第3話 泥水
***
カーテンの合間から、日の光が差す。わたしは心地よいうたた寝から目を覚ました。隣でカナシがすやすやと寝息を立てながら気持ちよさそうに眠っている。その艶やかな髪の匂いをそっと嗅ぐと布団をするりと音も立てずに抜け出す。床は冷たい。わたしはバイオストーブをつけるべくつま先立ちで歩く。バイオストーブは、わたしの暮らしていた25世紀の歴史の教科書に掲載されていた『石油ストーブ』に酷似した原始的な熱源発生器だ。バイオ燃料という不安定な循環性を持つ燃料を使っているところに人類の衰退をひしひしと感じる。明かりをつけるのを横着したせいで、ストーブの金属製の輪郭を指でなぞるはめになっている。……指先で冷たさを感じ、着火用のつまみを探しているうちに昨日の夜がだんだんと思い出される。
薄暗い部屋でお互いの輪郭をなぞり合って、冷える身体を温め合い、感じて、柔さを確かめた夜を。
身体の芯が熱くなるような思いだ。指先は冷え切りながらもつまみを見つけて着火する。もう片方の手は昨日のことを身体的に思い出そうと熱くなった部分に伸ばしていたが、我に帰ってそれを離した。部屋には沸々と揺らぐような炎の音とわたしの吐息だけが宙を待っていた。………わたしの時代脳内電波を拾う、『脳波空調』が普及した24世紀末と比べると今は温もりを得るのに時間がかかり過ぎている。まったく非効率な時間の浪費だ。そういうとわたしはむくりと立ち上がり、洗面所に向かう。
大抵の洗面所というものは鏡が置いてある。自身を見つめ直すためだ。それはわたしの心にとってあまりに鋭利なことだ。自己嫌悪、そんな言葉で済ませたくはないがわたしは『わたし』を嫌っているのは確かだ。流されるだけのものが嫌い、そう雪の結晶のような大局やその場の風に流されるものをわたしは侮蔑している。………だが、侮蔑するべき雪の結晶は目の前にのうのうと立っているのだ。男に転がされ、風に流され………。その事実が缶切りで缶詰を開けるようにわたしを抉るのだ。
わたしはそんな顔に水をかける、目覚めるために。だが、面の皮は文字通り厚いほうなのだろう。あまり効果があると感じたことはない。その辺に乱雑に置かれた布切れで拭き取ると、またそこには変わらず不愉快な女が立っているのだ。少しでもその不快さを取り除くべく、櫛で髪をとこうとする。だがほんの刹那、わたしは置いてあった櫛を手に取れなかった。
「『透明水彩』………また不安定な時期になったのか………。」
わたしは虚に投げかけた、勿論返事はない。そもそも求めていない。再び掴もうとするも、悉くすり抜ける。わたしはもう仕方なく、昨夜乱れた髪をそのままにしておくことにした。
*
わたしはご飯を食べようと思った。だから、カナシを起こした。カナシはむにゃむにゃとぼやきながら、わたしの目の前に立つと上目遣いで見つめてくる。そして、
「ボクからの、おはようの分だよ……。」
といって唇を近づける。わたしのシナプスがギラギラのストロボのように点滅する。彼女は昨日の熱を残した髪を愛おしそうに手櫛でとく。わたしはカナシの熱と好意に抵抗することもできず受け取り、わたしもまた彼女にそれらを受け渡す。ゆっくりと唇を離すとふたりの間に透明なロープウェイでもできたかのようだった。
カナシは満足そうに笑うと、洗面所へと向かっていった。
わたしはふと、テレビ放送というものを観てみようかと思った。あれは25世紀には存在し得なかった娯楽だ。個人端末で個人の好きな方角を見続けていたあの社会において、皆が一斉に同じ方角を見るというのはほぼ起こり得ないことだ。だが、これは違う。人々に同じ方を向かせるのに適したツールだ。わたしはそれを好き好んでいるわけではないが、朝の暇つぶしには丁度いい。ぼうっと、脳に情報を流しているとあるニュースが目に入った。それはわたしにとって、深刻なニュースだった。
「先日、ミカマール・キユ・ターユ上級特佐が何者かによって殺害された事件において、犯人は『フリージアン』の少女であることが判明し、現在軍警から指名手配が出されています。」
ニュースキャスターの無駄に耳障りの良い声に乗せて、わたしを指名手配するニュースが流れ込んできた。テレビにはおそらく、あの夫妻が渡したであろうわたしの顔写真が公共の電波に乗せて、この地域全体にばら撒かれているのだ。それはあまりにまずいことだった。わたし1人なら難なく逃げられるだろうが、今のわたしにはカナシがいる。カナシは目が見えないのだ。彼女自身は『第六感』があると言っている(実際、昨晩はその『第六感』のお陰なのかわたしの求めているものを概念としてくっきりと認識できるらしく、わたしのシナプスはただただカナシに蕩かされていた。)がどこまで通じるかわからない。わたしはカナシを連れてこの家を出ていくことにした。カナシは目が見えていないが一人暮らしをしているので、誰に何の遠慮もいらない。
