中華鍋による干しエビのチャーハンと江戸の金銭事情
時は白石がこの江戸、つまり嘉永六年十月二十九日に飛んでから翌日に日が変わったお昼になる。木乃葉は白石の部屋に行き、今後のプランを話した後にお金の説明をしていた。
「つまり申しました通り、家の石高はごく普通の旗本の家と変わりません」
「は、はあ……」
昔、江戸時代に興味があって石高について調べたことがあったのでなんとか話にはついていけるが、やはりこの時代の人間は玄人だ、時折ついていけなくなる。木乃葉と白石はは互いに向き合うように正座している。木乃葉は白石の目を見て困った顔をした。
「ではこれならばどうでしょう。米は一升で約四十文」
「は、はい!」
白石は少し浮ついた声を出しながら木乃葉の説明を聞いていく。
「それに対して、醤油の価格が一升約銀一匁、味噌が一貫銀二匁、砂糖が高価なのは一升で銀四匁するからです」
昔読んだ資料を真に受けてはいけないので理屈で考える。米より砂糖は遙かに高い感じなのかなと。米が百文、砂糖が四百文近くになる。ということは蕎麦一杯十六文(二百四十円)になるので、砂糖の価格は相当高価になるなと白石は考える。計算が間違っているかもしれないがそういう考えでいいのかもしれない。
「となると砂糖はすごい値段になるのか……」
江戸時代にとって米は重要な物だ。それを超えるとなると、やはり嗜好品になるのかもしれない。昔は政治交渉などに使ったことあると聞いたことがある。
「簡単な説明でしたがおわかりいただけましたか?」
「う、うーん。なんとなくですが」
「不安でございます。まだお顔に分からないが残っておいでのようです。ふふふっ」
「お恥ずかしながら仰られるとおりでございます」
「ご正直ですこと。うふふっ」
自分の顔を見て、無垢な瞳とはじけんばかりの輝かしい笑顔を見て白石はなんだかありがたい気持ちになった。
「失礼します。姉様」
「どうしました春野」
「外で掃除をしていたときに千野様のご長男の友ノ助様が袴着をされたそうです」
「まあなんてめでたい、つい先日にも清水様のお子様がお食い始めをなされましたね。兄に、友ノ助様のことをお伝えしなければなりませんね」
「はい」
胸の前で手のひらを合わせてパチンと叩く木乃葉。そしてそれを見て微笑む春野。白石はどうやら自分の知らない未知のイベントがこの世界で行われたらしいと思った。木乃葉は白石の方をみやるとにこりと笑顔を浮かべる。
「そういえば白石様のお髪も結わなければなりませんね」
「結う?」
「そうです」
い、いやだと白石は思った。自分はこの髪型が好きなんだ。なんかあの凄い髷になるんだろと思うと本当に抵抗したい気持ちになった。
「ですが、白石様は武士か町人の方かも分かりませんし、なによりお髪が長くございませんので後ろで束ねる総髪がよろしいのかもしれませんね」
「総髪とは頭を剃らなくていいということでしょうか?」
「はい、そうでございます」
なんて自分はついているんだ、ラッキーだと思いつつ、その心の中には将来の不安がついて回る。
(ラッキーじゃない。むしろ自分がここにいることはついてないことなんだ。このまま職が見つからなければいつまで生きていけるかわからない。俺はどうすればいいんだ)
思い悩む白石。その考えが顔ににじみ出ていたのか、白石は袴を強く握りしめた。この着物は今朝、木乃葉に貰ったものだ。小袖に袴に羽織。もちろん刀などない。
自分は武士か町民なのかもわからない謎の人物として相手は見ているのだ。
ただ服を用意してくれるのは非常にありがたいと思っている。そんな白石のことを察したのか木乃葉は優しげな口調でこう言いながら微笑みを浮かべるのだった。
「それではお髪を結びましょう。短いので苦労しそうですが」
「ほんとうです。うふっ」
木乃葉の言葉に釣られるようにして春野は顎に手を置いて笑顔を浮かべた。とても憂鬱な影を落とす心の中の不安が少し和らいだ気がした。
その後髪を結ってもらい、その翌日、白石と木乃葉は外に散歩に出かける約束をした。散歩といっても白石に江戸とはなにかということを教えるための散歩のようだ。
木乃葉と春野が顔を合わせ、そういえばお腹が好きましたね、と言った瞬間、玄関から家人を呼ぶ声が聞こえた。どうやら加納屋のようだ。
白石と木乃葉、そして春野はその声に導かれるようにして玄関へ行く。
「ごめんくださーい」
「加納屋さん、ようこそいらっしゃいました」
