フィトンチッドの揺らぎ
須藤淳
第1話
風が香った。
緑の匂い――少し甘くて、すうっと鼻の奥を抜けていく、どこか懐かしいような香り。
それは、深くて、温かくて、やさしい。森の“息吹”そのものだった。
鼻腔を満たすその匂いは、穏やかなのに、どこか鋭さも帯びていて、
深く吸い込むたびに、胸の奥へじわじわと染み込んでいく。
そして、それが心の内側に届いた瞬間、私は、ようやく泣くことができた。
東京の会社を辞めたのは、身体を壊したからだった。
でも、本当はもっと前に、心のほうが先に壊れていた。
仕事のストレス、同僚の無理解、そして――別れた恋人。
「おまえのニオイ、だめになった」
彼が吐き捨てるように言ったその言葉は、ずっと胸の奥で、棘のように疼いていた。
付き合いたての頃には、私の髪に顔をうずめて「いい匂いだな」と笑っていたのに。
それがある日を境に、まるで毒のように、私を傷つける刃へと変わった。
香水はやめた。洗剤もシャンプーも無香料に替えた。
野菜中心の食生活に切り替え、汗をこまめに拭き、一日に何度もシャワーを浴びた。
数時間おきに手を洗い、衣服も頻繁に着替えた。
それでも「何か匂う」と言われ、彼の態度は日に日に冷たくなっていった。
家族や友人に尋ねても、「全然気にならない」と言うだけだった。
“匂い”はただの口実で、本当は別の理由があったのかもしれない。
それでも私は、自分の匂いに取り憑かれたように怯え、過敏になり、
やがて、日常生活すらまともに送れなくなっていた――。
そんなとき、“ストレス社会からの解放”と題された特集記事で、「緑の澪」という宿泊施設を知った。
山奥にある静かな場所で、日常から切り離されて、心と身体を癒す――それが、ここでの過ごし方だという。
私は吸い寄せられるように、そこへ向かった。
ヒノキの森に囲まれた、スマホも圏外になるほどの“静寂”の世界。
朝と夕に行われる“香りの瞑想”では、森の奥へ分け入り、ただ深く、ゆっくりと呼吸する。
それだけなのに、初日から私は、不思議なほどの安らぎに包まれていた。
ガイドの
穏やかに笑うその姿には、言葉にできない静けさがあった。
「この森はね、癒すんじゃなくて、忘れさせるんだよ」
「……忘れる?」
「うん。悲しいこととか、痛いこととか。ほら、もう少し深く吸ってごらん」
言われるままに深呼吸すると、胸の奥で、何かがふっとほどけていくような気がした。
数日が過ぎた頃、私は、部屋に置いていた元彼の写真を、何の感情もなくゴミ箱に捨てた。
そして、ふと名前を思い出そうとしたとき、森の香りがぐっと濃くなるような気がした。
まるでその香りが、私をやさしく包み込み、記憶をそっと遠ざけていくようだった。
私は、私を傷つけるものを、思い出さなくなっていった。
そしてそれが、まったく気にならなくなった。
東京にいた頃、毎朝のように感じていた目覚めの重たさ。
身体にこびりついていた疲労感――それらは今、まるで夢のように消えていた。
ある夜、月明かりに誘われるように、私は施設の裏庭へ出た。
涼やかな風が、やさしい香りをまとって頬を撫でていく。
そのとき、風に吹かれながらベンチに座る女性に気がついた。
夜の冷え込みを感じる時間帯だったが、彼女は薄着のまま、静かに寝息を立てていた。
その表情はとても安らかで、まるで森そのものに抱かれているかのようだった。
……けれど、なぜだろう。胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
「どうしたの?」
突然、背後から一樹さんの声がした。
「……彼女も、ここで癒されたのかな?」
私は振り向きもせず、彼女を見たままそう尋ねた。
「うん。でも、ちょっと深くなりすぎたかな」
一樹さんの静かな声に、胸の奥をかき乱すような一瞬の不安がよぎる。
「どういう意味……?」
「ねえ、この施設のまわりに漂ってる香りって、何からできてると思う?」
唐突な問いかけに違和感を覚えたはずなのに、不思議と気にならず、私はただ首をかしげた。
「フィトンチッド。植物が出す揮発性の成分だよ。自然由来で、人の心を落ち着かせるって言われてる。」
一樹さんは、眠っている女性の肩にそっとストールをかけながら続けた。
「この場所の香りは特別なんだ。フィトンチッドの濃度が異常に高い。
本来この成分は、植物が“自分たちを守るため”に出しているものなんだ。
虫や菌――つまり外敵を遠ざけるためにね」
「……遠ざける……」
「フィトンチッドの語源、知ってるかな?
癒しの香りの正体は、植物が放つ“拒絶の匂い”なんだよ」
ぞくりと、背中をなぞるような感覚が走った。
けれど、その言葉を聞いても、逃げたいとは思わなかった。
むしろ、心の奥深くにすとんと落ちた――そんな気がした。
翌朝、私はひとりで森に入った。
朝露に濡れた葉が足元をしめらせ、東の空から光が差し始める。
緑の道を歩きながら、私は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
香りが、静かに肺へ満ちていく。
涙も、名前も、過去も、少しずつ、溶けていく。
私はそっと目を閉じ、微笑んだ。
忘れるということは、裏切りだろうか。
それとも、生きていくための、やさしい防衛なのか。
森は静かに揺れている。
その静けさの奥にある“意思”を、私はようやく理解した気がした。
――フィトンチッド。植物が、殺す……。
緑の息吹が、今日もこの世界から“何か”を、そっと消していく。
私がそれに気づいたとき、“忘れたい何か”は、とっくに消えてしまっていた。
《完》
フィトンチッドの揺らぎ 須藤淳 @nyotyutyotye
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