わたしは鞄をもってキッチンに向かう。ここらはまだ暖まりきっておらず、冷たい。急いで棚から長期保存ができるレーションと缶詰、インスタント食品を詰め込む。次に服、最悪わたしの分はなくても良いが、カナシの分は必要だ。詰め込めるだけ詰め込む。お金は……わざわざ持っていく必要はあるまい。そんなもの、透明になって奪い取れば良いのだ。
わたしは渇いたビスケットを手に取って、カナシに声をかける。
「……何も言わずに、わたしと一緒に来てくれ。ここはじきに危なくなるから。」
そういうと、カナシは何も言わず、それを了承した。きっとわたしの求めるものを認識したのだろう。カナシは支度を始める。白杖、手帳、痛み止め、LEP。彼女はそれらをショルダーバックに放り込んだ。そうした後、鼻をふんと鳴らす。
「ボクのこと、守ってくれる?」
カナシはそう訊いた。彼女の手のひらがわたしの頬に添えられようとしている。彼女は表情筋からこうして感情を読み取ろうとするのだ。だが、今のわたしの存在は『透明水彩』のせいで非常に不安定。か細くて愛おしい手がすうっとすり抜けてしまった。カナシは仕方なく第六感でわたしのことを見ようとしている。第六感、いや人間の発する欲求の奔流と言うべきか、それを彼女が認識できるようになったのは、そうしないと生きていくのも困難だったから。他人の求めるものを満たす代わりによくしてもらっていたのだ。だが、今わたしたちの間にあるのは無償の愛だ。わたしは少なくともそう思いたい。だから、もちろん答えは決まっている。太陽が雲に隠れてしまったのだろう。薄暗くなったこの部屋でわたしは柔らかくて豊満な身体を抱きしめながら呟く。
「ああ、命に換えても。」
そういうと少女は微笑んだ。それをわたしは美しいと思った。そして心の底から彼女と一緒に居たいと思った。
*
空は曇り空、わたしたちはアパートを出た。
「……二度と、ここには戻ってこれないね。」
と儚げに少女が呟いた。
「生きていれば、何回だって行くことができる。わたしたちは生きるためにここを離れるんだ、生きるために戻ってくることもあるだろう。」
わたしが言葉を投げると、カナシはそれを静かに受け取る。それ以上に、言葉は必要なかった。フードを深く被り、誰にも気づかれないよう静かに移動する。だが、ドブのような匂いが跋扈しているこの町を放浪するのはわたしにはとてもじゃないが辛すぎる。わたしは別の街、どこか遠くに行こうと提案した。どこか遠くに、ずっと遠くに、まだ誰も足を踏み入れてはいない初雪みたいな世界へ、廃線路を指でなぞるようにお互いの一対の脚で消えない足跡を遺していこうと思った。
*
わたしたちの逃避行は冬の半ばから続いている。時に焚き火で暖まり、時に銭湯で汚れを落としたり、釣ったドブ臭い魚をどうにかして食べたり、ふたりで日銭を稼ぐために………36.5℃の花を売ったりしてきた。そしてふたりで互いを温め慰め、ここまでやってきた。
「……お、おはよう。」
わたしは眼を覚ますと、カナシはぐったりとしている。額に手を当てると、かなりの高熱。数日前、カナシは風邪に罹った。何十日もの野宿生活のツケだろう。わたしは安宿に泊まることにした。安宿とはいえ料金はバカにならない。今のわたしたちには花を売る以外の収入源がないため、かなりカツカツの状態である。今わたし1人でやってもあまり売れない。スタイルの問題だ。わたしは昔っ凹凸のない身体………モテる方ではなかった。実際今まで彼氏はあの憎たらしい男含めて2人しかいないのがその証拠ど。もし売るならカナシと一緒でないとロクな額にはならないのだ。
「ねえ、ボクのことは置いて、あなたは逃げて………。ボクはね、あなたに生きていて欲しいんだ。」
そうやって額に当ててある手を彼女は掴む。だが簡単に振り払うつもりがなくても、些細な手の動きで振り払われる。
「……わたしはお前を見捨てたくない。初めて思ったんだ、心の底からわたしはあなたを愛してるって。だから、やれるだけのことはする。」
もう靡かない流されない。わたしはわたしだ。やることは一つしかないだろう、ドラッグストアで風邪薬を盗む。それが最善の……策の筈だ。
「すぐに戻ってくるから、心配するな。」
わたしはそう呟くと、冷たいドアノブを捻った。
*
わたしは『透明水彩』を使うことへの嫌悪感よりも、彼女を生かしたい、そんな思いの方が強かった。だから、風邪薬を盗むくらい朝飯前である。わたしは小走りで、誰にもぶつからないように路をかき分ける。
そんなとき、軍警が眼に入った。ジュラルミンの盾に、物理銃弾を使用する25世紀ではマニアも使わないようなサブマシンガンを携えている。……どうやらかなりの重装備らしい。ミカマーユを殺したとき、わたしはそれを目撃したものは全て殺したし、監視カメラのシステムもわざわざ壊しに行った。だが、それでも何かに記録が残っていたのだろう。………奴ら、相当躍起になっているようだ。それにわたしたちは宿に口止め料を払っている筈だが、場所が割れているようで、わたしたちの宿に向かっているように映った。わたしは速度を上げる、早く飲ませてあの宿から抜け出さねばならない。
