第2話 城の管理者
第1節 兄の研究室にて
「さ、どうぞ。兄さんの研究室だよ」
ジークが扉を開けると、アイリスの目に飛び込んできたのは、想像とはかけ離れた光景だった。
床から天井まで積み上げられた本の山は、まるで知識の城壁のようにそびえ立っていた。窓から差し込む光が、空中を漂う埃の粒子を黄金色に染め上げている。無数の魔法陣が描かれた羊皮紙が、壁一面に蔦のように絡まり、部屋全体が一つの巨大な魔法装置のように見えた。
床から天井まで積み上げられた本。無数の魔法陣が描かれた羊皮紙。宙に浮かぶ水晶球。そして、部屋の中央には巨大な魔法陣が刻まれており、その上で何かがゆらゆらと揺れている。
「わあ……」
アイリスは素直に感嘆の声を漏らした。まるで絵本で見た魔法使いの部屋みたいだ。古い羊皮紙と魔法薬の混じった独特の匂いが鼻をつく。それは図書館の匂いに、微かな硫黄と薬草を混ぜたような香りだった。
――この子、本当に驚いているのかな?
ジークは内心で首を傾げた。普通の人間なら、この部屋に入った瞬間、魔力の濃密さに圧倒されるはずだ。実際、空気そのものが重く、まるで水の中を歩いているような圧迫感がある。以前連れてきた助手志望の魔導士は、入室して三秒で膝をついた。
だが、アイリスは平然と歩き回っている。いや、むしろ好奇心に満ちた表情で本棚を眺めている。
「ジークさん、これは何の本ですか?」
「ああ、それは……『時空間座標における魔力定数の変動について』だね。兄さんの専門分野の一つだよ」
「じくうかん……?」
アイリスが小首を傾げる。十五歳という年齢を考えれば、専門用語が分からないのは当然だ。ジークは優しく説明を始めた。
「簡単に言うと、場所によって魔法の効き方が変わるっていう研究なんだ。例えば、この城では外よりも魔法が強く作用する」
「へえ、そうなんですか」
――あれ? 反応が薄い?
普通なら「どうして?」とか「すごい!」とか、もっと驚くはずなのに。まるで天気の話でもしているかのような反応だった。部屋の中央で揺れている何かが、アイリスの存在に反応するかのように、その揺らめきを止めた。一瞬、時間が凍りついたような静寂が訪れる。
「……君は、魔法についてどのくらい知ってる?」
「えっと、火を出したり、物を浮かせたりするんですよね? 村の収穫祭で旅の魔法使いさんが見せてくれました」
なるほど、その程度の知識か。それなら、この部屋の異常性に気づかないのも無理はない。
――いや、待てよ。
ジークはふと気づいた。知識がないから気づかないのではない。この部屋の魔力濃度は、知識など関係なく、生理的な反応を引き起こすはずだ。まるで高山の頂上にいるような息苦しさを感じるのが普通なのに。
「ねえ、アイリス。息苦しくない?」
「え? いいえ、全然。むしろ、なんだか空気が澄んでいる感じがします」
――やっぱり、おかしい。
ジークの疑念は深まるばかりだった。彼の中で、常識という名の堅固な城壁に、小さなひびが入り始めていた。
* * *
第2節 運命の出会い
「リオ様のご友人ですか」
突然、部屋の奥から声がした。その声は、まるで水晶を震わせたような、澄んだ響きを持っていた。
アイリスが振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。白銀の長い髪、整った顔立ち、そして何より印象的なのは、その瞳だった。まるで朝霧を映したような、淡い青灰色。彼女の周囲の空気だけが、微かに歪んで見える。まるで別の次元から現れたかのような、現実離れした存在感。
「うわあ、綺麗な人……」
アイリスが思わず呟くと、女性はかすかに微笑んだ。
「初めまして。私はクラティア。この城の……管理をしています」
クラティアと名乗った女性は、優雅な所作で一礼した。その動きは流れるようで、まるで舞を見ているようだった。彼女が動くたびに、空気が微かに震える。それは羽毛で頬を撫でられたような、くすぐったい感覚だった。
「あ、初めまして! 私はアイリスです。お兄さんにお世話になることになりました」
アイリスも慌てて頭を下げる。村娘らしい、ぎこちない挨拶だった。
――ほう。
クラティアの瞳に、一瞬、興味深そうな光が宿った。
――この娘が、リオ様の言っていた……。
「ジーク様、この方が例の?」
「ああ、そうだよ。兄さんの研究に協力してもらうことになった」
二人の間で交わされる意味深な視線。アイリスには、その意味が全く分からなかった。三人の間を、見えない何かが行き来している。それは言葉にならない緊張感と、期待と、そして微かな不安の混じったものだった。
「あの、私、何かお手伝いできることがあれば……」
「いえ、あなたはただ、ここにいてくださるだけで十分です」
クラティアの言葉に、アイリスは首を傾げた。
「でも、それじゃあお給料をいただくのが申し訳ないです」
「……お給料?」
今度はクラティアが困惑する番だった。彼女はジークを見る。ジークは苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。
「兄さんが、助手として雇うって言ったんだ」
「なるほど、リオ様らしい配慮ですね」
――配慮? どういうこと?
