第8話:『初めての喧嘩と、焦げ付いた仲直り』
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時間は、まるで凍りついたかのようだった。
いや、実際に、空気が凍てついていたのかもしれない。
ソフィアが放った、氷のように冷たい拒絶の言葉は、その場にいた全員の動きと、言葉と、思考すらも、完璧に停止させていた。
「……私たちの旅の、足手まといになるだけではありませんか?」
その声は、いつもの、天上の音楽のような響きではなかった。
ガラスの破片のように硬質で、聞く者の肌を刺す、鋭い響き。
彼女の美しい顔からは、あの完璧な微笑みが綺麗さっぱりと消え失せ、代わりに、能面のような無表情が張り付いていた。
だが、その深く澄んだ青い瞳の奥では、これまで見たこともない、冷たい炎が静かに燃えている。
それは、明確な「拒絶」と「敵意」の色だった。
俺は、生まれて初めて、ソフィアという存在を「怖い」と思った。
俺の決断に、彼女が、はっきりと「否」を突きつけてきた。
それは、ただの意見の違いなどではない。
俺が、彼女の領域に、土足で踏み込んでしまったかのような、根源的な断絶の感覚。
「そ、ソフィアさん……?」
俺の声は、自分でも情けないほど、か細く震えていた。
マリアは、その圧倒的な神気と敵意を向けられ、小さな体をさらに縮こまらせ、今にも消えてしまいそうに震えている。
他の仲間たちも、息を殺して、このありえない光景を見守っていた。
いつもは騒がしいジンですら、固唾を飲んで、口を真一文字に結んでいる。
誰も、この氷の世界に、言葉を挟むことができない。
どうする?
ソフィアの言うことは、ある意味で正しい。
マリアの能力は、下手をすればパーティを全滅させかねない、危険なものだ。
合理的に考えれば、彼女を見捨てるのが、正解なのかもしれない。
ソフィアは、女神として、俺たちの旅の安全を考え、最善の判断を下そうとしているだけなのかもしれない。
でも。
俺の目の前では、一人の少女が、誰からも拒絶され、孤独に震えている。
彼女は、ただ、人を助けようとしただけなのに。
そのやり方が、致命的に不器用だった、というだけで。
この手を、振り払うことなんて、俺には、到底できそうになかった。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
そして、ソフィアの、氷のような視線を、まっすぐに見返した。
「……それでも」
俺は、言った。
「それでも、俺は、この子を見捨てることはできません」
ソフィアの眉が、ピクリと動いた。
「俺には、何が合理的で、何が最善かなんて、難しいことは分かりません。
でも、目の前で泣いてる奴がいて、俺にできることがあるなら、手を差し伸べたい。
ただ、それだけです」
俺は、震えるマリアの前に立ち、もう一度、彼女に手を差し伸べた。
「足手まといになんか、なりません。
俺が、させないから。
だから、一緒に行こう、マリア」
マリアは、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、俺と、俺の背後に立つ氷の女神を、交互に見た。
そして、おずおずと、その小さな手を、俺の手に重ねた。
ソフィアは、何も言わなかった。
ただ、俺の決断を見届けると、その青い瞳から、すっと感情の色を消した。
そして、静かに、俺に背を向けた。
その背中は、雄弁に語っていた。
「貴方の好きになさい。ですが、私は、もう貴方の決定を是とはしません」と。
俺と女神の間に生まれた、初めての、そして、決定的な亀裂だった。
◇
ダストピット村を出発した俺たちの旅は、まるで葬列のようだった。
空は、俺たちの心の内を映したかのように、厚い灰色の雲に覆われ、太陽の光はどこにも見えない。
乾いた風は、これまで以上に冷たく肌を刺し、荒野に生える枯れ草が、ヒューヒューと悲しげな音を立てていた。
鳥の声も、虫の音も、何も聞こえない。
世界から、音が消えてしまったかのようだった。
パーティの雰囲気は、最悪だった。
いつもは先頭で騒いでいるジンやサラが、今は押し黙って、ただ黙々と歩いている。
セレスティアとアンジェラも、いつもの口論をする元気もなく、不安げな表情で、俺とソフィアの様子を交互にうかがっている。
リナは、俺の服の裾を、小さな手でぎゅっと握りしめていた。
その手は、小刻みに震えている。
そして、すべての原因であるマリアは、最後尾で、自分の存在を消すかのように、小さくなって歩いていた。
