第五話
◇
宴からひと月が経過しても、春狼が菫として指名されることは、予想通りないままであった。理由としては、「皇子たちを不快にさせたため」。事実とは異なる建前が出回っている。
「第五皇子の手渡した飲み物を飲まないで床に叩き捨てた」と、中間部分を切り取った内容が菫花部では囁かれていた。
春狼のせいではなく、限りなく不可抗力のことだった。飲まなかったのではなく、飲めなかったが正しいと 、わざわざ訂正してくれる者はいない。
私室に戻ると、火兎は部屋の中央に呆然と立っていた。
「火兎、どうしたんだ?」
「春狼……ああ、春狼!」
その顔は固く、色は青さを通り越して白い。今にも倒れてしまいそうな状態を、気合で立たせているように見えた。
春狼は素早く火兎に近寄って、その体を支える。この世の終わりといった弱々しい声を発する火兎を、ゆっくりと敷物に導く。
「何があった? 誰かに嫌なことでも言われたか?」
見たことがないほどの憔悴に、春狼の焦りの感情は膨れる。
「春狼……」
「なんだ?」
春狼は火兎の前に座りこむと、下から彼の顔を見あげる。相変わらず白い顔で、火兎は泣くのを我慢するように目を細めた。
「落ち着いて、聞いてください」
「俺は最初から落ち着いてる」
「ええ。ええ、そうでしたね。落ち着くのは私の方ですね」
火兎は一気に息を吸いこんで、重く吐きだした。春狼の手を握りしめると、ゆっくりとした口調で切りだす。
「第四皇子の俊麗様が、初めての菫をご所望で、指名されたのは――春狼、あなたです」
「……は?」
息が逆流して喉が詰まる。春狼は喉元を絞られる錯覚に陥り、目を見張った。
「あの第四皇子が?」
ようやく出てきた言葉を、自分が出したにもかかわらず疑ってしまう。
菫とは最も縁遠い場所にいるような、無能の烙印を押された第四皇子。口がきけないと称されても、悪意に疎いまま笑っていたあの皇子が、初めて菫を選んだ。
俊麗の能天気な笑顔を思い浮かべ、春狼は否と首を振る。
刹那のときに見せた、逆鱗の炎が灯った鮮烈な瞳。あれはただのうのうと生きている人間がする瞳の色ではない。
おそらく、俊麗は
皇子からの指名を断ることはできない。前例がないのはもちろん、火兎にどんな非難が及ぶか分からない。であるならば、春狼がとる選択は一つしかなかった。
「春狼?」
不安に瞳を揺らす火兎の手をぎゅっと握り、春狼は力強く立ちあがる。目を一度閉じ、次に見開いたときには、春狼の覚悟は決まっていた。
「どうせ菫になるしかないんだ。なってやろうじゃないか!」
「しかし、春狼。一度菫になれば、あなたの望みからは遠ざかってしまいます。今以上にあなたは――」
火兎が懸念していることを、はっきりと言わずとも春狼には伝わる。今以上に籠の中の鳥となる。それは、春狼が一番恐れる状況だった。
それでも、春狼は底意地の悪い顔で笑う。
「俺は行くよ、火兎」
痛切を浮かべた火兎の顔を、春狼は力強く見つめ返した。
刻々と迫る期日に追われ、必要な準備を済ませなくてはならない。二人は悲しむ暇もないままに新しい礼装を整え、少ない荷物を取りまとめる。
来てほしくない日というのは瞬きの間に訪れてしまう。参上する日、春狼は女物の礼装をまとい、宴以上に着飾る。最も魅力的に見えるよう髪を結いあげ、数多くの宝飾を身に着ける。薄く上品に化粧を施し、鏡の前に立つ姿は傾国の美しさがほとばしっていた。
悲痛な顔を浮かべる火兎に無言で笑顔を向け、別れを告げる。着物の後ろを引きずって、春狼はしずしずと歩きだした。振り返ることはできなかった。火兎の顔を見てしまえば、引きしめた覚悟が揺らいでしまう。
