やさしさに触れて、苦しくなった
あの日から──
慧の名前を、口に出すのが怖くなった。
でも、心の中ではずっと呼んでいた。
千歳慧。
あなたは本当に、いなくなったの?
それとも──私が、いらないって思ったから消えちゃったの?
毎晩、枕の中で問い続けても答えはない。
だけど、あの非通知のメッセージだけが、
私の中に微かに残る「真実」のように感じられた。
まだ終わってない。
“彼”は、消えてなどいない。
なら、どうすれば……?
「なあ柚葉、ほんと最近元気ないな?」
昼休み。桐ヶ谷くんが隣に座って、ペットボトルを差し出してきた。
「ポカリ、いる?」
「……ありがとう」
私は受け取る。けど、目を合わせられなかった。
「昨日のカフェ、やっぱやめとこうか?
なんか、無理させてるみたいで……」
「ちがうの。ごめんね、私のせいで……」
「“私のせい”って、何?」
桐ヶ谷くんの声が、少し低くなった。
「……俺、ずっと言おうか迷ってた。柚葉、最近おかしいよ」
「……え?」
「なんかこう、すごく遠くを見てるっていうか、
話してるのに、どこにもいない感じがするっていうかさ」
胸がギュッと痛んだ。
“あなたは、わたしが嘘をついてるって気づいてる?”
それを口に出す勇気が、私にはなかった。
代わりに、こんな言葉がこぼれた。
「……ねえ、桐ヶ谷くん」
「うん?」
「わたし、本当に“あなたのこと”が好きなのかな」
「……え?」
沈黙。
クラスのざわめきの中、私たちのまわりだけ、音が消えたみたいだった。
「柚葉、それって──」
「ごめん。……自分でも、わからないの」
私はポカリのラベルを指先で剥がしながら、声を絞り出す。
「でもね、あなたが笑ってくれると、ほんとに嬉しいの。
でもそれが“ほんとの気持ち”なのか、“書かれた気持ち”なのか、
もう……区別が、つかない」
彼は、ただ静かに私を見ていた。
「なあ、柚葉」
「……うん」
「もし、俺とのことが“嘘”だったとしても──
それでも、いま隣にいる俺は、本物なんだよ」
「……え?」
「柚葉がどんな気持ちでもいい。
たとえ最初が“ノートの力”だったとしても、
俺は、ちゃんと本気で、柚葉のこと考えてる。
……だから、もうちょっとだけ、そばにいさせてよ」
言葉のひとつひとつが、心の奥に刺さる。
優しすぎて、苦しい。
嬉しくて、泣きたくなる。
でも──私は、まだ決められない。
誰を、好きなのか。
何が、本物なのか。
その夜。私は再び夢を見た。
──“慧”が立っている。
制服姿のまま、教室の黒板の前に。
でも、顔がぼやけていて見えない。
私が名前を呼んでも、動かない。
「……ねえ、どこにいるの……?」
“慧”は、ゆっくりと口を開いた。
「柚葉。
君が選んだ世界が、君の現実になるんだよ」
その声は、確かに慧のものだった。
「でも、ひとつだけ気をつけて。
“誰かの嘘”に乗っかり続けてると──
“自分の気持ち”を見失う」
「わたし……」
「そろそろ決めなよ。
“誰”が、君の真実か」
──目が覚めたとき、私は涙を流していた。
翌朝。教室。
桐ヶ谷くんはいつも通りで、昨日のことには触れてこなかった。
その代わり、ポケットから飴を出して言った。
「はい、塩ライチ味。疲れてるとき甘いの食べたほうがいいよ」
「……ありがとう」
飴を口に入れると、少しだけ泣きたくなる味がした。
そのとき──
「転校生、紹介するぞー」
担任の声で、空気が変わった。
私は息をのむ。
「千歳慧くんです。
ちょっと事情があって、この学校を一度離れてたけど、戻ってきました」
──慧?
でも、その“慧”は──
わたしの知らない顔をしていた。
まるで、わたしを見ても何も感じないような目をしている。
記憶が、ない?
「千歳です。よろしくお願いします」
その瞬間、何かが胸の中で音を立てて崩れた。
慧は、帰ってきた。
でも──私のことを覚えていない。
「柚葉ちゃん、どうしたの? 顔、真っ青だよ」
となりの席の友達が心配そうに覗き込んでくる。
でも私は答えられなかった。
世界が、またひとつ嘘をついた。
慧は“戻った”けど、“出会ってないことになってる”。
ノートがまた、“新しい現実”を作った。
私は──この先、どうすればいい?
慧と桐ヶ谷くん。
ふたりとも大切で、でも、どちらも“嘘”の可能性がある。
それでも私が選ぶべきなのは、
誰かに与えられた“好き”じゃなくて、自分で決めた“好き”なんだ。
じゃないと、何度だって誰かを消してしまうから。
その日の放課後。
私はもう一度、あの図書室へ向かった。
今度こそ、ノートを見つけるために。
そして、自分の本当の気持ちと向き合うために。
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