線を描く。修正された術式が、立体的に浮かび上がった。


「ほら! 効率が二十パーセントも上がるわ!」


 教師は額の汗を拭いながら、震える手で眼鏡を直した。


「確かに……君の言う通りだ。これは『ヴァンドール改良式』と呼ばれる上級理論だ」


 さらなるざわめきが起こる。


「でも、どうして?」


 レイナが興奮気味に尋ねた。


「魔法が使えないのに、術式の改良点が分かるなんて」


「分かりません……」


 アイリスは困ったように首を振った。両手で頬を押さえ、恥ずかしそうに俯く。


「ただ、見てたら『ここは違う』って感じがして……」


 その純粋な困惑の表情に、クラスメイトたちは言葉を失った。


 教師は咳払いをして、授業を続けようとした。しかし、もはや生徒たちの意識は、完全にアイリスに向いていた。


 授業が終わると、アイリスは廊下で生徒たちに囲まれた。


「どうやって分かったの?」


「魔法の才能があるんじゃない?」


「でも、魔法が効かないんでしょ?」


 質問攻めに遭い、アイリスは困り果てていた。


「あの、私……」


「はいはい、道を開けて!」


 レイナが人混みをかき分けて、アイリスを救出した。


「アイリスちゃんは私の研究対象——じゃなくて、友達なの。あまり困らせないで」


 レイナの一声で、生徒たちは渋々散っていった。


「ありがとう、レイナさん」


「レイナでいいってば」


 レイナは笑顔を見せたが、その瞳には相変わらず研究者の光が宿っていた。


「それより、次は実技演習よ。楽しみね」


 アイリスは、嫌な予感がした。



 実技演習の時間になった。


 訓練場は城の中庭にあった。広い円形の空間で、地面には耐魔法処理が施された特殊な石が敷き詰められている。周囲には観覧席があり、上級生たちが興味深そうに見下ろしていた。