立ち会いの菫花部の統括者と衛兵に挟まれ、進む先は皇子たちの殿舎が連なる
菫となるために、春狼は売られてから初めて菫花部の外に出た。菫候補を閉じこめる高い塀の向こうへ抜け、燈子宮の最も端の回廊を渡る。
先導する統括者の後ろをついていく春狼、そしてそれを囲うように配置された数人の衛兵が続く。彼らの役割は春狼を守ることではない。春狼が脱走を企てないか見張ることであった。春狼の一挙一動を、衛兵たちは逃さず監視してくる。
春狼は顔を半分隠した状態で、前の統括者の気配を追う。目の端々に映る菫花部の外の景色に、少しだけ胸が騒いだ。
今この場から衛兵を撒いて逃げることは、昔の弱く幼い頃と比べれば実行可能だろう。しかし、菫花部内には暗に人質としての役割にある火兎がいる。どんな罰が待っているか分からない彼を置いて、身勝手な行動に走ることはできない。
昔ならば自分一人が助かるなら、どんな手を使ってでも生きようとしただろう。腑抜けたのは間違いなく、火兎の情け深いところに感化されたのだ。
統括者が足を止め、門番に挨拶をする。話は通っており、円滑に門をくぐることが許された。燈子宮に踏みいったことで、もう後戻りはできないことに、春狼は腹にひときわ力をいれた。
殿舎が立ち並ぶ道を抜け、一つの質素な造りをした殿舎の門に辿り着く。門の前には皇子直属の従者を示す服を着た男が立っていた。
壮年の頃を過ぎた、初老手前の男である。皇子の従者というのは相応として青年期がなるのに反して、その者は随分と年嵩が上だった。それでいて弱々しさなど欠片もなく、服の上からも分かるほどに筋肉が均等についた体躯をしている。
「第四皇子様、ご指名の菫をお連れいたしました」
統括者が菫花部の令書を従者に手渡す。彼は中身を確認してから一行を殿舎内に案内した。立ち入ればそこはもう麗華殿――第四皇子のために造られた城である。
複雑な造りの廊下を進み抜け、最奥の扉の前に先頭の従者が止まった。
「俊麗様、菫花部の方が参りました」
入室の許可が出るのを待つ一行だったが、十を数えても中から反応がない。
「失礼いたします」
従者は主人の許しもなく入室する。統括者と春狼は内心驚きつつも、外に衛兵を待機させてあとに続いた。
吊るし飾りの簾を抜けて、皇子の待つ部屋に入る。すると、何かが一気に崩れる大きな音が部屋に響いた。音の方に顔を向けると、俊麗は非難するように文机をばんばんと叩いていた。
「申し訳ございません」
初老の従者は、理不尽な責めにもためらうことなく頭を下げた。
麗華殿の主である第四皇子の俊麗は、立ちあがって従者を睨む。机上には数十ある長方形の小さな木材が崩れ落ちていた。山盛りに積まれた木を指さして、俊麗は稚児のように逆上する。不機嫌を顕にして、今度は怒りの矛先を見慣れない者たちに向けた。唇を突きだし、「おまえたちは誰だ」という顔をする。
皇子の気分を害してしまったと慌てる統括者の代わりに、すべては日常茶飯事とでもいう様子の従者が説明する。
「彼らは俊麗様が指名された、菫の春狼殿を送り届けに来られました」
「!」
俊麗は身軽に文机を飛び越えると、従者や統括者の間を抜けて、春狼の目前まで突進してきた。まるで新しい玩具を見つけたような嬉々とした様子で、素早く春狼の滑らかな手をとる。いきなり掴まれたことに春狼は目を見開き、俊麗を直視してしまった。
宴以来の再会に歓喜の笑顔を向けてくる俊麗に対して、春狼は戸惑いで表情を歪めた。些細な変化などどうでもいいというのか、俊麗は春狼をぐいぐいと引っ張り、部屋の奥へと招きいれる。勝手に進行された統括者が慌てるのを尻目に、俊麗は自由気ままに行動する。振り返らないまま、もう用はないとばかりに統括者に手を振った。
