第三十四話
新しく俊麗の世話係に任命された火兎、後宮から駆けつけた可丹、驚異的な速さで怪我を完治させた李が東門に見送りにきた。
そこに唯一の主の姿はなく、春狼はなんて薄情な奴だと心の底で密かに悪態を吐いた。
「春狼、体には気をつけるのですよ。お腹を出して寝てはいけませんよ」
「お兄様のことはお任せください! 私たちがしかと目を光らせておきますからね」
「その辺の草花を食べてはいけませんよ。せめて湯がいてから食べなさい」
「またいつかきっと顔を見せに来てくださいね。絶対ですからね!」
火兎と可丹に両手を取られ、春狼は別れを惜しまれる。交互に繰り返される、火兎の明後日な心配の言葉と、可丹の決意とお願いに、春狼は何度も頷いてみせる。
「可丹様、ありがとうございます。俊麗、様のこと、よろしくお願いいたします」
「もちろんです!」
春狼は火兎に視線を向け、緩やかに笑う。
「火兎、本当にありがとう。俺はあなたのおかげで、菫花部にいたときも燻ぶらずにいられたんだ。俊麗は性格に難がある奴だけど、支えてやってくれ」
火兎は頬に涙を伝わせて「ええ、ええ!」と首を縦に振った。
より一層泣きだしてしまった二人に、春狼は李に助けを求める。李は彼らを止めることなく、優しい顔で微笑んだ。
火兎や可丹、李に改めて感謝を伝え、春狼は荷物を背負う。李の合図で西門が左右に開かれた。
春狼は手を振って足を踏み出す。門へと続く石畳が足裏に固く響き、背中に重石が抱きついたような錯覚を感じた。それでも前を進むことは止めない。俊麗との新たな「契約」を胸に、春狼は一歩、一歩と確実に歩きだす。
門を潜り抜ける間際、春狼は名前を呼ばれた気がして背後を振り返った。自身の灰桜色の長髪がさらりと翻る。
火兎たちが泣き笑いでこちらを見ている。
その奥にそびえる豪奢な楼閣が視界に入る。
「あ……」
楼閣の頂上に、橙の着物が見えた。あの衣装を身にまとわせたのは春狼だ。自分の主を、見間違うはずはない。見送りに来てくれたのだ、と込みあげる思いが、じんわりと胸いっぱいに広がっていく。
「――またな、俊麗」
燈国の色をした彼に、春狼は届かぬ声で告げた。
皇族の俊麗に、ましてや次代皇帝となる者に、民の一人となる春狼が「また」を叶えられる可能性は低い。
しかし、春狼は信じていた。必ず二人が信じる「また」が訪れることを。
「――ああ。必ずまた会おう、春狼」
聞こえるはずのない俊麗の声が響いた気がした。
春狼は門を潜り抜ける。それからは一度も振り返りはせず、門の扉は音を立てて閉まった。
春狼は外からの改革の場に『燈心草』に所属することを選んだ。沙藺に文で伝え、快く受けいれられたのだ。迎え役の仁是と陽女と合流し、荷物を背負い直す。
温かな陽気が、優しく春狼を包みこむ。春の香りを運んだ風が、春狼の行く先を祝福するように吹き抜けていった。
―― 完 ――
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燈国の菫――狼は春に啼く―― 小林泉 @izumirin
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