白石のお祝いと天ぷらと徳一屋
白石の幕府への就職が決まり、仲のよい者だけでのお祝いが行われた。参加したのは加納屋、重治郎、そして初顔合わせの玉城だった。女子供は夜道が危ないので自宅で待機となった。
そんな祝勝会は天ぷら処「おいしい屋」で開かれた。幕末にはこうした天ぷら専門店が少しずつ開かれていたということを白石は本で読んだことがあった。部屋の上座に座る白石に皆が酒を注ぎに来る。
「ささ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
にっこりと笑って白石にお酌をしてくるのは玉城。先ほど話したところ、非常に明るい人で、どちらかと言えば、典型的な武士というより洋風的な人と言った方が過言ではないかもしれない。
「いやー、正直白石殿がこの江戸に現れたのは奇跡と言えるかもしれないな、なあ、重治郎」「はい」
玉城は白石の昇進を自分のことのように喜んで、既に酔っ払いモードに入っているのかな?と白石は思っていた。
白石は幕府から旗本の地位を貰っていない、それなのに幕府から給料を貰うという希有な職業形態になっている。
加納屋はそんな白石をじっと見ながら酒を一口啜り、また一口啜ると白石に言いにくそうに言った。
先ほどからこの老人はなにやらもじもじとしているなと白石は気がついていて、重治郎もちらりちらりとその加納屋を見ていた。
「白石さん、あのー」
「さっきからどうしたんですか? 加納屋さん」
「いやー、あのの……」
「俺と加納屋さんの中じゃないですか、言って下さいよ」
「う、うむ。それでは」
加納屋は酒を置くと、真剣な表情をして白石の方を見やる。
「白石さん、儂にはやりたいことがあると前々から言っていたのを覚えておるかのう」
「はい、知っています」
「実はの、儂は白石さん風でいうところの西洋料理店を開きたいと前々から思っていたんじゃが、その料理人が見つからなくての、困り果てておったのじゃ」
「は、はい」
「重治郎さんにも言っておったんじゃが、どこかにいい料理人がいないかのと」
重治郎はその加納屋の言葉に付け足すように言う。やや言葉を合わせているようにも思える。
「加納屋さんは、それをずっと言ってられましたからな。私も白石さんも加納屋さんには料理関係でお世話になっていますので」
「白石さんの職的に考えれば、本当に店に永続的に入るのはまずいが、偶に入って、若者に料理を教えたり客に振る舞ったりすることは悪いことではないと思うのじゃが、どう思われる玉城様」
その遠慮した加納屋の言葉に玉城は一度咳払いすると、にっこりと笑いながら言葉を返した。
「旗本の身分であればまずいが、白石殿はそうではないので、いいのではないかな? 職自体に支障がこないのであれば」
「い、いや、儂はそんな職を邪魔するようなことはしませんので。あくまで白石さんの都合に合わせたようにしますので」
「ならば構わないのではないか、我々はこれから加納屋の力もいるので。お互い助け合いということで」
「そう言って頂けてありがたい。で、どうじゃ白石さん?」
白石はその加納屋に向かってピンと背筋を伸ばして正座をし、加納屋の顔を見ながら真剣な表情を向けると、にっこりと微笑みながらこう言った。
「俺が加納屋さんのお願いを断るとでも思っているのですか。ふふっ、それどころか一般の方にも俺の料理を食べて頂けるし、俺にとっては嬉しい限りの話かもしれません」
「おおっ……ううっ……ありがたい。これで念願の夢が叶うのう……」
加納屋は白石の席へ近づき、お酌をする。加納屋にとって旨い料理屋を開くことは一つの夢だったが、中々加納屋の条件に見合う人間はいなかった。だから加納屋はこの案を白石が飲んでくれたのが死ぬほど嬉しかった。
「ささっ、白石さん」
「あ、ありがとうございます」
色々なことがトントン拍子で纏まる中、白石達から遙かに離れた別室では徳一屋が酒を飲んで、出された天ぷらに手をつけていた。
