あの日、あなたは何を願った
図書室の扉を開けると、空気が少し冷たく感じられた。
夕陽が差し込む窓辺には誰もいない。
だけど私は知っている。
この静けさの奥に、「もうひとつの現実」が隠れていることを。
──嘘ノート。
私の願いを、叶えるふりをして、
何かを消して、何かをすり替えてきたノート。
私は奥の本棚の前で立ち止まり、手を伸ばした。
何度も夢で見た“そこ”に──それは、あった。
まるで、私を待っていたかのように。
──真っ黒な、厚い表紙。
ページの隙間から、わずかに赤黒いインクが覗いている。
「……ほんとに、これだったんだ」
指先でページを開くと、最初に見えたのは一文だった。
『嘘は、信じる人によって本当になる』
私の胸が、ギュッと締めつけられる。
ページをめくると、そこには見覚えのある筆跡。
──私が書いた、あの日の嘘。
「千歳慧くんは、柚葉のことが好きになる」
「柚葉に優しく接してくれる」
「ふたりきりの時間が増える」
そして──
「もし関係が崩れそうになったら、もう一度最初から始める」
……これだ。
この一文が、慧の記憶をリセットさせた。
私が書いた。私が、望んだ。
でも、その願いが“彼”を消してしまった。
いや、違う。
私は“うまくいく未来”を望んだだけ。
“彼を消した”なんて、一度も思ってない。
「……じゃあ、これは誰の嘘?」
私はさらにページをめくる。
そこには、見覚えのない筆跡で──別の“嘘”が綴られていた。
「桐ヶ谷湊と柚葉が、自然に惹かれ合うように」
「柚葉が慧との関係を少しずつ忘れるように」
「記憶の中の“初恋”が、ぼやけていくように」
心臓が跳ねた。
誰かが、私の恋を“別の方向”へ動かそうとしていた。
「……嘘ノートは、私だけのものじゃないの?」
ざらり、とページの裏側に黒インクの染みが広がっていた。
そのとき、背後から声がした。
「やっぱり、見つけたんだね」
振り返ると、天野先輩がいた。
いつもの優しい笑み。だけど、その奥に、何か隠している。
「先輩……知ってたんですか? このノートのこと」
「うん。というか──」
彼は静かに歩み寄ってきた。
「僕が最初に見つけたの、これ」
「え……?」
天野先輩は、ノートの背表紙を優しくなぞる。
「高1の春。ちょうど、君が“慧くん”に恋をした頃だね。
……君が誰かに恋をして、叶わなさそうで、泣きそうだったのを見て、
僕……助けたくなった」
「……どういう意味?」
「そのままだよ。
柚葉ちゃんが“彼”に片想いして、苦しんでた時、
ノートに“少しだけ未来が変わればいい”って書いたんだ」
私の心がぐらぐらと揺れる。
「でも……でもそれって、私の気持ちを……勝手に……」
「うん、ごめん」
天野先輩は、一瞬だけ本気で謝った。
「だけどね、柚葉ちゃん。
君はあの時から──自分で“嘘を書く”ことを選んだんだよ」
「……っ」
「これは、魔法じゃない。
願いごとを“嘘”として書いたとき、
その嘘を“信じられるかどうか”がすべてなんだ」
私は、目の前のページを見つめた。
“慧と、最初からやり直す”──私が信じたから、現実になった。
でも、“彼”の記憶も消えて、心まで初期化された。
それって、幸せなやり直しなの?
「君はもう、ノートに頼らなくても恋ができるよ」
天野先輩の声は優しいけれど、どこか突き放すようだった。
「だけど、もう一度使えば、今度こそ“全部”が消える」
「……全部?」
「慧くんのことも、桐ヶ谷くんのことも、
君が書いた“嘘”も、“本当の気持ち”も」
「じゃあ、もう二度と恋ができない……?」
「“自分の心”で誰かを好きになれれば、それはできるよ」
「……どうして、先輩はそこまでして私に──」
そのとき、彼の目がほんの少し、寂しそうに揺れた。
「僕も昔、書いたんだ。“彼女の隣には、自分がいる”って」
その言葉に、私は全てを悟った。
──先輩も、私に恋をしていた。
でも、その恋もまた、嘘から始まっていた。
帰り道。
ノートはまだ私のバッグの中にある。
だけど、もう書かない。
私は、自分の気持ちを試したくなった。
ノートの“嘘”じゃなく、
自分の“ほんとう”で、恋をしたい。
慧のこと。桐ヶ谷くんのこと。
そして──
私が、ほんとうに“誰”を好きなのか。
この気持ちは、誰かに書かれたものなんかじゃない。
これから、私が“書いていく”ものだ。
その夜。私はある一文を、真っ白なページに綴った。
「もう、私は嘘を書かない」
それが、私の最初の「ほんとう」だった。
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