見上げた空に、まだ名前はない
「文化祭、あと一週間かー!」
誰かがそう叫んだのをきっかけに、教室の中はまるで波のようにざわめき始めた。
紙テープ、色画用紙、模造紙、ガムテープ、のり、マジックペン――机の上に広がるカラフルな道具たちは、もはや教科書よりも存在感を放っていた。
「慧、こっち手伝って!」
「うん、わかった」
慧くんは、男子数人と一緒に看板作りを手伝っていた。彼の手際のよさと、自然とみんなを巻き込んでいく空気感は、やっぱり“らしい”というか、ずるいくらいに絵になっていた。
私はといえば、黒板の下の方にちょこんと座り込み、切り抜いた星型をせっせと貼り付けていた。キラキラのラメのりを塗りながら、時折、こっそりと慧くんの方を見てしまう。
(……ずるいなあ)
ふと、そんな言葉が胸の中に浮かぶ。別に誰かに対しての嫉妬ではない。ただ、彼のことを“好きだ”と思ってしまってから、世界がどこか不公平に思えてしまうだけ。
「柚葉、これ星の配置どうするー?」
声をかけてくれたのは、桐谷さん。最近よく話すようになった、クラスのムードメーカー的な女の子だ。明るくて、ちょっとだけドジで、でも芯が強い。気づけば一緒にいる時間が増えていた。
「んー……ここ、空けた方がいいかな? この辺に流れ星っぽく配置してみるとか」
「おおっ、それめっちゃロマンチック! いいじゃん、それ採用!」
「ありがとう」
そうして私たちは、また星を貼り続ける。会話はとぎれとぎれで、でもそれが心地よかった。
気づけば、外はもう夕暮れだった。窓の向こう、オレンジ色に染まった空に、ひときわ輝く星がぽつんと浮かび始めていた。
「なあ、柚葉」
帰り道、教室を出たところで慧くんに声をかけられた。
「うん?」
「帰り、一緒にいい?」
心臓が、一瞬だけどくんと跳ねた。
「う、うん……」
なんでもないふりを装いながら、私はうなずいた。
校舎の外に出ると、涼しい風が髪を揺らした。昼間の喧騒がうそのように静かで、まるでこの時間だけが世界から切り離されているみたいだった。
「……今日の夕焼け、すげぇな」
慧くんがぽつりと呟く。
「うん、綺麗……」
「空、好きだったよな。前も言ってたし」
「……覚えてたんだ」
「まあ、ちゃんと話したことは、忘れないから」
そう言って彼は笑った。
その横顔に、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
言いたいことはたくさんあるのに、言葉にならない。
“好き”の一言が、どうしてこんなに難しいんだろう。
私が黙ってしまったのに気づいたのか、慧くんはポケットから何かを取り出した。
それは、私の――ノートだった。
「これ、落ちてた。音楽室の近くで」
「……!」
思わず息を呑む。
どうしてあんなところに。
いや、それより――見られて、ない?
「中、見たわけじゃないけど。なんか、大事そうだったから」
慧くんのその一言で、私はようやく少し息ができた。
(見られてない……? 本当に……?)
「ありがとう。探してたんだ、それ……」
「そっか。良かった」
私の差し出した手に、彼はそっとノートを返してくれる。その手が一瞬、私の指に触れた。
「……柚葉」
呼ばれた名前に、顔を上げる。
でも彼は、なぜか言葉を続けなかった。
ただ、空を見ていた。
「名前のない星って、さ。
実は、すっごくたくさんあるんだって。
誰にも知られてないけど、ちゃんと光ってる」
「うん……」
「お前も、そういうとこあるよな。目立たないけど、ちゃんと光ってるっていうか」
それが褒め言葉なのか、慰めなのかは、よくわからなかった。
でも不思議と、涙が出そうになるのをこらえながら、私は言った。
「慧くんは……知ってくれてる?」
「もちろん。俺、そういうの、見逃さないから」
その笑顔が、あまりにも優しくて、私はなにも言えなかった。
その夜、私はもう一度ノートを開いた。
「慧くんに、“好き”って言えますように」
前に書いたその一文が、少しだけにじんでいた。
でも、今はもう――
嘘じゃなくても、叶えられる気がする。
ただ一つだけ、心に引っかかっていたのは、慧くんが言ったあの言葉。
「中、見たわけじゃないけど」
――あれは、本当に、“嘘”じゃなかったのかな?
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