第6話 舞台裏


 通し練習が終わったあとのステージ裏は、どこか気の抜けた静けさに包まれていた。白熱灯が落とされた舞台袖、木製の床が照明の残り香を抱いてまだほのかに温かい。散らばった小道具や脱ぎ捨てられた衣装の隙間から、ほんの数分前までの熱気がまだ立ち上っているようだった。


 舞台裏はすっかり静かになっていた。誰かの水筒が転がる音と、照明の熱が落ちていく感覚だけが残っている。


 セラは魔法使いのローブを肩からずり落とし、舞台袖の折りたたみ椅子にぐったりと座り込んでいた。額に汗が滲んでいる。


 桂一郎は王子の衣装のまま、紫乃と並んで壁際に座っていた。ふたりは、ささやき合うように小さな声で話している。紫乃が何か言うたびに、桂一郎が肩をすくめ、笑って答えているのが見えた。


 セラは舞台袖の隅から伏し目がちにそれを見ていた。冷たい汗がうなじに残っていて、練習が終わったというのに心は落ち着かなかった。


 そのとき、そっと近づいてきた気配がした。振り向くと、美奈子がいた。


「ねえ、セラ君──」


 彼女は目をきらきらさせながら声を潜めた。「一瞬でいいから、ドレス着てみない?」


「……え?」


 セラは声にならない声を返す。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったから。戸惑うセラに、美奈子はくすっと笑った。


 美奈子の手にはシンデレラのドレス。きらめく布地には、まだ照明の残光が宿っているようだった。美奈子はちらりと紫乃たちを見た。ふたりはまだ会話に夢中で、こちらの様子には気づいていない。


「ね? ちょっとだけ。似合うと思うの」


 その目は、本気だった。冗談ではなく、真剣な好奇心と期待が混ざっている。


 セラの胸の奥に、静かに何かが波打った。あの淡い色の美しいドレス──それに身を包んで、あの役を演じる自分……想像するだけで顔が熱くなるようだった。


 彼女の言葉の中には、どこか挑発にも似た響きがあった。もし、自分がその衣装を着たら桂ちゃんはどんな顔をするんだろう。ふと、そんな考えが心のどこかをかすめた。


「……でも」


 セラは視線を落とした。けれど、美奈子はすかさず口を開く。


「じゃあ、みんなが帰ったあとで。私にだけ見せてよ。ほんのちょっとだけ……」


 その言葉に、セラはふと何かに心を引かれた。ドレスのレースが自分の指先をすり抜けていく……セラは黙ってうなずいた。





 部屋のカーテンを閉め、廊下の明かりが差し込まないようにすると、美奈子は手際よく衣装を持ち出してきた。ドレスの胸元にはレースがあしらわれていて、袖口には小さなリボンが縫い込まれている。光沢のあるサテンが滑らかな音を立て、裾が床に引きずるたび、セラの鼓動がだんだんと高鳴っていく。


「じゃあ、脱がせてあげるね」


 美奈子の指が、セラの肩にかけられていたマントをするりと外した。そして、衣装のボタンを器用に外していく。彼女の息が近い。落ち着いたようなふりをしていても、その動作にはほんの少しだけ熱がこもっていた。


「ほら、腕上げて。……うん、そう」


 やがて、ドレスに腕を通し、背中のファスナーが上がっていくと、セラの身体は淡い光に包まれたようだった。スカートのふくらみが太ももを隠し、レースが鎖骨を撫でる。鏡に映った自分は、まるで別人のようだった。


 ガラスの靴が足に吸い付くように、セラの身体にしっくりと布が馴染んだ。細やかな刺繍が施された淡いブルーのドレスは、ウエストでぎゅっと締まり、セラの華奢な体つきを際立たせた。肩はふわりとしたチュールに包まれ、スカートは幾重にも重なって柔らかく波打つ。裾は床に届くほど長く、歩くたびに軽やかに揺れた。


 頬にうっすらとチークを乗せられ、唇には艶のあるグロスが引かれた。美奈子が仕上げに、ウィッグを乗せてブラシをかけてくれる。


「……とっても、似合ってるよ」


 その言葉にセラは小さく息を呑んだ。自分でも、見惚れてしまいそうだった。


 指先が震える。口元が緩む。心がふわりと浮かび、どこまでも軽くなる。瞳がきらきらと輝いていた。まるで魔法をかけられたみたいだった。


「とっても似合ってる」


 再び呟く美奈子の声が、どこか遠くから聞こえた。


「……ありがとう」


 セラの声は、まるで夢の中の自分が答えているようだった。けれど、その一瞬の静けさのなかで、美奈子はさらりと切り出した。


「ねえ、明日……桂一郎君にも見せてみようよ? なんなら文化祭の方のシンデレラ役、セラ君に譲ってもいいよ。たぶん、誰も文句なんて言わないんじゃないかな……?」


 セラの心臓が、音を立てて跳ねた。魅力的すぎる誘い。舞台の上で、王子の手を取るのが自分だったら──そんな未来を想像してしまいそうになる。けれど、次に浮かんだのは紫乃の顔だった。


 紫乃は、もう桂ちゃんのことを吹っ切れたって言っていた。だけど、そう簡単に終われるような恋ではなかったはず。彼女がどんな思いで桂ちゃんを見ていたか、セラは知っている。


 そして、今自分がその場所に立ったら──


「桂一郎君のこと、好きなんだよね?」


 美奈子の声が優しく、でも意地悪く刺さってきた。


「……幼馴染だから」


 苦し紛れにそう答えた。でも、美奈子は首を傾げ、瞳を細めた。


「そうじゃなくて、男として好きなんだよね? 桂一郎君のこと」


 セラの顔に一気に熱が広がる。何も言えずに口を開いたまま、息だけが漏れた。美奈子は小さく笑った。悪戯っぽくもあり、どこか嬉しそうでもある。


「……見せるのは、桂ちゃんだけだからね」


 セラがやっとのことでそう告げると、美奈子はこくりと頷いた。


「うん、みんなには秘密」





 その夜、誰もいない自室でカーテンを閉めきり、鏡の前でセラはもう一度女装をしていた。鏡に全身を写して自分の姿を何度も確認する。スマートフォンで、何枚も写真を撮る。唇にグロスを塗り直し、頬を染めた表情も試してみる。


 リップを塗り直し、髪を整え、ポーズをとってカメラのシャッターを切る。パシャ、パシャ、パシャ──


 そのレンズの向こうで微笑む自分は、誰よりも幸せそうだった。ふと、セラは気づいた。


 美奈子の視線。あのときの、艶めいた目。彼女はただセラを可愛いと思っているのではない。まるで、舞台の上の芝居のように──可愛くなって、想いを打ち明けて、そして砕け散る、その瞬間を見届けたがっている。そんな歪んだ願いが、透けて見えた。


 けれど、不思議だった。セラには、不安も恐れもなかった。あの王子様を振り向かせるくらい、自分にはできる──そんな確信めいたものが、胸の奥に宿っていた。


 パシャ、パシャ、パシャ……。

 フラッシュがまた、鏡の中の少女を照らす。シャッターを切る。フラッシュの光が自分の顔を照らすたび、セラは少しずつ確信に変わっていった。


 ──これは夢じゃない。魔法はまだ、解けていない。

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