エピローグ「もう、子どもじゃないから」

 夕方の光が、プールの水面を金色に染めている。


 ここは変わらない。


 でも、私だけは――あの夏の日から、変わってきた。




「つかさ、優勝おめでとう」




 声をかけてくれたのは、あの人。


 もう“コーチ見習い”なんかじゃない。今はれっきとした水泳部の顧問であり、指導者。


 でも私にとっては、ずっと変わらない人。




 ――神谷先生。




「ありがと。あのとき、あなたが背中を押してくれたから、ここまで来られたんだよ?」




 私は照れ隠しに笑うけど、きっと顔は少し赤い。


 プールサイドでひときわ目立つセパレートのジャージを脱げば、さっきの決勝で着ていた競泳水着のままの身体があらわになる。


 18歳になった私の体は、きっともう“子ども”じゃない。




 背は160センチを越えて、足も長く、肩から腰のラインは水泳選手らしくしなやかに締まっている。


 でも、胸元やヒップラインには、少女ではなく“女”としての丸みが宿りはじめていた。


 鏡を見るたび、自分の変化にどきどきしていた。けど今は、見てほしいと思ってしまう。




「……先生」




「ん?」




「話したいこと、あるんだけど。……部室、空いてる?」




 先生の目が少し見開かれる。


 でも、すぐに優しい笑みが浮かんで、そっと頷いてくれた。




 部室棟の奥、誰も使っていない個室。


 鍵が閉まる音に、胸が高鳴る。




「つかさ、本当に……いいのか?」




 先生の声は、震えていた。


 あのときの私が手を握ったように、今度は私の方から――先生の手を、胸元に導いた。




「……18歳です。ルールは守ります。でも、気持ちは、ずっと前から変わらない」




 私の言葉に、先生は目を伏せて、でも次の瞬間には真っ直ぐに私を見た。




「俺も……ずっと想ってたよ。誰よりも綺麗で、誰よりもまっすぐな、君を」




 静かに、唇が重なる。


 最初はそっと、確かめるように。だけどだんだんと、求める熱が高まっていく。




 水着の肩紐を指がすべる。濡れてもいないのに、身体が熱くて、指先がふるえていた。


 肌と肌が重なるたび、心までひらいていく。


 こんなにも“触れること”で、想いが伝わるなんて――知らなかった。




 ――私は、先生のものになりたい。


 心も、身体も。ぜんぶ。




「……先生、もっと……」




 胸に触れる手が優しくて、でも力強くて、背筋がぞくりと震える。


 名前を呼ばれるたびに、身体の奥がきゅんと疼いて、目の奥が潤んでいく。




「つかさ……大好きだ」




 その一言が、私を全部ほどいた。


 ほどいて、包んで、優しく繋いでくれた。




 身体の奥深くに、彼の熱が入りこむ。


 私は息を詰めて、でも逃げなかった。


 だってこれは、恋じゃなくて――愛だから。




 痛みはすぐに、ぬくもりに変わった。


 先生の腕の中で揺れながら、私は心の奥でひとつの想いをつぶやいていた。




 ――これでようやく、あの夏の声に、応えられたんだ。




 あのとき、私を見つけてくれた人。


 背中を押してくれた人。


 ずっと憧れだった人。


 今、私の中にいる人。




 私、ちゃんと、あなたに届いたんだよね?




 ふたりで並んでシャワーを浴びながら、私は濡れた髪を指ですくった。




「……ねえ、先生」




「うん?」




「来年、引退したら……私、プロに進む。でもその前に、ひとつだけ、お願いがあるの」




「なんでも言ってみて」




 私はタオルの端を握りしめて、少しだけ照れてから、でもちゃんと目を見て言った。




「――そのときは、もう“先生”じゃなくて、“恋人”って、呼ばせて」




 先生は一瞬驚いたあと、深く息を吐いて、私の頭をくしゃっと撫でた。




「……いいよ。でも俺の方からは、もう今から“つかさ”って呼ばせて」




 私、たぶんその瞬間、人生でいちばん可愛い顔してたと思う。


 だって、頬が真っ赤になって、泣きそうなほど嬉しかったんだもの。




 プールの水音が、どこか遠くで響いている。


 その向こうから、あの夏の日の声が――また、呼んでいた。




 「がんばれ、つかさちゃん」って。




 私はもう、ひとりじゃない。


 心も、身体も、彼と結ばれたから。


 そしてこれからも、ずっと一緒に、泳いでいけるから。

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