俺は、何度も、前を歩くソフィアの背中に話しかけようとした。
だが、その背中から発せられる、絶対的な拒絶のオーラが、俺の言葉を喉の奥に押しとどめる。
彼女は、一度も、こちらを振り返らなかった。
ただ、機械のように、正確な歩幅で、前へ、前へと進んでいくだけだ。
こんなにも近くにいるのに、その距離は、絶望的なまでに遠く感じられた。
その夜。
俺たちは、吹きさらしの岩陰で、野営の準備を始めた。
誰ともなく、薪を集め、火をおこす。
だが、その輪の中に、会話はなかった。
ただ、パチパチと薪がはぜる音だけが、重苦しい沈黙の中に響いている。
ソフィアは、そんな俺たちの輪から、少し離れた崖の上に、一人でぽつんと立っていた。
月明かりも星明かりもない、完全な闇の中、彼女の白い旅装束だけが、ぼんやりと浮かび上がっている。
その姿は、まるで世界から切り離された、孤独な亡霊のようだった。
彼女は、自分の心の中で、初めて経験する、激しい感情の嵐に耐えていた。
(なぜ……なぜ、私は、あのようなことを……)
自分の口から出た、あの冷たい言葉。
ユウキの仲間を、「足手まとい」だと断じた、あの言葉。
それは、ユウキのためを思った、合理的な判断のはずだった。
彼の旅の安全を願う、女神としての、当然の責務のはずだった。
なのに。
なぜ、あの少女が、ユウキの優しさを受け入れた瞬間、自分の胸は、まるで万力で締め付けられるかのように、苦しくなったのだろう。
なぜ、ユウキが、自分ではなく、あの少女を選んだ時、世界から、色が失われたかのような、絶望を感じたのだろう。
その、耐えがたいほどの不快感。
胸を焼くような、焦燥感。
ソフィアは、その感情の正体に、ようやく、気づき始めていた。
これは、『嫉妬』だ。
ユウキを、他の誰にも渡したくないと願う、醜い『独占欲』だ。
(……私が? 女神である、この私が……一人の人間に、このような、見苦しい感情を……?)
自覚した瞬間、激しい自己嫌悪が、彼女を襲った。
慈愛と博愛の象徴であるべき女神が、なんと狭量で、なんと人間的な感情を抱いてしまったことか。
だが、その嫌悪感と同時に、抑えきれない想いが、マグマのように、心の奥底から噴き出してくる。
(ユウキは、私のものだ。私が、見出した人間だ。他の誰も、彼に触れるべきではない。彼の隣に立つのは、私だけでいい)
相反する感情の嵐の中で、ソフィアは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
俺もまた、焚き火の炎を見つめながら、崖の上のソフィアのことばかりを考えていた。
初めて見た、彼女の、あの冷たい顔。
俺が、彼女を傷つけてしまったのだろうか。
俺のわがままが、彼女の信頼を裏切ってしまったのだろうか。
考えれば考えるほど、胸が、ずきりと痛んだ。
でも、後悔はしていなかった。
マリアを見捨てるという選択は、俺にはできなかった。
だったら、どうすればいい?
俺は、どうしたいんだ?
答えは、シンプルだった。
(俺は、ソフィアさんにも、笑っていてほしい。リナも、サラも、ジンも、セレスティアも、アンジェラも、新しく仲間になったマリアも。全員で、バカみたいに笑いながら、旅がしたい)
そうだ。
それが、俺の望みだ。
だったら、やることは、一つしかない。
俺は、決意を固めて、立ち上がった。
そして、重苦しい空気に満たた仲間たちに向かって、できるだけ明るい声で、宣言した。
「よし! こんな時こそ、美味いもん食って、元気出すぞ! みんなで、史上最高の野営メシを作るんだ!」
◇
俺の唐突な提案に、仲間たちは、一瞬、きょとんとしていた。
だが、この地獄のような沈黙から抜け出せるなら、と、渋々ながらも賛同してくれた。
こうして、史上最悪の雰囲気の中で、史上最高にカオスな料理大会が、幕を開けた。
「まず、火力が足りんな! もっと、こう、ドカンと燃え盛る炎が必要だ!」
サラが、斧を振りかざし、近くの枯れ木をなぎ倒し始めた。
だが、彼女は、薪にすべき枯れ木と、湿って煙しか出ない生木の区別が、全くついていなかった。
「ふふん、火の勢いなら、私にお任せください!」
セレスティアが、得意げに杖を構えた。
「小さな、小さな火の玉よ! 『タイニー・ファイアボール』!」
彼女の杖の先から放たれたのは、どう見ても「タイニー」ではない、直径3メートルはあろうかという、巨大な火球だった。
それは、俺たちが集めた薪を通り越し、背後の森に着弾し、一瞬にして、大規模なキャンプファイヤー(というか山火事)を引き起こした。
「ぎゃああああああ! 消火! 消火!」