「こんにちはーです」
「こんにちは。いつもお世話になっています」
三者三様で加納屋に挨拶をする。そんな三名を見ながら加納屋は右手に持っている中華鍋を見せた。とても江戸時代の52歳とは思えない元気さである。
「重治郎さんに見せようと思いましてな、どうやら清国で使われている鍋らしいのですわ」
そういえば重治郎は料理による外交を考えているとか言っていたなと白石は思うと、それを手助けしているのがこの加納屋さんなのかと思う。
そこで白石は脳裏に電流のような閃きが走った。今朝方の春野と木乃葉の会話を思い出す。
「卵が余っているんですが、これはおじやか、ゆで卵にするしかないでしょうね」
「でも姉様、なんかおいしくないんですよね」
しまった! この家の人に許しを得て、ゆで卵用のソースマヨネーズの一つでも作っておくべきだったかと白石は今朝方に後悔したことを思い出す。もっとも卵代を下さいと、言いにくかったのもあるが。やはり文無しは辛いと今朝思い知った。
しかし、この中華鍋を見た瞬間に、その悩みも吹っ飛び、一同に自慢げな様子で言い切った。料理に集中すると悩みなどは後に考えるようになる。それが白石という料理人だ。
「それは中華鍋といいます。その中華鍋で最高の料理が作れますよ。卵があれば」
「ほ、本当か白石さん! このなんとか鍋で最高の料理が作れるのか?」
「ええ……」
加納屋が白石の言葉を聞いてすり寄ってきたので、白石は後ずさる。老人に抱きつかれそうになって喜ぶ趣味はない。
「でも、白石様は記憶が……」
木乃葉が記憶のことに触れた瞬間に、白石は人差し指を顔の前で振り、こうきっぱりと言い切った。
「こと、料理にかかっては、その記憶のことはなにも心配ありません。美味しい料理を賢明に作らさせていただきます。ただ、俺が台所を使うには木乃葉さんの許可が必要ですが」
そんな自信満々の中に避けがたい遠慮と謙遜がある白石を見て、木乃葉はなんだか寂しいような、可愛い人を見ているような気持ちになった。だから白石に料理を任せたい気分になったので、彼女らしいきっぱりとした性格から出る思いで素直にこう言った。
「わかりました、料理がなにかの思い出のきっかけになるかもしれませんし、お任せします」
そんな会話が行われた一時間後ぐらいには、木乃葉、春野、加納屋の三人は見たこともないようなパフォーマンスを見ることになった。
長ネギを細かく刻んだせいか、厨房には長ネギの深いパンチのある香りが台所を満たす。
白石は卵を素早く割り、どんぶりの中に人数分の卵黄を入れると、素早く箸でかき混ぜ、黄金比率の卵液へと変化させる。
カシャカシャカシャと素早い音が聞こえ、白石を除く全員が固唾をのんでその工程見守る。
白石は竈で温めておいた中華鍋の中に油を入れ、しっかりとなじむように中華鍋へ油を行き届かせる。
油をなじませると、白石は中華鍋にある油を少し残し、他は別の容器へ移す。
「なにが始まるんでしょうか。ちゅうかなべというものからパチパチと音が鳴っています」
「この加納屋、このような料理法は見たことがないぞ!」
「なにが始まるのか楽しみなのです」
「OK! それでは白石弦の芸を見てくださいね」
白石は中華鍋の中に溶いた溶き卵を入れると、さっとお玉でかき混ぜて少しだけ固まらせた。その卵液のほとんどがまだとろーりとした生である。ジュワアアアアァァとなんとも腹の空かせる音がしている。
「よしっと」
白石はその中に人数分のご飯入れると、お玉で混ぜていく。更にかき混ぜたり広げたりして飯と卵のバランスを良くしていく。しっかりと米と卵がなじみ、やや米も見目も麗しい黄色になっている。
白石はそれを見た刹那、華麗な動きで鍋を前後に振った。米が竈の炎に少しでも近づくように焼いていく。白石が動くとズゴーッーズゴッーガシャガシャという鍋を今まさに使っているんだなという音が鳴った。
米が宙へ浮いている皆がそう思った。それはまるで白石の腕に操られるかのように。右手に持つお玉でチャーハンをかき混ぜながら、左手で鍋を操り米を見事に調理していく。
「な、なんたる動きよ。まるで舞を踊る舞子のようじゃ」
「こ、こんな料理法ってあるのですか……なんという豪快で見せる料理なのでしょう!」
「こんな芸で無料はありえないのです! お金を払ってもおかしくないです……」
