第3話:研修生としての最初の一杯
「カップの持ち方がちょっと違いますよ。こうです」
カウンターの向こうから、バリスタのモクが優しく声をかける。
カナは少し緊張した様子で、両手でセラミックのカップを丁寧に持っていた。
まるで高価なものを扱うように、親指は底、 中指は側面、薬指で反対側を支えるようにして、モクの動きを真似しようとする。
「こう……ですか?」
カナはゆっくりとした口調で尋ねる。甘く澄んだ声には、ほんのり外国語訛りが残っていた。
「いい感じです。だいぶ近いですよ」モクは微笑んだ。
「でも、まだ王宮でお茶をいただく感じに見えますね。カフェらしさが足りないかも」
カナの顔が少し赤くなり、目元には柔らかな笑みが浮かんだ。
「ごめんなさい……そういう風に慣れてしまっていて」
午前中のカフェ
今日はカナにとって、本格的な研修初日。
これまでの「お客さん」ではなく、「研修生」としての第一歩だった。
ジェー・プローイは店の奥で帳簿をチェック中。
モクはマンツーマンでカナに教えていた。テーブル拭きから、タイのカフェ用語まで。
「この言葉、“หวานน้อย(ワーンノーイ)”は、砂糖少なめって意味ですよ」
「それと、“เย็นจัด(イェンジャット)”は氷たっぷりです。溶けても大丈夫なように」
「ワーンノーイ……イェンジャット……」
カナはゆっくり発音しながら、うなずいた。
「上手ですよ」モクは褒めた。
「簡単な単語から始めましょう。慣れてきたら、注文を取るのにも挑戦してみましょうね」
店の前
ティーはいつものようにバイクでやってきた。
だが今日は、白いレースのエプロン姿の女性がカウンターに立っているのを見て、驚いて立ち止まった。
「えっ……あなた」
驚いた声だが、失礼な印象はない。
カナが顔を上げ、柔らかく微笑んで言った。
「こんにちは……今日から研修です」
「本当ですか?」
ティーはぱっと笑顔になった。
「よかった!この店には、あなたみたいな人が必要なんですよ」
カナは恥ずかしそうに視線を外し、静かに氷の入ったグラスを手に取った。
カウンターの裏
グラインダーの音が再び響く。
モクはカナに、中煎りのブラジル産ナチュラル豆を見せながら説明する。
「今日使うのは、ブラジル・ナチュラルのミディアムローストです。ちょっとチョコっぽい香りがしますよ」
「嗅いでみてください。こんな感じで」
カナはそっと体を乗り出して香りをかぎ、驚いたようにうなずいた。
「甘い焼き菓子みたいな……あたたかい香りですね」
「すごい!その通りですよ。“หอม(ホーム)”ってタイ語で“いい香り”って意味なんです」
「ホーム……」
カナはもう一度口に出して繰り返した。
午後
カフェが少し落ち着いたころ、カナは小さなノートに新しい単語を書き留めていた。
彼女の文字はとてもきれいだった。
- หวานน้อย(甘さ控えめ)
- เย็นจัด(氷たっぷり)
- หอม(いい香り)
しばらくノートを見つめていたカナは、ふっと微笑んだ。
それは格式や礼儀ではなく、心からこぼれた自然な笑みだった。
この小さなカフェで感じた、ささやかな幸せの証だった。
夕方
ティーがバイクをカフェの前に止めた。
ちょうど帰る準備をしていたカナが店の扉を開けて出てくる。
「えっ、まだ配達あるんですか?もう店は閉まってますよ」
「違いますよ。カナさんを送ろうと思って」
「まあ……恐縮です。歩いて帰れますよ、サームヤーンまでですし」
「でも、今日は疲れたでしょ?すぐそこまでだし、乗ってください」
ティーの誠意を感じたカナは、そっとうなずいて、
彼のバイクの後ろに乗った。
その様子を、ガラス越しに見ていたモクの視線が、そっと二人を追いかけていた。
つづく
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