第一章 元勇者ケイゴ

第1話 世界平和に背を向けた男

 アルケニア王国、王都セント・アルケニア。


 天井まで届くような重厚な柱が並ぶ謁見の間は、魔光石の淡い冷光に照らされていた。石造りの壁は隙間なく彫刻と金装飾で覆われ、過剰なまでの美しさはむしろどこか、国の歪んだ繁栄を物語っているようでもあった。


 その空間の中心、王座の手前に一人の男が立っていた。ケイゴ。かつて魔王を討った元勇者。両手をポケットに突っ込んだまま、軽薄とも取れる姿勢で、しかし王を真っ直ぐに見つめていた。


 背後では、衛士たちが無言で壁際に整列している。全員が甲冑をまとい、整った隊列を保ちながらも、その眼差しには警戒と、どこか張り詰めた不安が浮かんでいた。謁見の間の空気は、沈黙によって重く圧されている。だがケイゴの目は、まるで他人事のように、無感動だった。


 クラディウス王が、玉座に深く腰掛けたまま、ようやく口を開いた。


「……いい加減、わが軍に加わってはくれぬか」


 言葉だけを聞けば穏やかだった。だがその声音には、長年の思惑と焦燥が滲み出ている。強く圧し殺されたような緊張が、言葉の裏にあった。


 ケイゴは、その感情の揺らぎを見逃すことはなかったが、顔に出すことはしなかった。


 わずかに片眉を上げたかと思えば、静かにため息をついた。


 何かを言いかけたような気配はあったが、結局、言葉は発せられなかった。


 それでも、その沈黙は王への挑発としか受け取れぬほどに、冷たく明瞭だった。


 玉座の右側に控えていた宰相ベルンドが、わずかに体を乗り出した。


 沈黙に射抜かれたように、目を細める。


「……返事をせぬか、王がこうして頼んでいるのだぞ」


 声には静かな怒気が滲んでいた。


 だがクラディウスが手をひらりと振ると、ベルンドは唇を結び、それ以上動かず言葉を呑んだ。


 王の声が再び響く。


「十年前、そなたが魔王を討ってくれたことに、この国は今も深く感謝しておる。その力を、今度は人の争いを終わらせるために使ってほしい。そう願っておる」


 その言葉に、ケイゴはほんの一瞬だけ目を細めた。「魔王」――その言葉が、胸の奥の古い傷に触れる。


 だが、そこに沈むより早く、口元にうっすらと皮肉な笑みを浮かべて応じる。


「……また『人のために剣を振るえ』ってわけだ。懲りないね、王様」


 その言葉が静かに落ちた瞬間、謁見の間の空気が微かに揺れた。


 王が言葉を飲んだその隙を縫うように、宰相ベルンドが一歩、玉座の脇から進み出た。


 その動きには、これまで抑えていた感情がわずかに漏れていた。


「ケイゴ殿。……魔王が倒れてから十年、国と国の争いは止まず、いまや大陸全体が膠着状態に陥っております」


 冷静な口調だったが、言葉の奥に宿る焦りは隠せなかった。


「資源の争奪、領土の奪い合い、王家の継承をめぐる内紛……民は疲弊し、国は分裂しかけている」


 魔光石の淡い光に照らされたベルンドの顔に、薄く刻まれた皺が強調される。目の下には疲労の影が濃く落ちていた。


 言葉に込められる説得は、すでに懇願に近かった。


「もはや、この混沌を断ち切れる者は、あなたしかいないのです」


 ケイゴは、宰相の言葉に対して沈黙で応じた。顔に浮かぶ感情は淡く、読み取れない。


 だが、その沈黙こそが拒絶の意思であることは、誰の目にも明らかだった。


 それでもベルンドは、なおも言葉を重ねる。


「あなたが魔王を討ったその力……戦況を動かすのは、それ以外にない。軍を率いて敵国の心臓を突くか、あるいはその存在そのものが戦争を終わらせる抑止となる。戦術的にも、政治的にも、あなたの力が必要だ」