アイリスには、二人の会話がまるで暗号のように聞こえた。
クラティアは再びアイリスに向き直ると、神秘的な微笑みを浮かべた。
「アイリス様、一つお尋ねしてもよろしいですか」
「は、はい」
「あなたは、この城に来て、何か……特別なものを感じませんでしたか?」
特別なもの。アイリスは考え込んだ。緊張のあまり、口の中がからからに乾いていた。唾を飲み込むと、微かに金属のような味がした。
「えっと……お城がとても大きくて、立派だなって思いました。あと、鏡がたくさんあって不思議だなって」
「…………」
クラティアは、しばし無言だった。その表情は変わらないが、内心では激しく動揺していた。
――まさか、本当に何も感じていない? この城の異常な魔力構造に? 時空の歪みに? そんなことが……。
「他には?」
「他には……ああ、そういえば」
アイリスが何か思い出したように顔を上げた。クラティアとジークが、同時に身を乗り出す。
「廊下の絨毯が、すごくふかふかでした! 村にはあんな立派なものがなくて」
「…………」
「…………」
沈黙が流れた。その沈黙は、まるで深い井戸の底に石を落としたような、底知れぬ深さを持っていた。
クラティアは、生まれて初めて、言葉を失うという体験をしていた。この城の管理者として、数百年を生きてきた彼女が、十五歳の村娘の前で、完全に予想を裏切られている。
――この子は、一体……。
* * *
第3節 特別な部屋
「では、お部屋にご案内いたしましょう」
気を取り直したクラティアが、優雅に歩き始めた。アイリスとジークがその後に続く。
城の廊下は、昼間とは違う顔を見せ始めていた。壁の鏡に映る景色が、微妙に現実とずれている。時折、鏡の中を何かが横切るが、振り返っても誰もいない。
城の廊下を歩きながら、クラティアは説明を始めた。
「この城は、通常の建築物とは異なる構造をしています」
「というと?」
アイリスが素直に聞き返す。
「空間が、少し……特殊なのです。同じ廊下でも、時間帯によって長さが変わったり、部屋の配置が入れ替わったりすることがあります」
「へえ、便利ですね!」
――便利?