その顔には豪商らしい不敵な笑みが浮かんでいる。皿をじっと見てから揚げられた海老の天ぷらを箸で持ち、塩につけると口へ運ぶ。
「むう……これは……」
口へ入れた瞬間、徳一屋の表情から不敵な笑みが消え、怒りの表情が垣間見えた。その表情を浮かべたまま海老の天ぷらを静かに皿へ戻した。
「まずい……食べられたもんじゃない」
「えっ!」
側に控えていた天ぷら屋の女将の表情が青くなる。そんな女将に徳一屋は怒鳴るように言い放つ。
「以前に食べた天ぷらとはまるで違うではないか! このたわけが! 主人はどうしたというのだ」
「そ、それが、つい最近主人は亡くなりまして、これは跡継ぎが研究して作ったものでございます! 何卒ご容赦を!」
「死んだだと! 何故それを儂に黙っておった!」
「そ、それは……」
「お前、それを知られればこの店が料亭になることが潰えると思ったのであろう」
「そ、それは……」
「どちらにせよ、再度味を確かめに来てよかったわ! もう少しで命と同じぐらい大事な金が溶けるところだったわ」
「そ、それでは」
「金を貸すことはなしだ」
この店に一つの夢があった。それは先代がつまり死んだ主人が天ぷらを極めた後に、この店を料亭にするということだ。徳一屋はそんな主人の努力も見てきたし、つい最近食べた天ぷらは極上の料理になっていたのだ。
「それに引き換えなんだこの体たらくは。跡継ぎはなにをしておったのだ!」
「べ、勉強はしていたのですが、主人が秘伝の味を見つけたといい、それを跡継ぎに伝える前に死んでしまいました。それを跡継ぎが研究した結果できたのが、この天ぷらでございます」
「死んだのはいつだ?」
「一週間前にございます」
徳一屋がこの店の天ぷらを食べて最高の料理だと思ったのも一週間前。となると……。
「儂が食った日と同じ日に死んでいるではないか!」
「は、はい。主人はその夜には死んでしまいました」
「な、なんたることだ……」
徳一屋はそこでため息を吐くとこう言った。
「最高の技術を編み出して死ぬとは不憫だが、それでも味が引き継げなかったこの店に大事な金は貸せない。そもそも、なぜ一言主人が死んだことを言わなかった。こんなだまし討ちみたいなことをしおって、この馬鹿者が!」
「う、ううっ……」
泣き崩れる女将であったが、徳一屋は立ち上がると、女将を見た後に部屋から出て行ってしまった。
それから暫く時間が経ち、女将が目を赤く腫らして白石達に挨拶をしにきたが、加納屋はじっと女将の顔を見やると不思議そうな顔をしながらこう言った。
「女将、お前泣いておったな?」
「そ、それは……」
実を言えば加納屋もこの店の主人と懇意な仲であった。加納屋もこの店の主人が死んだことを知らない。それがバレれば料亭になるどころかこの店自体が終わりかねないからだ。
「泣いていても分からん、訳を言ったらどうじゃ」
「は、はい……」
女将はかいつまんで訳を白石達に話す。金を借りる相手は絶対に秘匿にせよと徳一屋が以前から言っていたので、厳しい方ということにしたが。
「うーん、それはこの店が悪いな。まだ正直に言われた方がよかったかもしれないな。その相手は。嘘を吐かれるほど心証に悪いことはない」
加納屋もきっぱりとそう言い切り、さすがにこの部屋の全員が加納屋の意見に唸るしかない。まだ正直に言った方が相手を怒らせなかったもしれないと思うのは当たり前のことだった。
ただこの店が潰れると、この家の家族の未来も終わってしまう可能性もあるのは確かだ。文無し借金ありになってしまう。それを避けたいと思うのは、人の浅ましいまでのあがきであり欲でもあり生存本能である。
「ただ、この天ぷらだと遅かれ早かれ潰れます」
白石は正直な意見を女将に言った。なにか異様に固い天ぷらなのだ。これでは天ぷらではなく洋風ベニエである。
「確かに異様に固いのよなさっきから」
「確かに、私もさっきからそのように感じます」
玉城の疑問口調に重治郎もそれに続くようにして言った。
