火の名を知らない私たち

第一幕:目覚めた朝と、穏やかな日々

 スマートフォンの電子音が、淡く朝の空気を揺らした。


 画面には、

 【6:30 起床】と小さな文字。


「……ん、……うぅ」


 ふとんの中で丸くなっていた人影が、むくりと起き上がる。


 少し寝ぐせのついた焦げ茶色の髪をぐしゃぐしゃとかきながら、

 目をこすっては欠伸をする。


 静かなマンションの一室。

 窓の外では、桜の枝が小さく揺れている。


 女性の名前は――真央(まお)。

 二十代半ば、どこにでもいる、ごく普通の“中学校教員”。


 「ふああ……まだ眠い……」


 そう言いながら、彼女はふらふらと洗面所へ向かい、

 ぬるめのシャワーを浴びる。

 水の音とともに、少しずつ意識が現実に追いついてくる。


 鏡に映る姿は、すっきりと整った顔立ち。


 大きな瞳と長いまつ毛。

 素肌の白さが少しばかり幻想的な気配を残していた。


 「……うん。大丈夫そう」


 バスタオルで髪を拭いたあと、淡いクリーム色のワンピースに着替える。

 やさしい花模様が入ったシンプルなデザイン。


 服装にあわせて、ナチュラルにメイクを整える手つきも、

 どこか慣れたものだった。


 朝食は、トーストとサラダ、それにインスタントのスープ。


 簡単だけれど、温かい食事をゆっくりと摂るその姿には、

 生きることに焦りのない静けさがあった。


 「……さて、と」


 ちょうど食器を片付け終えたころ、

 スマホがまた軽やかに鳴る。


 【7:40 出勤準備】


 「はーい、はーい」


 真央は冗談のようにスマホに答えて、

 通勤カバンを肩にかけた。


 玄関の鏡に映る自分を、ちらりと確認。

 軽く髪を整え、深呼吸。


 「いってきます」


 その一言を残して、静かに扉を開ける。


 外は春の匂いがした。


 歩道には、制服姿の中学生たちがすれ違う。

 自転車のベルが遠くで鳴り、犬の散歩をする人の姿もある。


 平和で、どこまでも普通の、朝。


 そして数分後。

 学校の正門が見えてくるころ――


「真央せんせーっ! おはようございます!」


 遠くから、朝練をしている運動部の生徒たちが手を振ってくる。


 女子生徒たちは手を振り、男子生徒たちはちょっと恥ずかしそうに声をかける。


 真央は、にこりと微笑んで答える。


 「おはようございます。今日もがんばってね」


 春の光が、彼女の髪を優しく照らしていた。


 ――この人が、かつて“魔王”だったとは、

 誰も、思いもしないだろう。


 けれど彼女は、今、確かに“生きている”。

 火を捨て、剣を置き、

 ただの“ひとりの先生”として。

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