第三十三話




 ◇




 春狼の介助なしでも、俊麗が一人で杖を使って歩けるようになった頃、兵士に挟まれた元第一皇子の劉帆が麗華殿を訪れた。兵士は険しい顔で見張っていたが、劉帆は憑き物がとれたような穏やかな顔をしていた。


「劉帆兄上」

「俊麗、久しぶりだな」


 俊麗も劉帆の瞳にも、お互い親しみの情が浮かんでいる。


 劉帆は皇位継承資格を剥奪されたものの、皇帝の恩情により、監視付きで離宮へ暮らすことになっていた。俊麗による嘆願で、正式な手順を踏んで、二人はようやく再会することが叶えられたのだ。


 突然、玉砂利の撒かれた門前に劉帆は座りこむ。そして姿勢を正すと、地面に手をついた。


「兄上っ!」

「このたびは、我が一族の邪な計略に巻きこみ、まことに申し訳ございませぬ」


 劉帆は低位の者しかしない、屈辱とされる礼を行おうとする。劉帆が頭を地面へとつける前に、俊麗は杖を放り投げて、滑りこむように駆け寄った。


「兄上がそのような真似をする必要はないのだ。すべては朱氏が企んだこと。我は兄上を一切疑ってはいない」


「いいえ。我も一端とはいえ朱一族の血筋を引く者。俊麗や主上がお許しになっても、我が罪は消えない。我はこれから、自身のふるまいで汚名をすすぐ所存だ」


 決意のこもった瞳で見つめられ、俊麗はそれを受けいれるしかない。春狼が回収した杖を手に取り、俊麗は劉帆を見おろした。


「兄上には、我とともに燈国を輝かしいものとするために尽力してもらう。必ず、燈国の民の役に立ってもらいたい」


 劉帆は勢いよく顔を上げた。苦悩と歓喜が入り混じる瞳が揺れる。


 見つめ合う二人をそばで見守りながら、可丹に教えられた思い出話を春狼は思い浮かべた。


 俊麗と劉帆は継承問題の薄かった幼い頃、最も交流の深かった者同士であったという。年の近い二人は息が合い、離されるまでともに勉学に励んでいた。二人とも勤勉で、お互いが良き理解者であり、競争相手であった。


