第十三話
春狼は急いで脇戸から麗華殿の敷地内に入った。戸を閉めて、春狼はようやく息を吐くことができた。心臓が波打つように高く響き、肺が圧し潰されているのか息がしづらい。
――あれが、燈国の皇太子、第一皇子の劉帆。
まさかと思いつつ、頭の中でその可能性を否定したかった。芳妃殺害の犯人候補である貴妃の長子に、あろうことか麗華殿の前で出会うとは、誰も予想できないだろう。
大きく早打つ心臓を抑えながら、春狼は劉帆の言葉を思い返した。
劉帆には俊麗の演技は通用しない。俊麗の優秀さを知りながら、即刻排除をする動きを見せていないのは、劉帆が貴妃派に事実を打ち明けていないからか。
――それはなぜだ? 貴妃が俊麗の味方だから?
毎月のように送られてくる貴妃からの文を思い浮かべる。
劉帆はなぜ春狼に俊麗の話をしたのか。春狼は自身のことを「使いの者」としか称していない。容易に訳ありの女官に話すだろうか。
劉帆が敵であるように、春狼は思えなかった。俊麗の情報を持ちながら悪用していないという点。それに加えて「次代の皇帝にふさわしい」と言ったとき、彼は嘘偽りとは異なる、清々しい表情を浮かべていた。
――俊麗は、このことを知っているのか?
落ち着きを取り戻しつつある心臓を撫でる。ふと、足元が不安定であると気づき、靴に巻いていた音消しのぼろきれをほどく。すると、頭上から「春狼殿」と呼びかけられた。
「李、殿」
顔をあげた先には、いつも通りの厳つい顔をした李が立っていた。
「おかえりなさいませ。中で俊麗様がお待ちです」
李は春狼が通れるように扉を大きく開け、殿舎の中に迎えいれてくれる。
李の先導の元、二人は奥にある書室へと向かった。廊下は部屋と中庭を正方形に囲むように造られている。書室は門から最も遠い位置にあった。
菫の春狼に対しても礼儀正しくふるまう李に、春狼はどう接するべきか測れずにいる。
菫となって数か月の間、二人きりになる機会もあまりなかった。春狼はほぼ俊麗のそばにいて、小間使いのような役目しかしていなかったからだ。李はその間、どこからか入手してきた情報をまとめたり、周囲を警邏したりと忙しく立ち回っていた。
「李殿はさ、なんで第四皇子に仕えてるんだ?」
春狼は沈黙の歩みに耐えきれなくなり、李の背中に問いかけた。
「あの皇子が唯一信用するくらい、腕のいい武人なんだろ? 口のきけない第四皇子の下で、なぜ今も仕えてるんだ」
主人に対する不敬と捉えられる発言。俊麗が春狼の素の部分を容認しているとしても、不遜な内容だろう。
春狼は考えなしに、俊麗を貶したわけではない。春狼の頭には劉帆の言葉が依然と残っていた。問いに対して、李の出方をうかがいたかった。
「春狼殿は私を買いかぶっておられます」
李は春狼の発言をたしなめるでもなく、叱責するでもなく、ただ粛々と応える。立ち止まる様子もなく、謙遜を一つするだけ。
筋肉のしっかりついた背中を見つめ、春狼は返しを不服と感じる。しかしこれ以上、顔の見えない相手に言葉を引きだすのは無理だと諦めも生まれた。
会話は止まり、春狼もまた続けざまに問うつもりもなく、李の後ろに静かに付いていく。
変わらない速度の歩みで、夜の静寂の中を進む。廊下の床に広がる敷物が足音さえも消し去っていた。
「私が、俊麗様の御母君に仕えていたことはご存知ですか?」
前触れなく開かれた李の口に、春狼の反応は遅れた。李は言葉を続けることなく、春狼の返事を待っていた。
「後宮に入るまで、芳妃様の生家の――鴇一族に仕えていたって聞いた」
鴇一族は五大貴族の一つ。五大貴族に仕えたという経歴があるだけで、従者として、武人としての箔がつく。五大貴族、そして皇族に仕える。従者の中では出世頭と呼ばれるものにちがいない。
俊麗に教えられたまま答えると、李は是と頷いた。
「俊麗様が生まれ、私は俊麗様付きの従者となりました。御母君が、私を最も信頼してくださっていたからです」
李は驕らず、威張らず、ただ事実を淡々と口にしていく。
芳妃の、鴇一族の信頼のもと、彼は俊麗に仕える。それは信頼における真摯な姿勢であり、信用に値する働きだ。
「私はその信頼に応える必要があるのです。ゆえに、私は俊麗様のもとで仕えております」
「それって」
――俊麗を主と見なしているわけではないのか?
