第六話


 あまりの豹変ぶりに驚いて、春狼の体は強張ったまま。戸の奥へ俊麗が消えた頃になって、勝手が効かない体を叱咤し、ようやく動くことができた。


 早足であとを追いかけ、奥の部屋へと足を踏みいれる。そこは応接間よりも質素な造りの書室であった。壁一面に書棚があり、隙間なく書物が収められている。文机には巻物が積みあげられて置かれていた。唯一、巻物がない空間には、書きかけの紙と硯と筆が置かれたままになっている。


 書室は無人であった。先に行ったはずの俊麗の姿はない。書室の奥にはもう一つ戸があり、春狼を招くように開かれている。


 恐る恐る中を覗くと、入口には入室者の存在を知らしめる飾りが、いくつも天井から垂れさがっていた。小さな鈴がついた飾りを抜け、手毬が等間隔についた紐を最後に、部屋の奥を見渡すことができた。


 応接間、書室と続いたその先は寝所であった。飾り紐以外に装飾はない、皇族らしくない部屋だ。寝台と鏡台、柜といった最低限の家具しか置かれていない。


 俊麗は整えられた敷物の上にすでに座っていた。


「遅い。早くそこに座れ」


 飾りをかき分けて入室してきた春狼を、手前の敷物へ座るよう顎で指示をする。

「失礼、いたします」


 文机を間に挟み、俊麗の真向かいに腰かける。主人と同じ視線で座ることに今更驚きはない。俊麗をただの皇族と同等にはかることは、すでに間違いなのだと春狼は感じとっていた。


「一つだけ質問を許そう。それから本題に移る」


 俊麗は尊大な態度で黙りこむ。冷たい瞳を煌々とさせ、春狼という獲物を逃がそうとはしてくれない。


 考えをまとめる際に、春狼は密かに唇を舐めた。紅の苦さが味覚を刺激し、嫌な残り味となって広がっていく。渇いた口内に酸素を取りいれ、春狼は眉間に力を入れた。


「なぜ、お話できることを、わたくしに教えたのですか?」


 宴の席での冷淡な瞳と今の急変した雰囲気が、俊麗本来の姿であることは明白だった。口がきけない振りをしていた。それはなぜかという分かり易すぎる、明瞭な質問をするつもりはない。


 燈国の皇族は世襲制であり、第一皇位継承者が次代の皇帝となるのは決定事項である。順当に行くならば母親の地位が高く、長子である男児が第一位となり、時期が来れば皇位を継承する。


 燈国皇帝は多くの妃を迎えている。皇后を初め、第十二側室まで。その間に十の皇子と十四の皇女をもうけていた。


 多くの人間の意思や思想、願いが絡めば絡むほど、継承の問題は複雑化し、そして争いの火種となる。後宮や燈子宮が継承争いの舞台になるのは容易に予測できる。妃の生家が皇族の権力を狙い、他の皇子の暗殺を企てるのは自明の理。我が子を皇帝にしたいと望む妃が、知略を巡らすのもおかしいことではない。


 継承争いに巻きこまれないためには、皇位継承権を剥奪されるか、放棄するか、興味がないことを知らしめるか――または、最初から排除対象にされないよう趣向を凝らすか。


 俊麗がしたことは、排除する必要がないほど、価値のない存在を演じることだった。皇位に就けるほどの頭脳や度量がない者を、本気で相手にする者はいないからだ。


「そなたが使える者と判断したまでのことだ」


 演技だと教えるということは、自身を危険に近づけることと同意だ。俊麗はそれを承知の上で、素顔を見せた。


「そなたのことは、ひと月の間に調べさせてもらった」


 俊麗は無作法に膝を立てながらそう言った。


「宴で第五皇子から薬を盛られそうになっただろう?」


 ひと月前の宴を春狼は鮮明に思いだせる。あのときの怒りも屈辱も、春狼の胸にしこりとなって残っている。


 つまらないことを連ねるように、俊麗は溜息交じりに続けた。


「あれはあやつらがよくやる手だ。今回はそなたが標的となった。だが、そなたは杯を受け取ってすぐに、中身が薬だと気づいたな?」


 春狼が目を軽く見開く。


 ――まさか、見抜かれていたとは……。


「薬の正体に当たりをつけ、瞬時に対処を巡らした。袖を上げたゆえ、流しこんで処理しようと思ったのだろう? それを見て、機転の利く者だと判断したのだ。――尋国の古代文字が読めるとは僥倖であった。あれはほんの少しの期待だったのだ。まあ、及第点といったところだが」


 「使える者」と判断した理由を述べあげていく。些細な点までも把握していた洞察力に春狼は言葉が出ない。


 その様子を鋭い瞳で観察して、追い打ちをかけるように俊麗は言った。


「――宮中の外に出ることを、切望しているそうだな?」


 春狼の息を呑む音が部屋に響く。


 菫になるために真剣に取り組まなかったのも、醜聞を揉み消さなかったのも、すべては宮中に骨を埋める覚悟など最初からなかったからだ。


 春狼が望むのは、宮中に連れてこられた幼い頃より、何一つ変わらず「自由」ただ一つだった。


 自由がほしい。


 菫花部に入れられる前、衣食住は保証されなかった。貧しく、寒く、ひもじい毎日だった。今以上に弱々しい体を引きずり、一日一日を生きることが苦痛で困難の連続。生きるために盗みを覚え、食べられる野草を知り、汚泥をすすって耐えていた。


