時の欠片と誓い
月蝕刻
第一章:視界の歪みと始まりの合図
辺境の村、リーヴェの朝は、いつも霧に包まれていた。深い森と険しい山々に囲まれたこの村では、時の流れさえも他所より緩やかに感じる。しかし、カイルにとって、その穏やかな時の流れは、時折、歪んで見えた。彼の右目は、普通の人間には見えない「過去」や「未来」の残像を捉えることがあったのだ。それは、ぼんやりとした色彩の揺らぎであったり、唐突に現れては消える人影であったり、意味不明な文字の羅列であったりした。村人たちは、それを「カイルの奇妙な癖」として受け入れていたが、彼自身は、それが何かの兆候であるような、漠然とした不安を常に抱えていた。
その日の朝も、カイルは古い木造の家屋の窓から外を眺めていた。昨晩から降り続く雨が、しっとりと土を湿らせ、森の木々を深い緑色に染めている。彼の視界の端で、一瞬、青白い光が揺らめいた。いつもなら見過ごすような些細な現象だが、今日のそれは、妙に鮮明で、カイルの胸にざわめきが広がった。
「また、始まったのか…」
小さく呟き、カイルは壁に立てかけてあった使い慣れた片手剣を手に取った。この剣は、彼が幼い頃、村の近くの小さな洞窟で見つけたものだ。錆び付いていたが、磨けば磨くほど鈍い輝きを放ち、不思議と手に馴染んだ。そして、この剣は、彼が見る「時間の歪み」と共鳴するように、時折、微かに振動することがあった。
カイルが外に出ると、冷たい雨粒が頬を打った。村はまだ静かで、ほとんどの家屋からは明かりが漏れていなかった。彼は、胸の奥で高鳴る予感に従い、青白い光が見えた方向へと歩き出した。それは、村の外れにある、滅多に人が近づかない古びた祠の方角だった。
祠は、苔むした石造りで、いつからそこにあるのか誰も知らない。村の言い伝えでは、かつてこの地を治めていた古代の民が、時の神に祈りを捧げるために建てたものだという。カイルが祠の前に立つと、彼の右目の奥で、再び青白い光が強く瞬いた。同時に、剣が震え、鞘の中でカタカタと音を立てる。
祠の扉は、堅く閉ざされていたはずだった。しかし、今はわずかに隙間が空き、中から微かな光が漏れている。カイルは躊躇なく扉を押し開いた。
内部は、外観からは想像できないほど広かった。中央には、古びた石の祭壇があり、その上に奇妙な装飾品が置かれている。それは、手のひらほどの大きさで、透き通った青い石が埋め込まれた銀細工だった。カイルが見た青白い光の源は、まさにその装飾品から放たれていた。
カイルは祭壇に近づき、装飾品に手を伸ばした。その瞬間、彼の視界が激しく歪んだ。祠の中の景色が、まるで水面に映る影のように揺れ、いくつもの異なる時代の光景が、同時に彼の目に飛び込んできた。
崩れ落ちる巨大な建築物。光を放つ無数の「欠片」が宙を舞う光景。絶望に顔を歪める人々の顔。そして、耳元で響く、遠い声。
「…忘れられた…誓い…」
頭に直接響くようなその声に、カイルは思わず膝をついた。激しい目眩が彼を襲い、意識が遠のきそうになる。それでも、彼の指はしっかりと装飾品を掴んでいた。装飾品は、カイルの掌で熱を帯び、強く輝き始めた。その光は、祠全体を照らし出し、天井に描かれた古代の壁画を鮮やかに浮かび上がらせた。壁画には、時間を操る神のような存在と、その足元で祈りを捧げる人々、そして空から降り注ぐ光の欠片が描かれていた。
やがて光は収まり、カイルの視界も元に戻った。しかし、彼の心臓は激しく脈打ち、掌の中の装飾品もまだ熱を帯びていた。それはまるで、遠い過去からのメッセージを、彼に届けようとしているかのようだった。
「これは…一体…」
カイルは立ち上がり、装飾品をじっと見つめた。ただの飾り物ではない。確信が彼の胸に芽生えた。この装飾品と、彼が見る「時間の歪み」、そして祠に描かれた壁画。これらが全て、何らかの大きな繋がりを持っている。そう直感した。
その時、祠の外から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。足音は整然としており、ただの村人のものではない。カイルは咄嗟に身を隠し、気配を殺した。
祠の扉が再び開かれ、数人の男たちが中に入ってきた。彼らは黒い外套を纏い、顔をフードで隠している。そのうちの一人が、冷たい声で呟いた。
「やはり、ここか。時の欠片の反応が強い…見つけ次第、回収せよ」
彼らの言葉から、「時の欠片」という単語がカイルの耳に飛び込んできた。それが、自分が手にした装飾品のことなのか、あるいはもっと広範な現象を指すのか、カイルには分からなかった。しかし、彼らがこの装飾品を狙っていることは明白だった。
カイルは、掌の中の装飾品をぎゅっと握りしめた。これは、ただ手に入れただけのものではない。彼の人生に、突然現れた、導きの光のようだった。
彼の胸には、得体の知れない不安と同時に、抗いがたい好奇心が湧き上がっていた。この装飾品が、彼自身の特殊な目と、村の言い伝え、そして今現れた謎の男たちとどう繋がっているのか。その全てを知りたいという、強い欲求だった。カイルは、彼らの目を盗んで祠を後にし、この「時の欠片」が持つ意味を解き明かすための旅に出ることを、その場で決意した。彼の持つ古き契約の剣が、鞘の中で微かに光ったように見えたのは、気のせいではなかっただろう。
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