「何故でしょう! 何故なのでしょうか! 跡継ぎは頑張っております。主人の腕が良すぎただけなのではと……だってあの日の天ぷらは本当に神がかっておりましたもの。あれは主人を迎えに来た神が下さった究極の一皿なのではと勘ぐりたくなります……ううううっ……」
日頃から旨い天ぷらを揚げる店主だったが、あの日だけはまるで神に与えられた技術のように冴え渡っていた。それが跡継ぎも分からず魔改良したのが、この天ぷらである。
白石はそこで考える。このままではその主人が浮かばれないなと。突然死なら心臓病か脳関係か、時代が発達していたら助かったのかもしれない。そう思うと白石はその主人に線香の一本も立てたくなった。
だからその代わりに、白石は女将にこう言った。
「どんな天ぷら作りをしているか、見せては貰えませんか?」
「ふむ、どんな天ぷら作りか見もしないのになんとも言えないの」
加納屋の台詞にも白石は笑顔を浮かべることはない。珍しい白石の表情に加納屋は首を傾げるのであった。
暫く時間が経ち、白石は跡継ぎの天ぷらの作り方を見ていた。それほど高くない位置から小麦粉を落とし、天ぷらの衣にするようだ。空気の入る分量をまったく考えているとは思えないやり方だった。
「……ふむ」
更に少なめの水の中に、卵を落とし懸命に混ぜている。白身が良く混ざると、上に泡が出るが、その泡さえも捨てることはない。この時点で卵水の失敗だ。
「これでは……」
そんな卵水に小麦粉を混ぜるとダマの一つもならないように懸命に混ぜている。
「きっと親父はこうして最高の天ぷらを作ったに違いないんです」
跡継ぎなりに真剣に考えた結果、この作り方に行き着いたのであろう。ただ改良にしてもやりすぎだ。
「ちょっとお聞きしますが、以前からこんな作り方だったんですか?」
「いえ、親父のやり方は違っていました。でもそのやり方からなにかのやり方に変更したのだと思います。だからあんな神がかった天ぷらになったのだと思います」
「ふむ……」
多分この跡取りは勘違いしている。恐らくは長年の積み重ねになにかをしたことによって最高の天ぷらに仕立て上げたのだろう。その何かが分からないので基本の基を崩してしまっている。
跡継ぎは油を火に掛けると、温度を見やる。熱してきた油に天ぷら衣を少し落とすと、浮くタイミングを見やる。
しゅわしゅわと音を立てて浮かぶ天ぷらの衣。まだ血気盛んに思える跡継ぎはそこで海老に小麦粉を多くまぶし、天ぷら衣につけ揚げる。やや天ぷら衣の粘土が高いように思えるのは気のせいではない。
じゅわあああああああというとても甲高い音が周りに響く。暫く揚げていると、白石は音を聞いていた。油の温度が高くなっている、そろそろ頃合いだと思っているが、跡継ぎは熱し続けている。パチパチ、シュウワアアアアという音を聞くと白石は、パンと手を叩くと、跡継ぎにこう言った。
「はい、もういいです」
「え?」
「どういうことじゃ?」
もうなにも言うことはないだろう。これでは死んだ主人も浮かばれない。こんな作り方では屋台の天ぷら屋さんにもなれないだろう。死んだ主人に近づこうとして改良をした結果がこれだと思うと白石は悲しい気持ちになった。
「明日の今の時間、もう一度徳一屋さんを呼んでください」
「え?」
女将の驚きの声音に白石は、できないのですかと聞くと、女将は分かりましたと言った。
そして翌日になる。白石は「おいしい屋」の台所に居た。そんな白石の調理法がどんなものなのかと跡継ぎと女将が見やる。
白石は高い位置から、小麦粉が均一になるように落とすように振っていく。鍋の中へ落とされた小麦粉を白石は見ると、小麦粉の荒さの質をじっと見やる。
「均一になっているな」
白石は手早く動くと、約目分量500ccの水の中へ、卵を一つ落とす。
「え? そんなに薄くて」
「大丈夫なんです、これで」