「今日は光球の生成と制御です」


 指導教官は筋骨隆々とした中年の男性で、実戦経験が豊富そうな傷跡が顔に刻まれている。


「大きさ、明るさ、持続時間。この三要素を意識して」


 生徒たちが順番に挑戦していく。


 最初の生徒は、手のひらに小さな光球を作った。蝋燭の炎程度の明るさで、十秒ほどで消えた。


「まずまずだ。次」


 二人目は、もう少し大きな光球。テニスボールくらいの大きさで、三十秒は持続した。


「良い。魔力の制御が安定している」


 順番が進むにつれ、生徒たちの実力の差が明らかになっていく。


 ジークの番になると、訓練場の空気が変わった。


 彼は黒革の手袋を外すと、軽く手をかざした。魔力が集中し始め、空気がかすかに震える。


 次の瞬間、人の頭ほどの光球が現れた。


 完璧な球体。表面は滑らかで、まるで小さな太陽のように安定して輝いている。しかも、その光は柔らかく、直視しても目が痛くならない。


「おお……」


 感嘆の声が上がる。


「さすがヴァルドナイン様……」


「上級魔導士は違うな」


「あの安定性、真似できない」


 ジークは一分間、光球を維持した後、静かに消した。汗一つかいていない。


「素晴らしい。お手本のような光球だ」


 指導教官も賞賛を惜しまなかった。


 次はレイナの番だ。


「じゃあ、ちょっと頑張っちゃおうかな」


 レイナがクリスタルの杖を掲げると、その先端が輝き始めた。


「〈光よ、星となりて舞い踊れ〉」


 詠唱と共に、レイナが両手を広げた。


 すると、無数の小さな光球が現れた。数十、いや百を超える光の粒子が、複雑な軌道を描きながら宙を舞う。それらは互いに干渉することなく、美しい模様を描いていく。


 まるで星座のような、いや、小さな銀河のような光景だった。


「すごい……」


「さすが学院主席!」


「あれ、制御してるの!?」


 光球たちは、レイナの指揮に従って踊り続ける。時に集まり、時に散らばり、観る者を魅了した。


 三分後、レイナが杖を下ろすと、光球たちは花火のように美しく散って消えた。


 訓練場は拍手に包まれた。


「お見事!」


 指導教官も感心している。


「光球の複数同時制御、しかも個別の軌道設定。上級者でも難しい技術だ」


 レイナは得意げにアイリスを見た。


「どう? 魔導って最高にカッコいいでしょ?」


「はい、とても綺麗でした!」


 アイリスの素直な賞賛に、レイナは満足そうに微笑んだ。銀金の髪が、残光を受けてきらめいている。


 そして、問題の瞬間が訪れた。


「では次は……ノルヴェインさん?」


 指導教官が名簿を見ながら呼んだ。


 訓練場が、水を打ったように静まり返った。全員の視線が、アイリスに集中する。


「あ、でも私は魔法が……」


「構いません。やってみるだけでも」


 指導教官は、アイリスの特殊事情を知らないらしい。


「で、でも……」


「大丈夫よ、アイリスちゃん」


 レイナが背中を押した。


「失敗したって誰も笑わないから」


 断り切れず、アイリスは恐る恐る前に出た。周囲の視線が突き刺さる。上級生たちも、興味深そうに身を乗り出していた。


(どうしよう……何も起きないに決まってるのに)


 訓練場の中央に立つ。風が、藍色の髪を揺らした。


 仕方なく、他の生徒の真似をして手をかざしてみた。


(みんなみたいに、光の球を……)


「光の球……光の球……」


 小さく呟きながら、必死に念じる。もちろん、何も起きるはずが——


 ゴォォォォォン!


 突如、轟音が訓練場を揺るがした。


 アイリスの手から、巨大な光の柱が天を貫いた。直径三メートルはあろうかという光の奔流が、訓練場の天井を一瞬で貫通し、遥か上空まで届く。


 圧倒的な光量。見る者の網膜を焼くような輝き。空気が振動し、地面が震えた。


「きゃあああ!?」


 アイリスは慌てて手を引っ込めた。


 光の柱は消えたが、訓練場の天井には大きな穴が開いている。縁は熱で溶けたように滑らかになっており、青空がぽっかりと見えていた。


 訓練場は、墓場のような静寂に包まれていた。


 生徒たちは呆然と、天井の穴を見上げている。指導教官は、腰を抜かして地面に座り込んでいた。ジークですら、目を見開いて言葉を失っている。


「あ、あの……」


 アイリスの震える声で、ようやく皆が我に返った。


「ごめんなさい! 加減がわからなくて!」


 半泣きになりながら謝るアイリス。その様子は、とても世界の理を歪めた存在には見えなかった。


「か、加減の問題じゃない!」


 指導教官は震え声で叫んだ。


「君は今、何をした!?」


「え? 光の球を作ろうとしただけです……」


「球!? あれが球に見えるか!?」


 指導教官は天井の穴を指さした。


「あれは破壊魔法だ! それも戦略級の!」


「はわわ……ごめんなさい、ごめんなさい!」


 アイリスは頭を抱えてうずくまった。


 周囲の生徒たちも、恐怖と驚愕の入り混じった表情でアイリスを見ている。何人かは、後ずさりさえしていた。


 ただ一人、レイナだけが違った。


「すごい……」


 ライラック色の瞳が、狂喜に輝いている。


「すごいすごいすごい! なんなのこの出力! 測定不能レベルじゃない!」


「レ、レイナさん?」


「アイリスちゃん、あなた本当に面白いわ!」


 レイナは興奮のあまり、アイリスの周りをくるくると回った。銀金の髪が、ふわりと舞う。


「魔法が効かないのに、魔法が使える! しかも規格外の威力! これって矛盾してない? でも現実! ああ、研究したい!」


 その様子を見ていたジークが、深いため息をついた。


「レイナ、落ち着け」


「だって、ジーク様! こんな面白い現象、見たことある?」


「……ない」


 ジークも認めざるを得なかった。アイリス・ノルヴェインという存在は、魔法の常識を根底から覆すものだった。


(リオ、君の妹は……とんでもない存在だな)


 訓練場は大騒ぎになった。


 修復班が呼ばれ、上層部への報告が行われ、野次馬が集まってきた。


 その混乱の中心で、アイリスは小さくなって謝り続けていた。


「本当にごめんなさい……もう二度としませんから……」


 そんなアイリスを、レイナは嬉しそうに観察していた。


(この子、本当に自覚がないのね。だからこそ面白い)


 研究者の血が騒ぐ。この現象を解明したい。いや、解明しなければならない。


 それは純粋な知的好奇心であり、同時に、友人への興味でもあった。



   * * *



第4節 兄の遺産と新たな謎


 騒動の後、アイリスは一人で城の図書室にいた。ジークが「少し調べ物がある」と言って、ここに案内してくれたのだ。


 図書室は静かで、本の匂いが心を落ち着かせてくれる。天井まで届く本棚が迷路のように並び、魔法の明かりが優しく空間を照らしていた。


(みんなに迷惑ばかりかけて……)