それを指摘するのは、あまりにも踏みこみ過ぎか。李の事情を些細にしか知らない者が、容易に口に出していいことではないだろう。
しかし、腑に落ちない。
押し黙った春狼の逡巡を察したのか、李は首だけで振り向いた。その横顔が自嘲しているように映る。
「俊麗様もご存知のことです。私の心に、芳妃様がいらっしゃるのを。だからこそ、俊麗様は私をそばに置いてくださるのです」
それだけを言って、李はまた前に顔を戻した。
彼らの関係も、春狼と俊麗のように複雑なのだ。一言に主従と言っても、容易な信頼関係などないのだとまざまざと気づかされる。
応接間を抜け、李が書室の戸を叩く。
「俊麗様。春狼殿がお戻りになりました」
「――入れ」
入室の許可が出ると、李が殿舎の扉と同じように開けてくれる。李はそれ以上書室に入ることなく、丁寧に扉を閉めて出ていった。
相変わらず、書室の机には巻物が山となって高く積み上げられている。
「遅い」
端的な一言は巻物の奥から聞こえた。容赦のない俊麗の言葉は、疲れ果てていた春狼の癪に障る。
「やっとの思いで帰ってきた配下に、労りの言葉はねえのかよ」
口元をわななかせて座っている方へ回りこむと、資料に埋もれそうな俊麗が、不機嫌な様子で胡坐をかいていた。
「ないな。予定をはるかに越えている。作戦を変更しようか考えていたところだ」
「俺を切り捨てるか否かってか?」
「最終的にはそれも視野に入れていた」
俊麗は紙に文字を細かく加えていく。その間、春狼の方には一瞥もない。
「で?」
急かされた一音に春狼は呆気にとられ、「は?」と同じく一音しか返せない。
俊麗はカンカンと硯の端を筆の背で叩いて催促する。
「報告をしろ」
「それが人に頼む態度かよ?」
春狼は膨大な量を記憶し、かなりの距離を走った上に、長く緊張したのもあって疲れていた。張りつめられた糸がきりきりと音を立てている。
「お早く報告をしていただけないでしょうかお願いします」
まるで心のこもらない俊麗の台詞に、春狼の苛立ちは最高潮だった。このまま盗み取ってきた情報を渡さないで寝てしまおうかとさえ考える。それをしても割に合わないのはすでに労力をこなした春狼である。怒りに顔を赤くする。
癇癪を起こしそうになる手前で、一気に冷静を取り戻した。憤懣で転げ回りたい欲求が、沸点から瞬時に冷却する。
――俺、なんでこいつに当たろうとしてんだろ。
春狼は気が強いのもあって菫花部では浮いていた。菫候補からいらない喧嘩を持ちかけられても、適当にいなして放っておくくらいの余裕があった。
今の春狼はどうであろう。俊麗に対して子どものように、頭に血を上らせている。それは春狼自身でさえ知らない、素の自分の姿だった。
「なんだ、急に黙って?」
俊麗がようやく顔をあげて、黙りこんだ春狼を見た。
――俺は、こいつを対等に見ているのか?
皇族と下僕の身で、春狼の考えはおかしなものだ。自尊心が無駄に高い春狼は、身分や地位としてではなく、個の人間として自身を貴んでいる。自分が一番であるがゆえに、自分と同じ度合いの者を持たなかった。
――俺は、こいつと対等に話したいと思ってる?