クラティアは、また予想外の反応に内心で驚いた。普通は「怖い」とか「危険」とか言うものだが。
「掃除の時に、部屋が勝手に近くに来てくれたら楽だなって思いました」
――なるほど、そういう発想か。
ジークが苦笑する。確かに、ポジティブな解釈だ。アイリスの純粋さは、まるで澄んだ泉のようだった。どんな異常も、その透明な水面に映れば、美しい風景に変わってしまう。
「ただし」
クラティアが真剣な表情で振り返った。
「夜間の移動は控えてください。城の防御機構が作動することがあります」
「防御機構?」
「侵入者を排除するための魔法です。リオ様の研究は、時に危険な存在を引き寄せることがありますので」
アイリスは神妙に頷いた。遠くから、低い唸り声のような音が聞こえてきた。それは城そのものが発する、警告の声のようだった。
「分かりました。夜は部屋から出ないようにします」
――素直でよろしい。
クラティアは内心で安堵した。好奇心旺盛な年頃の娘だ。下手に興味を持たれては困る。
やがて、三人は城の最上階近くにある一室の前で立ち止まった。
「こちらが、アイリス様のお部屋です」
クラティアが扉を開けると、アイリスは思わず息を呑んだ。
部屋は夕日に照らされて、まるで金色の宝石箱のように輝いていた。天蓋付きのベッドには繊細な刺繍が施され、窓からは城下の街が一望できる。家具の一つ一つが、芸術品のような美しさを持っていた。
広い。とにかく広い。村の自分の家がまるごと入りそうなほどの広さだった。天蓋付きのベッド、優雅な調度品、大きな窓からは城下の街が一望できる。
「え、ええと……これ、本当に私の部屋ですか?」
「はい」
「でも、私、ただの助手なのに……」
アイリスの困惑は当然だった。これは明らかに、客人、それも高位の客人用の部屋だ。
クラティアとジークが、また意味深な視線を交わす。
「リオ様の特別な指示です。あなたには、最高の待遇を提供するようにと」
「そ、そんな……申し訳ないです」
オロオロするアイリス。その様子を見て、ジークが慌てて取り繕った。
「あー、その、兄さんは若い女性に優しいんだ。騎士道精神っていうか」
――苦しい言い訳だな、自分。
ジークは内心で自己嫌悪に陥った。本当の理由――兄がアイリスを「観測者」と呼び、特別扱いする理由は、まだ話せない。
「それに」
クラティアが付け加えた。
「この部屋は、城の中でも最も安全な場所の一つです。防御魔法が幾重にも張り巡らされていますから」
――もっとも、この娘には防御魔法など不要かもしれないが。
クラティアは、そう思いながらも口には出さなかった。
* * *
第4節 夜の出来事
その夜、アイリスはベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。
――すごい一日だったなあ。
朝、村を出発したのが遠い昔のことのように感じられる。優しいジークさん、神秘的なクラティアさん、そして不思議なお城。シルクのシーツが肌に心地良い。村の粗い麻布団とは全く違う、雲の上で眠っているような感覚。
――お父さんとお母さんに、手紙を書かなくちゃ。
そう思って、アイリスはベッドから起き上がった。部屋の隅にある机に向かい、羊皮紙を広げる。
と、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……
低い振動音と共に、部屋全体が微かに震え始めた。まるで巨大な心臓の鼓動のような、規則的なリズム。
部屋の床が光り始めた。
「え?」
見ると、床に描かれた複雑な文様が、青白い光を放っている。その光は次第に強くなり、やがて光の柱となって天井まで立ち上った。光の柱の中で、無数の古代文字が螺旋を描いて上昇していく。それは美しくも恐ろしい、魔法の具現化だった。
「わあ、綺麗……」
アイリスは、恐怖よりも先に感嘆の声を上げた。まるで、地面から生える光の木のようだ。
バチバチバチ!
突然、光の柱から稲妻のような何かが飛び出し、アイリスに向かって殺到した。オゾンの焦げ臭い匂いが部屋中に充満する。
「きゃっ!」
思わず目を瞑る。
しかし……何も起こらなかった。
恐る恐る目を開けると、稲妻は相変わらずアイリスの周りを飛び交っていたが、まるで見えない壁にぶつかるように、彼女には届いていなかった。
「あれ?」
アイリスは不思議そうに手を伸ばしてみた。稲妻は、その手をすり抜けていく。いや、正確にはアイリスを避けているような動きだった。まるで稲妻自体が、彼女に触れることを恐れているかのような、奇妙な光景。
「なんだか、くすぐったい」
稲妻が肌の近くを通るたびに、微かな風を感じる。それが心地良かった。
その時、扉が勢いよく開かれた。
「アイリス!」
ジークが飛び込んできた。顔面蒼白で、額には汗が滲んでいる。彼は恐怖のあまり、血の味がする唇を噛みしめていた。
「だ、大丈夫!? 怪我は……」
言いかけて、ジークは絶句した。
防御魔法陣が全力で作動している。それも、最高位の電撃結界が。なのに、その中心でアイリスは平然と立っている。いや、それどころか……。
「あ、ジークさん。見てください、床がすごく光ってるんです。花火みたいで綺麗ですね」
――花火って……君、これ、殺傷力MAXの防御魔法なんだけど……。
ジークは頭を抱えたくなった。彼の中の常識という名の建物が、音を立てて崩壊していく。その瓦礫の中から、新しい理解が芽生え始めていた。
「アイリス、今すぐそこから離れて!」
慌てて駆け寄ろうとしたジークだったが、
バチィッ!