跡継ぎの疑問口調に、白石はきっぱりそういうとしっかりと混ぜていき、黄身のみならず白身がしっかり混じったことによって浮かぶ泡を捨てていく。更にその卵水に適量の小麦粉を混ぜていく。ある程度混ぜると、ダマが多い状態になる。
「そんなにダマがあると……」
「これいいんです」
天ぷらは空気の加減非常に重要だ。最初のふるい落とした小麦粉にしろ、今のダマのある天ぷら衣にしろ。なに一つ欠けてもまともな天ぷらにはならない。
白石は店が誠意を持って謝る意志を持っている体にするためにあることをする。下処理を終えて捌いた鯛からしっかり骨は取り、その鯛の中へ皮をむいて細切りにした里芋、ニンジンを加える。バランス良く鯛の身に敷かれた野菜を白石は巻き寿司のように巻いていく。それを楊枝などで留めて巻き寿司風にする。
野菜を天ぷらにするということを考案されたのは昭和に入ってからだ。それ以前に野菜の天ぷらはメジャーな物ではなかった。
白石は今日お出しする天ぷらのメニューは決めていた。海老、イカ、そしてこの鯛の巻物風江戸風野菜の天ぷらである。
包丁などによって既に下処理を終えた海の幸はもう目の前に並んでいる。
白石は天ぷら鍋に油を入れて火にかける。油から気泡が立ってきたところを見ると、その中へ天ぷら衣を少し入れる。浮かんでくる速度を見て、この辺りかなと思う。
白石はさっと海老に小麦粉をまぶし、泳がすように天ぷら衣に通すと、揚げていく。油の中へ入れると、海老天は良い色になっていき。シュウワアアアア、ジュワアアアアアアアアアという小気味の良い音を立てる。
白石は音に全神経を集中させる。やや温度が高いようだと思うと、天ぷら鍋を一度火から下ろし、その余熱で揚げていく。
「そ、それでいいんですか?」
「これでいいんです」
天ぷらを油の余熱でじっくり揚げて、少しだけ油の温度が下がったところを見やると、白石は天ぷら鍋を火に戻し、揚がる音を聞きながら、ここだというタイミングで海老天を油から引き上げる。その瞬間に天ぷらから油が落ち、その滴が鍋の油に落ちた瞬間にカランコロンと気持ちの良い音が鳴り響く。
跡継ぎとは違い、しっかりと衣の形が主張している天ぷらであるし、色合いもいい。イカは僅かに海老よりも少しばかり高温で揚げるが、それ以外は別段変わったことはしない。鯛の巻物風江戸野菜天ぷらはあまり高温では揚げず、ゆっくりと蒸らすようにして揚げていき、限界地点にきたところで、鍋から天ぷらを揚げ、天ぷら自体の残った余熱でじっくりと蒸していく。
なにも完全に熱を通すには油を使って高温で揚げなければならないという決まりはない。残った余熱でも軽い程度なら蒸し揚げにできる。
その頃別室では徳一屋が謝り倒した女将に免じて、もう一度だけという約束で天ぷらを食べることになった。そんな徳一屋の前に皿の上に和紙が敷かれ、その上に載せられた海老天とイカ天そして、鯛の巻物風江戸風野菜の天ぷらが運ばれてくる。衣の色は透き通るような琥珀色と言った方がいいだろうか、とても見栄えがよい。
徳一屋は皿をじっと見て、この前と同じ動作で海老天を箸で掴むと口の中へ入れる。
「なっ! こ、これは」
衣のさっくりとした歯触り、揚げた衣の香りがふんわりと口内を漂う。それに付け加え、しっとりとしている感じもした。海老はそんな衣を邪魔せず、優雅に口の中で舞う。さらりとしていて脂っこくなくそれでいて甘く、そしてさっくり、ふんわりとして美味しい。まるで天ぷらと海老が一体となって呼吸をしているようだった。徳一屋がそう思うのも無理はない。
天ぷらは衣や卵水に絡める小麦粉のきめの細かさ、つなぎの強度、衣の付け方、音による揚げ具合や温度判定と、決めを守れば衣がふわりとさっくりを保たせ、まるで呼吸をしているような錯覚を覚えさせ、更に具が柔らかく仕上げられる。その全てを守れば揚げすぎず、高温になることも避けられる。
「イカは……」
こちらも箸で持つと、前歯で噛む。さっくりと切れるようにして食べられる。とても柔らかく、それでいてしっとりしていながらもさくっとしていて、衣がまるで空気を吸っているように感じた。