 理屈を重ねる声とは裏腹に、ベルンドの喉仏がわずかに揺れる。


 だがケイゴは、少しだけ目を細めると、皮肉めいた口調で言い放った。


「……悪いが、興味はない」


 その無関心な声に、謁見の間の空気が一段と冷え込んだ。


 ベルンドの口元がわずかに引きつる。怒りが感情の奥から噴き上がるのが隠しきれない。

 それでも、彼は表向きの言葉を継ぐ。


「……無下に断るとは。貴殿には、この国が与えてきた数々の恩義というものが見えておらぬのか?」


 ケイゴは片眉をわずかに上げた。その動きすら、どこか退屈を感じさせるものだった。


「恩義?」


「そうだ。貴殿が魔王を討ってからというもの、我が国は貴殿に無税での永住権を与えた。住まいも、警備も、干渉せぬ自由も――すべてを用意してきたはずだ」


 ベルンドの言葉には、もはや強い抑えきれない苛立ちがにじみ出ていた。


「我が国がどれほど譲歩し、特例を認めてきたか……そなたが最も理解しているはず。なのに、なぜその恩義に応えようとせぬ?」


 ケイゴは肩を軽くすくめる。それは、投げ捨てるような無関心の表れだった。


「……それは、全部そっちが勝手に押しつけてきたものだろ」


 その一言に、ベルンドの目がカッと見開かれた。


 だがケイゴはその反応を意に介することなく、淡々と続けた。


「俺が他国に渡ったら困るからって、“囲い込むための飴”を用意しただけの話じゃないか。恩義ってのは、“してやった”って言うための材料じゃない」


 宰相の拳が小刻みに震えた。


 その震えは、怒りと、焦燥と、思い通りにいかない現実への苛立ちが入り混じったものだった。


 そのときだった。クラディウス王が静かに右手を掲げた。


 たったそれだけの動きで、ベルンドは口をつぐみ、姿勢を正した。


 謁見の間に、再び静寂が降りた。だがそれは、安らぎではない。まるで導火線に火がついたあとの沈黙――爆発を待つ時間だった。


 ベルンドの目に宿った怒りは、もはや隠しようがなかった。


 彼の内側で膨れ上がる怒気が、皮膚の下からじわじわと浮かび上がっていた。


 だが、ケイゴはなおも揶揄するように、口を開く。


「無税? 永住権? どれもこれも、“お前らの都合”で押しつけてきたものだろう。俺が他国に渡るのが怖かっただけじゃないのか」


 その言葉に、ベルンドの口元がひきつる。抑えていた感情が、再び顔ににじんだ。


「この国に縛りつけておきたかった。そうだろ? だが、勝手に施しを与えておいて、あとから『恩を返せ』とくるのは……ずいぶん、虫がよすぎる話じゃないか?」


 その瞬間、ベルンドの魔力が明確に揺れた。


 空気の層が微かにひずみ、淡い光のような波動が床を這う。


 壁際の衛士たちが、一瞬だけ姿勢を正した。


 その動きは、何かが始まる前兆を感じ取った動物的な反応だった。


「……貴様……!」


 声を上げたのはベルンドだった。怒りに駆られ、一歩、ケイゴへと踏み出す。


 ケイゴは、今にも怒号をあげそうなベルンドに一瞬だけ目をやり――またクラディウスの顔へと視線を戻す。


「“恩”って言葉を使うときは、それが本当に相手のためになったか、まず考えるべきだぜ。少なくとも、俺は一度もその恩を頼んだ覚えはない」


 誰も反論しなかった。


 その場にいる全員が、その一言を打ち消す術を持たなかった。


 魔光石の青白い光が床を照らし、金装飾の壁面に長く冷たい影を落とす。


 謁見の間に満ちた沈黙を、ケイゴの低く平坦な声が切り裂いた。


「この十年、ずっと黙って見てたよ」


 誰に語るでもなく、ただ自分の中にある事実を並べるように。


「俺が魔王を倒せば、世界は平和になると思ってた。……けど、違った」


 クラディウスもベルンドも、もう何も言わなかった。


 もしくは言えなかったのかもしれない。


 ケイゴは一歩、王へ近づいた。


 その動きに威圧の色はない。だが、足音だけが異様に重く響いた。


「魔族の脅威が去ったら、今度は人間同士で領土を奪い合い、資源を独占し、王位をめぐって血を分けた兄弟が殺し合うようになった。……まるで、空いた椅子を見つけた猿たちだ。順番も決めず、殴り合いを始めてる」