 天井に開けてしまった穴のことを思い出し、アイリスは落ち込んだ。修復には相当な時間と魔力が必要だと聞いた。


(もう、魔法なんて使わない。使えないんだから)


 でも、なぜあんなことが起きたのだろう。自分は魔法が使えないはずなのに。


 本棚の間を歩いていると、見覚えのある背表紙が目に入った。


『空間歪曲理論・第七版』


 金文字で書かれたタイトル。革装丁の重厚な本。兄が持っていた本と同じものだ。


 震える手で本を取り、ページをめくる。難解な理論と数式が並んでいるが、アイリスには理解できない。


 しかし、余白に走り書きがあった。


『観測者は、世界の外側から内側を見る存在。故に、内側の法則に縛られない——R.N』


 R.N。リオ・ノルヴェイン。兄のイニシャルだ。


「兄さん……」


 兄の筆跡を指でなぞる。インクは少し滲んでいて、急いで書いたことが分かる。


 次のページにも書き込みがあった。


『アイリスは特別だ。彼女こそが、扉を開く鍵となる』


 涙が滲みそうになった。兄は、自分のことをずっと考えていてくれたのだ。


「見つけたわ」


 静かな声に振り返ると、クラティアが立っていた。透明な外套が、図書室の明かりを受けて虹色に輝いている。


「議長……」


「その本、お兄様のものね」


 クラティアは優しく微笑んだ。白銀の髪が、かすかに揺れる。


「彼は優秀な研究者だった。特に『観測者理論』については、誰よりも深く理解していた」


「観測者理論……」


 アイリスは首を傾げた。今日、何度も聞いた言葉だ。


「そう。そして、あなたこそが、彼の追い求めた『観測者』なのよ」


 クラティアは本棚に手を添えた。その指先が、古い本の背表紙をなぞる。


「でも、私はただ魔法が効かないだけで……」


「それこそが証拠」


 クラティアは窓の外を見つめた。夕暮れの光が、歪んだガラスを通して複雑な模様を作っている。


「世界の内側の法則に縛られない存在。それが観測者。あなたは生まれながらにして、この世界を『外』から見ているの」


 難しい話に、アイリスの頭は混乱していた。


「じゃあ、今日の光の柱も……?」


「あなたは魔法を使ったのではない。世界の法則を、一時的に書き換えたのよ」


 クラティアの淡い青灰の瞳が、アイリスを見つめた。


「あなたが『光球を作りたい』と願った時、世界は一瞬、その願いに応えた。結果として、あの光の柱が生まれた」


「でも、どうして柱に……」


「制御の問題ね。あなたはまだ、自分の力を理解していない」


 その時、急いだ足音が聞こえてきた。


 ジークが、険しい顔で図書室に入ってきた。手には古い手帳を持っている。革表紙は使い込まれており、ところどころ擦り切れていた。


「アイリス、君に見せたいものがある」


 差し出された手帳を開くと、そこには兄の筆跡があった。


『観測者計画・最終報告』


 ページをめくる。そこには衝撃的な内容が記されていた。


『妹の真実を知った。彼女は偶然の産物ではない。何者かが、意図的に創り出した「鍵」だ。城の最深部に眠る「鏡」を開くための——』


 ページはそこで途切れていた。まるで、書いている途中で何かが起きたかのように。


「これは……」


 アイリスの声が震えた。


「リオの最後の研究ノートだ」


 ジークの表情が苦渋に満ちている。琥珀色の瞳に、深い後悔の色が浮かんでいた。


「彼は君の正体に気づいていた。そして、それを守ろうとして……」


 言葉が続かない。ジークは拳を握りしめ、唇を噛んだ。


「私が……創られた?」


 アイリスは理解できなかった。自分は普通に生まれて、普通に育ったはずだ。


「詳しいことは分からない」


 クラティアが静かに言った。


「ただ、あなたが特別な存在であることは確か。そして、それを狙う者たちがいる」


「狙う者……」


 アイリスは震える手で懐中時計を握りしめた。冷たい金属の感触が、現実を教えてくれる。


「私が……鍵?」


 その時、窓の外から歓声が聞こえてきた。


 見ると、訓練場の穴を修理する魔導士たちを、生徒たちが取り囲んでいる。その中心で、レイナが何か説明しているようだった。


 窓を開けると、レイナの声が聞こえてきた。


「だから言ってるでしょ! あれは魔法じゃないのよ! もっとすごい何か!」


 身振り手振りを交えて、光の柱の凄さを力説している。