「神が降りたのか、この天ぷらには……」
暫くして出された鯛の巻物風江戸野菜天ぷらを見て徳一はおおっと声を上げた。やや大きめの天ぷらだ。まるで巻物のように見えなくもないと思い徳一屋はその技量に感心すると、その天ぷらを口の中へ入れる。
しっとり、サクサクとした衣の下には、淡泊である甘みのある鯛の身、それがほろほろと崩れ更に奥へ噛み進めると、里芋のサクサク感を残しつつ、ねっとりとした食感と甘く香りの良い風味、ニンジンもサクサクしており、そのニンジンには特徴のある味と甘みがしっかりと残っていて、徳一屋はこの世の贅を尽くした天ぷらを食べた気がした。
「これを作ったのは跡継ぎではないな?」
「は、はい」
「料理人を呼んで参れ」
「は、はい」
徳一屋のその命令に女将は急いで厨房へ向かう。暫くして白石が作ったお椀を持って女将がやってくる。最後のお吸い物は白石の気配りだ。
白石が入る前に女将が恐る恐るといった感じで徳一屋にこう言った。
「今日の料理人が最後に作ったお吸い物です。これをお吸いになってから部屋に入るとのことです」
「まだ、全ての料理が終わったわけではなかったか」
徳一屋は女将が前に置いたお吸い物の上蓋を取るとお吸い物を吸った。
「なっ……なんたる味のお吸い物よ」
水を含ませた布で昆布を拭いた後に、旨味が抜けないようにしながら柔らかくなるよう水で濡らし、沸騰させない温度の辺りで一瞬潜らせただけの昆布。それで十分出汁は取れる。もったいないと思って長時間煮ないがポイントだ。
そこで少し減った出汁の水の調整と、鰹節が生臭くならないように差し水をし、85度付近を保つ。
それにしっかりと研いだカンナで削った鰹節を入れ、一煮立ちする寸前で煮ていた鰹節を取り出し、布などで漉す。魚臭くしなくなる為のポイントだ。
「出汁が完璧すぎる。こんなお吸い物どんな料亭でも吸えん。うおおおっ! 早く料理人を呼べ、もう待てん!」
どうやら徳一屋は早くこの料理人に賞賛の言葉を贈りたくて仕方がないようだった。
「そ、それでは」
女将は立ち上がり、廊下で控えている白石を呼びに行く。白石は室内へ静かに入っていくとそこにいるのが徳一屋だと気がついた。
「徳一屋さん?」
「な、白石だとぅ!」
両方とも驚き、え? という状態になる。徳一屋を見て白石は徳一屋の前方に座ると深く頭を下げて挨拶をする。
「まさか召しあがるのが徳一屋さんとは気づかずに作っておりました」
厳しいお客さんとは徳一屋のことだったかと思い、白石は再度深く頭を下げる。流石の徳一屋もこんなどっきりみたいな状態にうろたえる。
「ど、どういうことだ女将。なぜ白石が作っているんだ」
「そ、それは……」
「店としてはせめてのお詫びにしたかったそうです、それと、これは俺個人の意思でもあります……」
徳一屋同様にうろたえそうになる女将を見て白石は、冷静さを装ってそう答える。
「その意思とはなんだ?」
「俺の祝いの席でこの方は泣いてこられたんです。やっぱり祝いの席に涙は似合わない。それと一番重要なのがここです」
「言ってみよ」
「折角一流の天ぷらが揚げられるようになった主人が不憫でして、神の一皿に到着したのに、死んでしまうとはなんと悲しいことかと。これは同じ料理の道を歩む人間として線香として作った料理でもあります」
「ふむ……確かに主人は悲しいことだが、あれだけの技術を発見して死んでしまった。儂も線香代わりとして今日は特別に許し、一度食べに来ることにしたのだ」
現代医療でもあれば助けられたのかもしれない。しかしここは江戸だ。病には厳しい。徳一屋は一度目を瞑ると白石に向かって静かな口調でこう言った。
「素晴らしい天ぷらと吸い物であった。特に野菜を揚げたというのが独創的だな」
「ありがとうございます」
「いつか改めてお前の試験もしようかと思っていたが、その手間が省けたな?」
「え?」