「セレスティアーっ! てめえ、いい加減にしろ!」
「おう、お前ら! とびっきりの獲物を狩ってきてやったぜ!」
ジンが、意気揚々と森から戻ってきた。
その肩には、なぜか、傘ほどの大きさがある、紫色に輝く、毒々しいキノコが担がれている。
「見ろよ、この神々しい輝き! きっと、食ったら不老不死になれる、伝説の珍味に違いねえ!」
「「「「絶対に違う!!!!」」」」
全員のツッコミが、綺麗にハモった。
「あ、あの、私……! 聖水で、このキノコを、お清めします!」
マリアが、おずおずと前に出てきて、祈りを捧げ始めた。
その、健気な姿に、俺たちは少しだけ希望を抱いた。
「おお、聖なる水よ、この食材に宿りし、邪気を祓いたまえ!」
彼女が聖水を振りかけると、毒キノコは、清められるどころか、ムクムクと動き出し、根っこのような足を生やして、陽気なサンバを踊り始めた。
「「「「うわああああああ! キノコが踊ってるぅぅぅぅ!」」」」
「聖勇者様! ご安心ください! 女神様は、料理にパセリをふんだんに乗せると、大変お喜びになられるのです!」
アンジェラが、どこからかむしってきた、大量の、どう見てもただの雑草を、鍋の中に躊躇なくぶち込んでいく。
鍋の中身は、もはや、緑色のヘドロのようだった。
阿鼻叫喚。
地獄絵図。
俺は、もはや、笑うしかなかった。
腹を抱えて、涙が出るほど笑った。
その笑い声は、伝染した。
最初は呆れていた仲間たちも、目の前のあまりにも馬鹿馬鹿しい光景に、つられて、くすくすと笑い始めた。
やがて、その笑いは、大きな渦となって、重苦しかった夜の空気を、吹き飛ばしていった。
◇
俺は、炭のように真っ黒に焦げ付き、正体不明の緑色の雑草が突き刺さり、そして、なぜか微かにサンバのリズムを刻んでいる、謎の物体Xが乗った皿を手に、崖の上のソフィアの元へと、一人で向かった。
彼女は、背を向けたまま、俺の接近に気づいていた。
「……何をしに来たのですか」
その声は、まだ、硬く、冷たかった。
「あの、飯、できました」
俺は、皿を差し出した。
「焦げてるし、なんか変な草、入ってるみたいですけど……。みんなで、作ったんです。だから、ソフィアさんにも、食べてほしくて。一緒に、食べませんか?」
ソフィアは、ゆっくりと、こちらに振り返った。
その青い瞳は、激しい葛藤の色に揺れていた。
「……なぜ、私を誘うのですか」
絞り出すような、声だった。
「私は、貴方の決断に、反対したのですよ。貴方の大事な仲間を、足手まといだとまで、言ったというのに」
「それでも」
俺は、まっすぐに彼女の目を見て言った。
「それでも、ソフィアさんは、俺の、たった一人のかけがえのないパートナーだからです。
俺は、ソフィアさんがいなかったら、ただの、一般人以下の、何の力もない男です。
それに……」
俺は、少し照れくさくて、頭を掻いた。
「ソフィアさんが、笑ってないと、俺も、なんか、全然、楽しくないんです」
不器用で、飾り気もなくて、何の気の利いたことも言えない、俺の、精一杯の本心だった。
俺の言葉を聞いた、ソフィアの、その美しい青い瞳から。
一筋だけ、きらりと光る雫が、頬を伝って、零れ落ちた。
それは、俺が初めて見る、女神が流した、温かい涙だった。
「…………貴方は、本当に……」
彼女は、震える声で、呟いた。
「ずるい、人ですね」
ソフィアは、差し出された皿を、受け取った。
そして、その真っ黒な料理(のようなもの)を、小さなスプーンで、ほんの少しだけすくい上げると、意を決したように、その小さな唇へと、運んだ。
もぐ、と、小さな咀嚼音。
そして。
「…………ええ。とても、面白い味が、します」
彼女は、顔を上げて、笑った。
それは、いつもの完璧な微笑みではなかった。
涙で濡れた、少しだけ困ったような、はにかんだような、でも、心の底からの、本物の笑みだった。
これが、俺とソフィアの、初めての「喧嘩」。
そして、史上最高に、焦げ付いた「仲直り」だった。
まだ、二人の間には、少しだけ、ぎこちない空気が残っている。
だが、あの凍てつくような断絶は、もう、どこにもなかった。
女神は、自分の厄介な感情と向き合う覚悟を決め、勇者は、不器用ながらも、全ての仲間を守るという決意を、新たにした。
二人の絆は、この不味くて、温かい料理のように、奇妙で、複雑で、そして、ほんの少しだけ、深まった。
俺たちの、ドタバタで、カオスな旅は、まだまだ、始まったばかりだ。
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