「普通の魔法なら、術式の痕跡が残るはず。でも、あの穴には何も残ってない! まるで、世界の法則そのものが変わったみたい!」


「……あの子ったら」


 クラティアが苦笑した。


「もうアイリスちゃんの『伝説』を広めているわね」


 実際、レイナの周りには人だかりができていた。皆、興味深そうに話を聞いている。


「本当に魔法が効かないのに、魔法が使えるの?」


「信じられない……」


「でも、この穴が証拠よ!」


 レイナは得意げに穴を指さした。


 そんな様子を見て、アイリスは少しだけ心が軽くなった。


 怖がられるかと思ったのに、レイナは変わらず接してくれる。それどころか、嬉しそうにしている。


(変な人だけど……いい人だ)


 ジークも、クラティアも、自分を受け入れてくれている。


 兄が愛したこの城には、温かい人たちがいる。


「私……」


 アイリスは二人を見上げた。灰銀の瞳に、決意の光が宿る。


「兄さんが追い求めていたものを、知りたいです。私が『鍵』だとしたら、何のための鍵なのか」


 ジークとクラティアは、顔を見合わせた。


「覚悟はあるか?」


 ジークの問いは重い。


「真実は、時に残酷だ。知らない方が幸せなこともある」


「それでも」


 アイリスは頷いた。


「もう、逃げません。兄さんが命をかけて守ろうとしたものを、知りたい」


「なら——」


 ジークが口を開きかけた時、図書室の扉が勢いよく開いた。


 バタン!


「見つけた!」


 レイナが飛び込んできた。銀金の髪を振り乱し、ライラック色の瞳は興奮に輝いている。頬は上気し、息を切らしていた。


「アイリスちゃん! さっきのアレ、もう一回やって! 今度はちゃんと測定器を用意するから!」


「え、えぇ!?」


 真剣な雰囲気が一瞬で吹き飛んだ。


「だってあんなの見せられたら、研究者の血が騒ぐじゃない!」


 レイナは真剣そのものの表情で迫る。手には、複雑な魔導具が握られていた。


「で、でも、また天井に穴が……」


「大丈夫! 今度は野外でやるから!」


「それはそれで問題があると思うんですが……」


 ジークが頭を抱えている。額に手を当て、深いため息をついた。


「レイナ、今は大事な話を——」


「大事な話?」


 レイナの目がきらりと光った。


「もしかして、アイリスちゃんの秘密について?」


「君には関係ない」


「関係大ありよ!」


 レイナは胸を張った。


「だって、私たち友達でしょ?」


 その言葉に、アイリスは驚いた。


「友達……」


「そうよ。だから、秘密なんて水臭いわ」


 レイナは当然のように言い切った。


 クラティアは楽しそうに笑っていた。


「賑やかになりそうね」


 白銀の髪を揺らしながら、優雅に腕を組む。


「いいじゃない。観測者には、理解者が必要よ」


 窓の外では、夕日が鏡の城を赤く染めていた。歪んだ壁面が、まるで血のように輝いている。


 アイリス・ノルヴェインという存在が、この城に新たな波紋を投げかけた日。


 それは同時に、眠っていた歯車が再び動き始めた日でもあった。


 誰も知らない。


 銀金の髪の少女の真の目的も。


 城の最深部で待つ者の正体も。


 そして、「鏡」が開く時、何が起こるのかも。


 ただ一つ確かなのは——


 藍色の髪の少女が、すべての鍵を握っているということだけだった。


「あの、みなさん……」


 アイリスが遠慮がちに声をかけた。小さく手を挙げて、申し訳なさそうに。


「私、お腹空いちゃったんですけど……朝ごはん、まだでしたよね?」


 一瞬の沈黙。


 そして——


「ぷっ」


 レイナが最初に吹き出した。


「あははは! そうよね、朝から大騒ぎで、ろくに食べてないもの」


 ジークも苦笑し、クラティアは優雅に笑った。


 世界の命運を握る鍵も、十五歳の少女なのだ。


 お腹が空くのは、当然のことだった。


「では、夕食にしましょう」


 クラティアが提案した。


「今日は特別に、私の部屋で。色々と、話すこともあるでしょうし」


 こうして、四人は図書室を後にした。


 本棚の隙間から、誰かがその様子を見つめていたことに、誰も気づかなかった。


 赤銅色の瞳が、アイリスの後ろ姿を追っている。


「無反応体質、か……」


 低い呟きが、静寂に溶けて消えた。

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