「儂は西洋料理はよく分からんが、こと日本料理については分かる。全てが完璧であった。揚げ物と吸い物は料理人の基本。お前は文句なしの合格だ。言うことはない。しかし……この店の処遇については別だがな」
じろりと徳一屋は女将を見ると厳しい表情を向ける。白石はそんな徳一屋に静かに言った。
「処遇は徳一屋さんにお任せします。俺は俺と同じく台所で戦ってきた男に線香の一本を立てた。それだけで十分です」
「ほう、かばわぬのか? 雪乃の店には親身になっていただろう」
その徳一屋の言葉に白石は一度目を瞑ると、静かな口調で返答する。
「雪乃さんは、真剣に茶屋をどうするかで悩んでおられました。その過程で人からお金をだまし取ろうとしたりするような卑怯なことをする方ではありませんでしたので。商人であろうと料理人であろうと、お金はかけがえのないほど重い物です」
「ふむ」
白石の言葉に徳一屋は頷く。料理人の世界は厳しい。誠かどうかは定かではないが星をとっても店の維持のために別の店で働いているという話を聞いたことがある。
「取引というのは信頼関係、それを軽く破ってしまうのはいかがなものかと。特に客商売としてそれだけは駄目なのですよ」
「し、しかし、私どもとしては真剣だったのです! この江戸の寒空に放り出される……」
「この江戸の寒空に投げだれる覚悟を持って茶屋を開いていたのです俺に助けを求めた娘は。しかしあなたたちの心とその娘は違う。
そこで白石は一度言葉を切ると女将の瞳をしっかりと見据えてこう続ける。
「逆に聞きたいですが、なぜあなたと跡取りさんは一からの出発をしなかったんです。こうして天ぷら屋はある。この天ぷら屋は一週間や二週間で消えません。訳を徳一屋さんか加納屋さんに話し、味をチェックして貰いつつ跡取りさんが死ぬ気で勉強し修行すればなんとかなった問題かもしれませんよ」
「そ、それは……」
この天ぷら屋のあらましは加納屋から聞いた。夫婦が辛い思いをし、死ぬほど働いて手に入れた店だそうだ。それゆえに、その頃の生活に戻りたくないという女将の思いがあったことは白石には透けて見えた。それとも神の一皿を編み出してしまった主人がこの店に基本を失わせてしまい、狂気の改良に至らせた元凶なのか。
そう考えると白石はどうにも言えない気持ちになり一度目を瞑った後に静かな口調でこう言った。
「厳しいこともいいましたが、とりあえず、今日の俺の動きを覚えておけば跡取りさんも、いつか美味しい天ぷらを作れるかもしれません」
一応白石は厳しい口調で色々言ったが、それでも最後まで足掻き生き残りを懸けるかもしれないこの店の跡取りに天ぷらの作り方を見せたわけだ。
「見せるだけ甘いな。白石。普通の料理人なら自分の技術は見せんぞ」
「いえ。今回は気まぐれでしたので」
徳一屋がそう言って席を立つと白石の肩に手を置いてから廊下へと出て行った。白石も徳一屋の後に続くようにして退出していく。
部屋から聞こえる女将のすすり泣く泣き声を聞いてから白石は一度目を瞑ると廊下を抜け外へ出て行く。先に外へ出ていた徳一屋は白石を待っていたのか皮肉ぶった表情を浮かべ、静かな口調でこう言った。
「最高の料理と最悪に気分の悪い日か。どうにも酒が不味い一日になりそうだな」
「はい。俺も言い過ぎたかと思っていますが、しかし、こうでもしないと再出発は難しいでしょう」
「かもしれないな。それにして白石。江戸というところは厳しいな。懐具合にも命にも」
「はい。俺も切実にそう思います」
徳一屋と白石は江戸の夜空を見やる。そこにはちらりちらりと雪が舞っていた。こうしてとある天ぷら屋での小さな出来事が終わった。
この後、この天ぷら屋の跡取りが、白石に死ぬほど泣いて土下座をして嘆願し、それに折れた白石が天ぷらの技術を教えていくのはまた別のお話だ。その時に白石は自分の口から自然と漏れた、俺は甘いかな徳一屋さん? という言葉に自虐の笑みを浮かべるのだった。
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