「うわっ!」
結界に弾かれて吹き飛ばされた。
――そりゃそうだ、作動中の防御結界には近づけない。でも、なんでアイリスは平気なんだ?
「ジークさん、大丈夫ですか!?」
アイリスが心配そうに駆け寄ろうとする。
「来ちゃダメだ! 君はそこにいて!」
ジークは必死に止めた。結界から出たら、今度は結界に入れなくなる。そうなったら、暴走した魔法陣を止める術がない。
「クラティア! クラティアはいないのか!?」
ジークが叫ぶと、廊下から銀髪の管理者が現れた。相変わらず優雅な所作だが、その瞳には驚愕の色が浮かんでいる。
「これは……第七位階の電撃結界ですね。なぜ作動したのでしょう」
「それより、止めてくれ! アイリスが中に!」
「承知しました」
クラティアが複雑な印を組み始める。古代語の詠唱が響き、彼女の周囲に紫色の魔法陣が展開された。その魔法陣から立ち上る光は、部屋の電撃とは対照的な、静謐な輝きを放っていた。
しかし、数秒後、クラティアは詠唱を止めた。
「……必要ないようです」
「は?」
見ると、防御魔法陣の光が徐々に弱まっていた。まるで、役目を終えたかのように、静かに消えていく。
「あれ、消えちゃった」
アイリスが残念そうに呟いた。本当に、花火が終わってしまったのを惜しむような口調だった。
ジークとクラティアは、顔を見合わせた。
――この子、一体何者なんだ?
――リオ様の見立ては、正しかったようですね。
二人の間で、無言の会話が交わされる。部屋の空気が、先ほどまでの緊張から、不思議な静寂へと変わっていく。それは嵐の後の静けさというより、何か大きなものが始まる前の、期待に満ちた静寂だった。
「あの、私、何か悪いことしましたか?」
アイリスが不安そうに尋ねた。二人の深刻な表情を見て、自分が叱られると思ったらしい。
「いや、君は何も悪くない」
ジークが慌てて首を振った。
「ただ、ちょっと魔法陣が誤作動しただけだよ。怪我がなくて良かった」
「そうなんですか。でも、とても綺麗でしたよ」
――綺麗って……普通、死ぬほど怖いはずなんだけど……。
ジークの常識は、またしても音を立てて崩れていった。
「アイリス様」
クラティアが口を開いた。
「今のような現象が起きても、決して怖がる必要はありません。この城の魔法は、あなたを傷つけることはないでしょう」
「え? どうしてですか?」
素朴な疑問。クラティアは微笑んだ。
「それは……いずれ分かる時が来るでしょう」
曖昧な答えに、アイリスは首を傾げたが、それ以上は追求しなかった。
――いつか、全てを話す時が来る。
クラティアは思った。この少女が、なぜ魔法を受け付けないのか。なぜリオが彼女を「観測者」と呼ぶのか。その理由を知る時が。
――でも、今はまだ早い。
「では、お休みなさい、アイリス様」
「はい、お休みなさい」
クラティアとジークが部屋を出て行った後、アイリスは再びベッドに入った。
――不思議なことがいっぱいだけど、きっと慣れるよね。
そう思いながら、アイリスは目を閉じた。先ほどの電撃の余韻か、肌がまだぴりぴりとしている。でも、それも心地良い刺激だった。
窓の外では、月が静かに城を照らしている。
月光に照らされた城の尖塔は、まるで巨大な水晶のように輝いていた。その一つ一つが、秘密を抱えた宝石のように、夜空に向かって光を放っている。
その月明かりの中、城の尖塔の一つに、人影があった。フードで顔を隠した小柄な人物が、じっとアイリスの部屋を見つめている。
「ふうん……あれが、リオの言っていた『鍵』ね」
月光に照らされて、フードの下から銀金混じりの巻き髪が覗いた。
「面白くなりそうじゃない」
人影――レイナは、小さく笑うと、夜の闇に溶けるように姿を消した。彼女が消えた後も、その場所には微かな魔力の残滓が漂っていた。それは甘い花の香りに似た、危険な誘惑の匂いだった。
アイリスの、城での生活は始まったばかり。これから起こる出来事を、まだ誰も予想していなかった。
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