 ベルンドの顔が険しさを増す。しかし、王は依然として沈黙を保っていた。


「……皮肉なもんだな。魔族がいたときのほうが、人間はまとまってた。俺が命を懸けて得た”世界平和”が……この程度だったとはな」


 それは笑いではなかった。


 怒りでも、悲しみでもない。むしろ、底なしの空虚さ――乾いた虚無が、ケイゴの声には確かに宿っていた。


「俺が魔族を倒したその瞬間より――世界は醜くなった」


 その言葉は、まるで毒のように、謁見の間全体に染み渡った。


 誰一人、反論する者はいなかった。目を伏せる者もいなかった。ただ、動けなかった。


 その静けさの中で、ベルンドの拳が震え始める。


 抑えつけていた怒りが、ついに制御を突き破る。


「貴様……!」


 怒声が響いた瞬間、ケイゴは微動だにせず、それを受け止めた。


 ベルンドは怒りに任せて手を振り上げた。


 その合図が意味するものは、あまりに明白だった。


 謁見の間を囲む近衛兵たちが、反射のように剣を抜く。


 鋭い金属音が次々と重なり、冷たい空気に切っ先の光が瞬く。


 緊張の糸が、ついに断ち切られた。


 甲冑は磨かれ、剣の光を淡く反射していた。


 近衛兵は、黙ってケイゴを包囲するように歩を進める。


 いつもの二倍。いや、それ以上。三重、四重の包囲陣が、徐々にケイゴとの距離を詰めていく。


 それでも――ケイゴは、一歩も動かない。


 まるで、風のない場所に佇む木のように、ぴくりとも揺れない。


 ケイゴは口の端に、ゆっくりと薄い笑みを浮かべた。


「……なるほど。今日は、いつもより護衛が多いと思ったんだよね」


 その何気ない一言が、包囲していた兵の何人かをたじろがせた。


 ほんのわずか、目の動きが揺れる。剣を握る手に汗がにじむ。


 沈黙と殺気が交差する中、ベルンドが低く、しかし明確な言葉を告げる。


「……いまここでひざまずき、国のために尽くすと誓えば、帳消しにしてやる」


 その声は、一見すれば温情ある提案のように聞こえる。


 だが、その実態は“処刑の猶予”に他ならなかった。


 兵士たちの剣が、無言で空気を裂いていた。


 それらすべての殺意が、ただひとり――ケイゴへ向けられていた。


 だがその中心で、彼は変わらず静かに立ち尽くしていた。


 まるで、嵐の中の無風地帯。荒れ狂う外界に、ひとつだけ沈んだ空間があるようだった。


 ケイゴは宰相に視線を向けたまま、ゆっくりと右手を上げる。


 ケイゴの人差し指と中指が上に弾かれた瞬間、空気にひび割れのような歪みが走った。


 次の瞬間、兵士たちの手元から剣が一斉に跳ね上がる。人の意志など介在しない、ただ強大な力に引き寄せられるかのような動きだった。


 鋭利な刃が、天井へ向かって矢のように駆け上がる。速度は尋常でなく、まるで上空に何かがそれらを吸い込んでいるかのようだった。


 そして、石造りの天井に次々と深々と突き刺さる。硬い岩の壁面を難なく貫き、柄の部分だけを残して刃が消えたように見える。


 その異様な光景に、近衛兵たちは誰一人、身動きが取れなかった。何が起きたのかを理解するより早く、結果だけが圧倒的な現実として眼前に突きつけられていた。


 ベルンドは言葉を失っていた。王クラディウスの瞳にも、明確な動揺が浮かぶ。


 ケイゴは、ため息をひとつ。肩を軽くすくめるようにして言う。


「お前たちに“許してほしいこと”なんて、ひとつもないね」


 背を向け、静かに踵を返す。


「じゃあ、用は済んだみたいだから。俺は帰るよ」


 歩き出すその姿に、誰も動けなかった。


 ただ、ケイゴだけが静かに扉へ向かって歩を進めていく。


「……そうそう。もう二度と、あんたたちと会うことはないから。あとは――好きに生きてくれ」


 その背に、ベルンドの怒声が投げつけられた。


「この国から出ることは許さんぞッ!」


 だが、ケイゴは振り返らない。片手をひらひらと後ろに振るだけだ。


 ゆっくりと、豪奢な扉の向こうへと消えていくその背は、どこまでも軽く――


 そして、何よりも重かった。

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