山影の夜

志賀恒星

山影の夜

山深いキャンプ場は、昼間こそ涼しく快適だったが、夜は空気そのものが別物のように変わった。


 車で二時間の山中にあるキャンプ場。駐車場に他の車は無く、どうやら完ソロのようだった。

 街灯は入口にひとつあるだけで、テント場は月と懐中電灯頼り。標高は千メートルを超えていた。通じるのは一社だけの電波。運悪く、ふたりのスマホは圏外だった。

「マジで、電波入らないのか」


 亮がスマホを頭上に掲げながら顔をしかめた。


「だから言ったでしょ? 地図アプリだけでもダウンロードしておいてって」


 美咲は焚き火のそばでスープをかき回しながら溜息をついた。


「俺、方向感覚あるから平気だって」

 スマホが使えないということがこれほど不安になるとは、亮は新鮮な驚きを感じた。だが、それがキャンプの醍醐味なんだよなと、自分を奮い立たせる。


 夕飯は簡単なインスタントスープとウインナーだけ。


 気温は日没と同時にぐっと下がり、焚き火のありがたさが身にしみた。

 ふたりは大学の同級生。付き合っているというより、互いに暇だった夏休み、軽いノリで「じゃあ行くか」と決めた関係だった。

 午後九時。虫の鳴き声がひときわ賑やかに聞こえる。


 テントを張った場所は、整備された区画から外れた少し奥。展望がよくて星が綺麗という理由だけで、亮が強引に選んだ。

「そろそろ寝る?」
「そうだね……」


 美咲が片付けを始めようとしたとき、突然、ぱきっという音がした。

 枝を踏むような、乾いた破裂音。

 ふたりは思わず顔を見合わせた。


「動物かな?」


「かもな。イノシシだったらやばいけど」


「懐中電灯持ってきてよ」


 亮は車に置いてきた懐中電灯を思い出し、舌打ちした。車までは100メートルはある。

 焚き火の火がパチパチと跳ねる音に混じって、また枝が折れる音がした。今度はもっと近い。


 ガサガサ、と下草をかき分けるような音。

 ふたりは無言になった。


 冗談にしては、空気が重すぎた。

 

「ライト、スマホのでもいいから」


「今、点けてる……」


 美咲が震える手で照らすと、草むらの奥に何かがいた。

 四つん這い……?


 人か、動物か、分からない。


 だがそれは確実に「こちらを見ていた」。

 眼が、妙に光を反射していた。


 人間の眼は、あんなふうには光らない。

「逃げよ……車まで戻ろう」


「走れるか……」


「無理でも行く」


 ふたりは荷物を放って立ち上がり、走り出した。

 焚き火が背後に小さくなっていく。


 だが、それと同時に、足音が増えた。


 乾いた地面を、手か足か分からない何かが、ずるり、ずるりと追ってきていた。

「速い……!」


 亮が叫ぶ。だが振り返れない。


 背後の気配が、ぴたりと背中に貼りついている。


「着いた!」


 ドアを開けようとした瞬間、鍵がないことに気づく。

 「車のキー!?」


 「……テントの中、たぶん」


 亮が、うめくように言った。


 そのとき、美咲が低く叫んだ。
「後ろ――!!」

 それは立っていた。


 まるで人のような、けれど長すぎる手足。


 全身が乾いた土でできているような質感。


 顔には、目だけがあった。


 口も鼻もなく、ただ、深く、黒い目がふたつ、静かにこちらを見ていた。

 

 亮がポケットからナイフを取り出そうとした瞬間、何かが、ずるり、と音もなく車の屋根の上に現れた。


 もうひとり、いた。


 まるで最初から、いたように。

 その瞬間、美咲が持っていたスマホのライトが消えた。

 音も、世界も、すべてが吸い込まれるように静まり返った。

 

 ……どれほどの時間が経ったのか分からなかった。

 美咲が目を覚ましたとき、朝日が木々の間から差し込んでいた。


 亮の姿はなかった。


 車のそばには、泥のような跡が広がっていた。


 まるで何かが這いずったように、あるいは引きずったように、ぐるぐると。

 テントに戻ると、荷物はすべて無くなっていた。車のキーも含めて。


 焚き火の横に、何かが埋まっていた。

 それは、亮のスマホだった。


 背面には、見覚えのない指紋が無数についていた。


 人のものよりも細く、長すぎる指の跡だった。

 

 助けを呼ぶにも、電波は届かない。


 気温は急激に上がり、蝉が騒ぎ始めた。

 空は、なにごともなかったかのように、青く晴れていた。

 

(了)

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山影の夜 志賀恒星 @shigakosei

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