「で、ですが、皇子様!」
形式を重んじる燈国の皇族とは思えない行動に、統括者は意見しようとする。俊麗は有無を言わせない静かな笑みを向けた。声を発していなくても、その意味は容易に察することができる。「おまえに用はない。さっさと帰れ」と、笑顔の中に多分に含まれていた。
皇子に命令されれば、統括者のような下の者は従わざるを得ない。口惜しそうに顔をしかめると、それを袖のうちで隠して後退していった。
統括者が扉の外に出ると、俊麗は朗らかに笑った。
主の身勝手な行動を、唯一の従者は何も咎めない。静かに壁に沿って立ったまま静観を貫いている。春狼は俊麗にどう切り返していいか迷い、目をさまよわせた。
応接間には異質な木々の山が、文机の上で存在を誇張している。積み木に目が止まれば止まるほど、春狼には違和感が残る。近くまで寄ったことで柄を読みとれ、違和の正体をようやく認識した。
「一つ、質問してもよろしいでしょうか?」
皇子付きの菫になっても、主人の許可なく声を発するのは禁じられている。俊麗ならば許すと、それ以上に問うことを期待しているだろうと尋ねる。予想通り、俊麗は咎めるどころか、気前よく頷いてみせた。
春狼は重い袖を上げて、文机の積み木を指し示した。
「その積み木に書かれた文字。それは隣国である、尋(じん)国の古代文字ですか?」
燈国は北から西にかけて山岳地帯に囲われ、南側は海に面している。最後の方位である東側には、長い歴史をもつ尋国が隣接している。尋国の古代文字は複雑で、国民のほとんどは読むことができない。尋国の古代文字の研究者も時代とともに減り、
うんうん、と激しく頷く俊麗は、なぜそのような質問をするのかというふうに、不思議そうに首を傾げた。その稚児を模した仕草が、春狼にはわざとらしく映る。
「積み木の古代文字からすると、それは燈国の――皇族に連なる方々の名が書かれていますね」
積み木に施されていると思った柄は、尋国の古代文字だ。その一つ一つの木片には皇族に連なる者の名前が彫られている。手前に立つ木に書かれている語は「俊麗」だ。その奥に散らばるのは他の皇子たちの名である。
春狼は古代文字を火兎から教えられていた。彼は尋国出身の者であり、古代文字を研究する家系の生まれだったと聞いたことがある。
舞楽や作法などを覚えればよいとされる菫候補の中で、春狼の習得は早かった。火兎は稽古事以外の教養を仕込む中で、継承されることのなかった尋国の古代文字もまた春狼に叩きこんだのだ。
俊麗はじっと春狼だけを見つめてきた。
――宴で見た、あの瞳の色だ。
顔は次第に明朗さがなくなっていき、表情筋がこそげ落ちた静けさを浮かべていく。整った顔の無表情は恐ろしいと感じるほど冷たかった。今までの爛漫さからはほど遠く、顕著な差異となって現れる。
「――
しばらく沈黙したままだったが、俊麗がそれを破る。言葉を話すことができないと宮中にいる者に思われている俊麗は、さも当然といった様子で、壁際に待機していた従者――李を呼びつけた。その口調は滑らかで、到底言葉が不自由な者の話し方ではなかった。
「奥に行く。よいと言うまで、誰も部屋に入れるな」
「かしこまりました」
頭を下げる李を一瞥して、俊麗はくるりと背を向ける。遠ざかる背中に、春狼はいつの間にか手が離されていたことに気づく。
「ついてこい」
俊麗はそれだけを言い残し、奥に繋がる戸へ進んでいく。
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