香ばしい香りになったところで白石は塩と胡椒を適量に加え、更に同じ動作をし、素早く鍋の中へ瓶に入っているかえしを入れる。これは醤油とみりん、砂糖で作った調味料だ。
更に家にあった干しエビを加え、その後、醤油、ごま油、気持ち程度の砂糖を少々、最後に細かく刻んだ長ネギを加え、お玉でかき混ぜるようにしながらも鍋を大きく振って米を直火の熱で焼くようにしていく。長ネギを入れて約三〇秒ほどが限界だなと思う。それ以上焼くとネギの風味が飛ぶ。
「おいしょっと」
なんとも腹の空く香ばしい焦がし醤油の香りが台所に流れていく。そんな香りを嗅いだ加納屋がもう待てんと言いながら子供ようなことを言い始める。
「いつ出来るんじゃー、まだかの、まだかの」
「あまりの良い香りで意識が飛んでしまいそう」
「香ばしくなんと言えない香りです。それにしても凄い動きです」
加納屋、木乃葉、春野の順に興奮冷めやらぬ歓声が出る。それを見計らったかのように白石はそこで腕の動きを止め、お玉を器用に動かしながらチャーハンを鍋からお玉の上に少しずつ載せていく。
「できましたよ! みなさん!」
『おーっ』
白石の一声に歓声の声が走った。全員分を鍋から皿へ移すと、極上の湯気を上げる、干しエビのチャーハンの実食の時間だ。
「よし、みんな食べようチャーハンは熱さが命だ」
「は、はい。それでは春野運びましょう」
「は、はい。美味しそうです」
「儂も手伝うぞい」
四人で食事をとる部屋に急ぎチャーハンを運ぶ。そういえばスプーンがないと白石はこの時感づいてしまった。仕方ないのでなにかないものかと台所を見に行くとレンゲがあったのでそれを持って行く。
「それでは全員にレンゲをお渡しします」
「おー!」
「はい!」
「はいです!」
「では、お召し上がりください」
その白石の言葉が行動のきっかけになったのか、加納屋がレンゲをチャーハンに入れると、ふわりと湯気と香りが舞った。加納屋はレンゲを見据えチャーハンを口の中へ入れようとするが。
「あつ、あち、あつつ、ふうう」
「慌てないでゆっくりと」
「儂は熱いこのチャーハンなるものが食べたいんじゃー」
加納屋はレンゲを口の中へ入れると、ほふほふと言いながら咀嚼していく。その瞬間、加納屋の顔が幸せに満ちあふれた表情になった。嚥下した後に加納屋はチャーハンをじぃっーと見やる。
「……パラパラとした米に卵がしっかりと絡み、なんとも清々しい香ばしさ! 程よい塩気と胡椒のピリッとした辛みと香り。更にごま油の芳醇で濃厚な香りが口へふわっーと広がる……極上な味だ……」
加納屋に続くように木乃葉が嚥下した後に幸せそうな顔で呟いた。
「そしてかえしというこの調味料がこの味を出すのでしょうか、甘辛のコクと程よい甘みを引き出しています……凄くおいしい。こんなの食べたことがないです……」
「干しエビと長ネギの風味がなんともいえません、絶妙な組み合わせです……なにかかもが渾然一体となって……幸せでございますー」
春野の絶賛を聞いた後に白石は一口チャーハンを食べ、嚥下すると一同にこう言った。
「日本は米文化です。こうした料理と付き合うのも大事なことでしょう」
その白石の言葉に一同は聞いているのかいないのか、ふむふむと首を振る。
「そ、そうじゃな! ふうふう、あちち。手が止まらん!」
「ほふほふ、手が止まりません」
「ふうふうー、美味しいですぅー」
チャーハンの熱と戦う一同。白石は皆の様子を見て微笑みを浮かべる。
そうこうしている間に一同は完食すると、皆が白石を認めるようにして褒める。
「こんな料理法をどこで? まるで清国にいたようじゃ」
「本当に、こんな凄い技術をどこで」
「江戸では見られない技なのです」
「喜んでいいただけたようでありがとうございます。竈でなければもっと上手くいったのですがね」
「この味でも満足できないのかね。これだけの技法をもってしても」
加納屋の言葉に白石はこくりと首を縦に振った。やはり中華コンロと勝手が違う。それでもこれだけおいしくできたのは竈のおかげなんだろうと白石は思うようにした。
加納屋は不思議な御仁だと白石に言った。白石はそんな加納屋に微笑みを浮かべるのだった。
こうして突然入った中華鍋でのクッキングは大好評で終わった。
最後に、加納屋は本当に何者なのじゃ、重治郎様に言わないといかんという囁き声を残したが、誰の耳にも届いていたなかった。
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