なぜそう感じたのか分からない。俊麗との言葉の投げかけを心地よいと思っているのか。そう考えが及んだところで、春狼は自分の思考を遮断した。
「……報告、だったな」
気づいた感覚に蓋をするように、春狼は大人しく報告を始めた。訝(いぶか)しんだ視線を投げてくる俊麗には無視を決め込んだ。
「いきなり素直になったな。最初からそうすればよいものを」
「うるせえ。――厨の倉庫で見つけたものから話すか?」
「最初から話せ。なぜこんなにも遅れたか。接触した者は誰か。すべてだ」
傲慢な態度に再度苛立ちながらも、春狼は見たものすべてを口に出す。俊麗は重要な点のみを紙に書き記していく。俊麗にしか読むことのできない暗号文字がつらつらと足される。
「医療棟からの帰りは、誰にも見られていないな」
「……ああ」
一つだけ春狼は嘘を吐いた。第一皇子である劉帆と接触したという事実。不確定であり、春狼自身が見定められていないことを話すことができなかった。
書き留められた情報は、燈子宮内で集めた情報よりも格段に精確な内容が多い。真剣な瞳を紙に向け、俊麗は口元に手を当て黙りこんだ。
俊麗が新しい情報の精査をする横で、春狼は疲れた脳をゆっくりとほぐす。こめかみに指を当てて、ぐりぐりと力を入れる。
しばらくしてから閉じた目を開けると、俊麗はいまだに紙の字を追っていた。
芳妃の死の真相――芳妃を殺した犯人を、俊麗は探っている。そのことに春狼がとやかく言う資格はなく、言うつもりもない。復讐を目的として生きるのも本人次第であり、第三者が口をだすのはお門違いだ。
だからこそ、春狼の口から出た言葉は、ただの気紛れであり、些細な疑問であった。
「望みを叶えた先、皇子様はどうするんだ?」
復讐を終えたら、俊麗はどうするのか。
春狼は晴れて自由を手にする。そういう契約だ。では、俊麗は何を目的に生きるのか。復讐という目的がなくなった俊麗は、どう生きるのか。
俊麗は答えない。ゆっくりと顔を上げ、春狼を見つめたまま、俊麗は何も言わなかった。その瞳は黒く淀んで、先の見通せない世界を映しこんでいるようだ。
どちらからも視線を外すことができず、しばし無言の時が流れたあとで、耐えられなくなったのは俊麗の方だった。
「このような悪意に満ちた場所に、いる価値はない」
ぼやくように吐きだされた諦観。宮中に用はないという意味か、この世にいる意味などないということか。
春狼の中で自死という選択はないため、俊麗の言葉の意図を「宮中から立ち去ること」と受け取った。
春狼の中の静寂な怒りが腹の奥を焦がす。そして怒りと同じくらいの大きさで、悲しみが押し寄せた。
「ここは息がしづらいけど、生きるのに苦労はしない」
宮中に、春狼の求める自由はない。それでも、ここには衣食住のすべてが揃っている。健康で清潔な体、満足に食事が提供され、学ぶことができる環境。「明日、死ぬかもしれない」と怯える必要がない、平和な日常。何の犠牲もなく手に入るそれらすべてが、どれほど尊いことか。
「どういう意味だ?」
生きるのに十分なものがある。幼い春狼が強く望んでも叶えられなかった贅沢を、俊麗は知らない。
「皇子様はどれだけ恵まれた環境にいるのかを、もっと自覚すべきだ」
破格な体制の行きつく先は、それを可能にさせる民の苦渋の嘆きだ。その民の声を、皇族は知らないのだ。その根源に目を向けない限り、当然に受けいれてきたものに疑問を覚えることもない。
春狼の静かな怒りを俊麗は感じたにちがいない。一方的な感情論を押しつけたことを自覚していた春狼は、俊麗の顔を見ることも、同じ空間に居続けることもできず、それ以上何も告げないまま書室を出た。
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