 ともに国を支えていこうと誓い合う様を、幼い可丹も憶えていた。だからこそ、朱一族の巡る問題に彼らの仲がねじれてしまうのではないかと気に病んでいたのだ。


 俊麗は劉帆を乱雑に立たせる。


「――承りました」


 晴れやかな笑顔を浮かべ、劉帆は応えた。


 二人にしか分からない絆が再び結ばれたことに、春狼は胸の奥が絞めつけられるほどの安堵を覚えた。


 春狼が劉帆の足についた砂を払っていると、上からじっと凝視されている気配を感じた。


「そなたは、やはり俊麗の家臣であったのだな」


 その言葉に体が固まる。にこやかに微笑む劉帆。その前に立つ俊麗がぎろりと春狼を睨みつけた。


「春狼、どういうことだ?」

「えっと、あの……これには深い訳がっ!」


 俊麗の刺すような鋭い視線に耐え兼ねて、春狼は腕を顔の前に掲げる。拙い足取りで春狼に詰め寄ろうとする俊麗に、春狼はじりじりと後退する。


「俊麗。あの夜のことは、我とその者との秘密なのだ。大目に見てやってくれ」

「春狼‼」


 貴重な俊麗の怒号を無視して、春狼は速やかに表庭の方へ逃げだした。






 殿舎の屋根と隣り合う形で、中庭に根を張る桜の樹。その薄桃色の花びらがはらりはらりと開け放った窓から自室に入りこむ。


 春狼は『燈心草』の沙藺宛てに文を書いていた。事件の経過などを含めた報告書だ。


 さらさらと筆を滑らせていると、かたりと戸の開く音が響く。背後を振り向くと、俊麗が窓奥の桜を見ながら入ってきた。


「俊麗、あまり歩き回るのは足によくないぞ」

「もう治っている。そなたが近くにおらぬから、わざわざ探しにきたのだ」

「それは悪かったな」


 春狼は筆を置き、俊麗に椅子を用意する。当然のごとく春狼の持ってきた椅子に座った俊麗に、一体何の用があるのか春狼は首を傾げる。


「それで何の用だ?」


 俊麗は春狼に視線をやらず、遠い目をして外を眺めたままだった。


「そなたを解雇する」

「――はぁ?」

「そなたを解雇する。二度も言わせるな」


 断固とした発言に、春狼は唖然とする。驚きを通り越して、何を言われたのか分からず、一瞬途方に暮れる。


 頭を駆け巡り、辿り着いたところにあるのは、最初に二人で交わした「契約」。俊麗が母親の仇を討った今、春狼がいまだ宮中にいる必要はない。それゆえに、契約通り春狼は解雇され、そして真の自由を手に入れる。


 それは春狼が最も望んでいたことだった。自由を手に入れるために、俊麗の手駒となったのだ。


 しかし、春狼はまた別の願いを心に宿している。それを、先を見通す目を持つ俊麗が気づいていないはずはないというのに。俊麗は一言、「解雇」と言って我を通そうとする。


 春狼は冷たくなった手を握りこんだ。指先が震えるのを我慢している。冷静さを呼び出して、春狼は一気に水分がなくなった口を開いた。


「俊麗が皇帝になっても、俺は俊麗に――」

「駄目だ」


 ばっさりと春狼の思いを俊麗は否定する。そのあまりに妥協を見せない一刀両断に、春狼の忍耐はぶちりと音を立てて切れる。


「まだ全部言ってねえよ! いいから聞け‼ 俺は俊麗の作る国を見てみたい! 俊麗のそばで見ていたい! それがなんで駄目なんだよ⁉」


 春狼が叫ぶと、俊麗はようやく視線を合わせた。俊麗の宝石のような緋色の目に、憤った春狼の姿が映りこんでいる。俊麗はいつも通りの冷静さで、静かに、穏やかに、春狼を導く。


「約束通り、そなたは「自由」だ。そなたの性格は、窮屈な宮中には似合わない。だから、宮中の外へ行くのだ」


 春狼のことを思った上での決断に、春狼は強く反論することができなかった。


 ――俊麗、おまえはひどい奴だ。


 春狼の銀色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。一人切り離されることが悲しくて、春狼の望みを叶えようと汲んでくれることが嬉しくて。春狼のぐるぐると渦巻く感情を、俊麗はわざと知らない振りをする。意思に反して、ぼろぼろと止めどなく涙はあふれる。


「春狼」


 俊麗は春狼の涙を止めることはしない。拭いもしない。ただ見つめるだけだ。


 春狼はしゃっくりを上げる。口を開こうとすれば塩辛い味が入ってきて、名前に反応することができない。


「春狼、もう一度、契約を交わそう」


 ――ああ、おまえはどこまでも身勝手な奴だ。


 熱くなるばかりの視界だったが、俊麗の赤い瞳だけは、はっきりと見つけることができた。


「我は内から、そなたは外から国を変える。燈国を、明るい未来を、我とそなたで作るのだ」


 俊麗は得意げな笑みを浮かべた。奇天烈な秘密事の共有者になれ、と妖しく囁く。


「我らならできないことはない。――そうであろう?」


 桜の花びらが風に舞って部屋へと入る。俊麗の黒髪が流れ、桜とともに舞いあがった。


 春狼は菫花庁にある桜の樹を思いだした。樹の下から見あげたときの、淡くまどろむ感覚が呼び起こされる。あの異なる世界を春狼は一人で見上げていた。あの景色を今は俊麗とともに見ることができる。


 それはどれほどまでに素晴らしい景色だろうか。


「――ああ。そうだな」


 二人でなら、きっとできる。春狼も俊麗も、そう信じて疑わなかった。

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