 辛苦を過ごし続けた幼児期だった。それでも、春狼の心は自由だった。明日も分からない日々でありながら、今以上に未来への希望があった。


 春狼は一度だけ、朝日で輝く海を見たことがある。盗みがばれ、海沿いの村に逃れたときのことだ。空腹で眠れず、辺りが暗い中、聞き慣れない音を頼りに歩く。その正体は砂浜に寄せる波音だった。大きな水溜まりを、当時は海だと知らなかった。遠い向こうの地平線から、恵みの日が昇って来るさまを見て、春狼は海の偉大さを痛感したのだ。


 春狼の求める自由とは、あの日見た早朝の海だ。格差や差別を全くの無に帰してしまう、広大な海と偉大な光。それらのもとではすべての人間は小さな存在だと知らしめる、圧倒的な光景だった。


 あの何にも縛られないまばゆい風景を、春狼はもう一度見たかった。


 菫になれば、皇子の望む活動範囲から出ることはかなわない。自分の意志で歩き回ることはできない。それがどれほど、自由を切望する春狼の首を絞めるか。


 黙りこむ春狼に、俊麗は無慈悲に言い放つ。


「菫の身で、過ぎた望みだ」


 嘲笑めいた響きはなく、ただ事実のみを言われただけに過ぎない。春狼も分かっている。人買いに捕まり、菫候補という名に変わった下僕の自分には、自由とはほど遠い運命が待っていることを。


 ――悔しい。


 それでも春狼は自由を捨てきれなかった。宮中の外に出ることを思い描いてならない。


 膝の上で春狼は手のひらを握りしめる。事実を突きつけられ、変えようがない未来に絶望するのを耐える。


 その様子を俊麗はどこまでも他人事な冷めた様子で見てきた。反論せず飲みこんで、それでも希望を見失わない春狼を不思議そうに眺めてくる。


 いくらか無言の間が流れ、居心地の悪い空気が流れた頃、俊麗ははっきりと言った。


「――その望み、我が叶えてやってもよい」


 その言葉を、春狼はうまく噛み砕けない。反応が悪い春狼に、俊麗は眉を寄せた。今度はさらに詳しい条件を連ねる。


「我と契約を交わせ。我の目的を達成した暁に、そなたを菫や宮中から解放し、自由を与えると約束しよう」


 唖然とする春狼に、俊麗は考える暇を与えることなく、言葉を重ねていく。


「我には忠実な手駒が必要だ。知略が回り、多方からの思考ができる者がほしい」

「それは、なぜ?」


 乾いた口内に、空気の冷たさが当たる。


 俊麗は黒く艶のある睫毛の奥に、緋色の瞳を押し隠した。再び開かれた瞳には、宴の折、侮辱の言葉を吐かれたときと同じ炎が燃え盛っていた。


「我が母、芳妃ほうひは、一年前に亡くなった」


 俊麗はすぐに第四皇子・俊麗の母君――芳妃を思い浮かべた。第四側室であった芳妃は、慈善活動を率先して取り組む、民に愛された女性だった。


 彼女が一年前に突然亡くなったと知らされ、宮中の者も民衆も、一様に衝撃を受けたのは記憶に新しい。春狼も喪に服した当時を憶えている。当時は病死したとも、暗殺されたとも噂はなく、一人の側室の死だけが知らされ、曖昧な情報のみが伝えられた。


「母の死の真相を探りたい」


 無表情の俊麗から、感情を読み取ることはできない。母親の死について淡々と語る姿は冷酷にも見える。しかし、彼の瞳は雄弁に、母親の仇討ちを物語っていた。


「真相が発覚した際、我はそなたを解放しよう」


 破格な条件に、春狼は飛びつきたい思いを堪える。俊麗の真意を掴めない春狼は、迷った末に一つの問いを投げかけた。


「真相が発覚したあと、俊麗様はどうなさるおつもりですか?」


 芳妃の死が病死や事故死であれば問題ない。しかし、彼がこだわる理由に、そのような生半可なものが原因と考えてはいないだろう。


 おそらく、芳妃の死は暗殺。殺した犯人を突き止めたあと、俊麗は復讐をするつもりだ。


 春狼の問いに、俊麗は答えない。怨恨に燃えた瞳を見開き続けている。


 俊麗の台詞を振り返ると、真相が発覚してすぐに春狼は自由になる。それはつまり、犯人をどうするかは干渉するなということ。


 春狼は握りしめていた左こぶしを、右の手のひらで包みこむ。逸る気持ちを抑え、最善の思考を巡らす。自由という餌を吊るされた釣り糸を、到底抗うことはできない。


「その契約、お受けいたします」


 春狼は敷布から一歩下がると、床に跪いて平伏する。


 春狼と俊麗、双方の利害が一致し、契約は成立した。


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