Part.2
菜帆は、部屋の隅で静かに泣いていた。
昼間の出来事が、体に染みついて離れない。
スカートを完全に押し上げた、足元から吹き出す暴風の生暖かさ。
町中の視線が注がれているような恐怖。
そして、それを見ていた男子たちの笑い声と、無自覚で暴力的な言葉の数々。
肌に、目に、耳に、心に、まとわりつくように離れなかった。
そのとき、スマホが小さく振動した。
画面には「桐谷」の名前。彼は今日、通風口の前に立っていた男子の一人だった。
《今日はごめんな。機嫌直してよ》
菜帆はしばらくそのメッセージを見つめた。嬉しいとは、思えなかった。
指がゆっくりと動き、短く返す。
《大丈夫。警察に言ったりしないから》
すぐに返信が来た。
《ありがとう、ホントにごめんな。来週のフェス、時間決めたらまた連絡するわ!今日のことは忘れてパーっと楽しもうぜ!》
菜帆はため息をついた。そして、なぜか涙が余計にこぼれてきた。
(……何にも、わかってない)
――翌朝。
菜帆は制服の下に短パンを履いて、それを何度も確認してから家を出た。
それでも、風がスカートを揺らすたびに、手が自然と裾を握った。
信号を渡ると、後ろから軽やかな足音が聞こえた。
「槙本さん、おはよっ」
葵の声だった。綾も隣にいた。
「……おはよう。昨日は、ありがとう」
葵と綾にそう返しながらも、菜帆はスカートをぎゅっと握ったままだった。
「……やっぱり、まだ怖い?」
綾が小さく問いかけると、菜帆はうなずいた。
「昨日ね……桐谷から連絡があったの。『機嫌直して』って」
「……で、私が『警察には言わない』って返したら、『ありがとう、来週のフェス、今日のことは忘れてパーっと楽しもうぜ』だって……」
「……何それ」
綾の表情が曇る。
「そんなの……ただ大事にされるのが怖かっただけじゃん……」
葵もまた、悲しそうに目を伏せる。
「あれほど言ってもわかんないんだ……。どうしろって言うのさ……」
葵の声が震える。
それは、小学生の頃の自分が、どこか雑に扱われたような悲しさだった。
そんな葵の横顔を見た綾もまた、悔しさに唇を噛みしめる。
「……男女の違いってさ」
綾は小さくため息をつく。
「こういうことじゃないよね……」
綾の言葉に、菜帆と葵は小さくうなずいた。
そのときだった。
「……あ……あのっ!」
突然横から1人の男子が現れ、三人の前に立った。
柳井だった。
男子グループの中ではあまり目立たず、最後まで何も言わなかった一人だ。
「……その……槙本……、白石さん……、久郷さん……」
柳井は、突然のことに驚いている3人の目を一人ずつ見て、また黙り込んだ。
「……あの、昨日は……本当にごめんなさい」
彼は深々と頭を下げた。
風の音だけが響く。
菜帆は少し目を伏せ、短く言った。
「……大丈夫。警察に言ったりしないから」
その言葉に、葵と綾も目を伏せる。
「あ……いや……、そういうこと言いたいんじゃなくて……」
その一言に、三人の目が柳井に向けられた。
「……全然知らなかったんだ」
「槙本も星野も……いつもみたいに……笑うとばかり思ってた……」
「でも……槙本があんなに泣いてるとこ、初めて見たし……。もしかしたら星野も、本当は笑えてなかったんじゃないかって、後からわかってきて……」
柳井は、途切れながらも続ける。
「白石さんの話聞いて……俺たち本当に無神経だったんだって、考え直した」
「俺たちのせいで、槙本がこれから何年も苦しめられると思ったら……」
「でも……どうしたらいいかわかんなくて……」
「……正直、スカートがめくれることの何がそんなにしんどいのか、今もちゃんとはわかってない。男の自分が思ってる以上にヤバいことなんだって、頭ではなんとなくわかってきたけど……でもやっぱ、ちゃんと実感してるかって言われたら……まだ、よくわかんない」
「ただ――槙本のスカートがめくれるように、わざとけしかけた……それが本当に、とんでもなく酷いことだったってことだけは、ハッキリわかった」
言葉が詰まる。
「結局今は、謝ることぐらいしか思いつかなくて……本当にごめん」
そして柳井は、菜帆の目をまっすぐ見つめ、意を決したように言った。
「槙本……遠慮しなくていいからな?」
「こっちは腹くくってるから……槙本の気が済むようにしてほしい」
沈黙が落ちた。
葵と綾は、黙って菜帆の背中を見守った。
菜帆は少し間をおいて、ゆっくりと口を開いた。
「……ありがとう。そんなふうに謝ってくれたの、柳井が初めてだよ」
彼女の口元に、小さな微笑が浮かんだ。
「正直、今だって怖いよ。今日はちゃんと短パン履いてるから、絶対に見えないってわかってるのに……」
「それでも……このスカートが、いつまた私に向かってきて、私はどんな姿にされてしまうのか……すごく怖い」
その言葉に、柳井は唇をかみしめ、その眼にはわずかに光るものがあった。
「今この場で許すとか、とても考えられない」
「今はまだ……それを考える気にもなれない」
少しの沈黙の後、菜帆は伏せていた目を上げ、柳井をまっすぐ見つめた。
「……でも、柳井の気持ちは、ちゃんと受け取った」
「それだけは……ありがとう」
そう言う菜帆は、少しだけ微笑んだように見えた。
「……来週のフェス、みんなで楽しんできてね。」
菜帆のその言葉に、柳井は目を見開く。
菜帆はそれを感じ取ると、スカートを握ったまま視線を落とし、それ以上、何も言わなかった。
「……じゃあ、先に行く。本当にごめんな」
そう言って柳井は背を向け、足早に校門へと向かった。
菜帆はスカートを握りしめたまま、小さく息を吐き、肩を落とした。
そんな菜帆に、葵は何か言おうとしたが、言葉が見つからず、黙ってしまった。
綾は、菜帆の肩に手を伸ばしかけるも、その肩に触れることができなかった。
何も語らない菜帆の背中は、言葉よりも強く、葵と綾の心に残った。
(つづく)
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