*
部屋に駆け込むと、カナシの咳の音が悲しく響いていた。
カナシはわたしの足音を感知したのかわたしの方を向き
「よかったあ………ボク、これで助かりそう。」
と明るく、それでいて弱りきった声でそう言った。
わたしはロビーで貰った水の入った紙コップと錠剤を飲む。わたしが『透明水彩』から存在を濃くするのに必要な薬剤だ。これが、最後の1つだった。そして、水の残りと盗んだ薬を急いでカナシに渡した。ごくり、と水と薬剤がが喉を通る音が微かに耳を刺した。……本当なら安静にしておくべきだが、それを状況が許してはくれない。わたしはカナシに伝える。
「チェックアウトはさっき済ませた。だから、すぐにここを発つ。これで大丈夫?」
わたしがそう訊くと、カナシは咳き込みながらも首を縦に振った。わたしたちは最低限の荷物だけ持って、ここを出る。
部屋を出て、階段を2人で降る。振り返ると、おそらくわたしたちがいた部屋に軍警が到着していた。わたしは覚悟する。多少の荒事は避けられない、と。
わたしたちが受付のある1階に降りた時点で、見張りは数人だった、これならば、勝機は大いにある。わたしはカナシに耳打ちする。
「わたしが全員片付けるから、それまで隠れていて。」
カナシを光の当たらぬところにやり、わたしは1人で歩く。だんだんとスピードを上げて、走り出す。手短に行こう、ダラダラするのは好きじゃない。わたしは粗雑なコンクリートの床を踏切り、人差し指を立てながら、宙を舞い、飛びかかる。
まずは1人、指だけを透過させて軍警職員の額を突く、そして、指を実体化させる。生ぬるい朱い液体と形容しがたい色をした肉塊がわたしの指の輪郭を朱く滲ませる。
異変に気づいた2人がわたしに向けて重い銃声を響かせる。身体全体を透過させて、弾をすり抜けさせる。そして2人ともわたしの輪郭を朱く濡らす露と消えた。……これでひとまず片付いたようだ。
わたしはカナシを呼び寄せる。この騒ぎの中、わたしたちは宿を出る。
「……すごい、本当に宿を抜け出せるなんて。」
「当たり前だ。こんなところで捕まっていたら話にならないのでな。」
わたしはカナシの全速力に合わせて走る。ふと振り返ると、1人の警官が拳銃をこちらに向けている。彼の手は震えているがあのまま撃たれれば、確実にカナシは致命傷だ。わたしはカナシの後ろについて走る。………わたしが盾になるのだ。そうすれば、彼女は生きながらえる。血に塗れた、罪だらけのわたしはきっと、ここで死ぬ定めなのだ。そう言い聞かせて、わたしの体に銃弾が撃ち込まれるのを待つ。
*
引き金は引かれた。わたしは銃口の直線上にいた筈だ、なのに痛みがなかった。ふと見ると、カナシが倒れていた。
わたしが慌てて駆け寄ると、カナシの額にぽっかりと穴が空いており、そこを中心として朱い液体が円状に広がり続けていた。
わたしは呼吸するのが嫌になった。喉を自ら掻き切りたかった。だが、生憎わたしは今何も触れられなかった。……おそらく、さっき使った『透明水彩』の暴発だ。わたしの奥底は……………誰かのために死ぬのを拒絶したんだ。
わたしは『わたし』の所業に吐き気を催した。何も守れず、約束も果たせず。こんなわたしを生かして、何になるというのだ。
わたしは、カナシの亡骸を担いで走るようなこともしなかった。結局、わたしもお為ごかしでしか他人と関わらない……クズなのだ。わたしはこの世から消え去りたいと強く願いながら、自分という存在に水を足して薄め、その場を走り去った。
***
わたしはあれから、ただ当てもなく放浪していた。水の飲まず、飯も食わず、旅を続ける理由なんてないのにただ、前へ前歩き続ける。一度自分の格好に眼を向ける。荒れ果てた髪、皮脂でてかてかと反射している肌、血と汗で汚れたみすぼらしいパーカー。血まみれの足。この世界にわたしを知るものはいない。わたしはこの世でひとりぼっちになってしまったのだ。舗装されていない泥だらけの道を焦点も合わない瞳で見つめる。雪解けの時期だろう。世界は希望に溢れる時期だ。だが、わたしの世界はなぜこんなにも昏いのだろうか。今はまだ朝だった筈だろう。わたしは泥だらけの道を裸足で歩いている。足先は冷たくない。というよりは感覚がもうないのだろう。無言のまま足の進める。
*
気づくとわたしは躓いていた、水たまりに顔が浸っている。茶色い泥水をわたしは啜った、そしてひとこと、呟く。
「お母さんの、味噌汁美味しいなあ。」
言葉は誰にも届かなかった。視界は昏く昏く、鎖された。
【了】
コールド・スリープ 斗南億人 @6T_T9
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