第2話

デイトンの街は、汽笛と新聞の音に満ちていた。1890年代、産業の風がアメリカ中を駆け巡っていたが、すでに青年となったウィルバーとオーヴィルの兄弟は、どこかそれに取り残されたように、小さな自転車修理店の奥で何かを作っていた。

「ねえ兄さん、やっぱり“前に傾く”形じゃないと、空気が受けにくいと思うんだ。」

オーヴィルがスケッチブックを広げる。自転車のパーツ、風見鶏の図面、鳥の羽ばたきの観察メモ……ページにはいつも、地面のことではなく“空”のことが描かれていた。

「でも、それだとバランスを失いやすい。」

ウィルバーは慎重だった。材料の重さ、空気の流れ、すべてを言葉にして並べたがる。

「前に傾けたら、尻尾を伸ばす。後ろが重ければ、回転する。」

「回転……。」オーヴィルはその言葉に反応し、歯車を回すようにスケッチを描き直した。

     *

二人はまず、空気の動きを学ぶところから始めた。図書館で見つけたリリエンタールのグライダー実験。手紙で送ってもらったチャンネル諸島の風速データ。やがて、自分たちで実験する必要を感じるようになる。

ウィルバーはある日言った。

「“信じられる風”が欲しい。」

その一言が、風洞ウィンドトンネル(風を人工的に作る実験装置)を作るきっかけとなった。自転車の部品を使って作ったその装置で、二人は無数の翼の形を試し、どんな角度が一番揚力を得られるかを調べていった。

失敗の連続だった。作った模型は次々と壁にぶつかり、羽根は裂け、軸は折れた。角度を一度変えるたびに、空気の流れは予想と違って暴れた。

「これ、もう全部で何枚目だっけ?」

「68枚目……いや、69かな。」

オーヴィルが汗を拭きながら笑った。

それでも二人は諦めなかった。真夜中まで風洞を回し続け、スケッチブックにはいつも指の黒ずんだ跡が残った。

     *

外の世界では、兄弟の努力は知られていなかった。新聞は汽車と戦争の話題ばかり。空を夢見る者は、いつも笑われる。

「また空飛ぶ話か。せいぜい怪我しないようにな。」

街の人々は冷やかしたが、兄弟は動じなかった。どちらかが疲れて倒れそうになれば、もう一方が手を引いた。


「空を飛ぶっていうのは、人類の夢だ。」

「確かに笑われることも多いけど、こうやってたくさんの資料を残した人たちもいる。」

ウィルバーは集めた資料を見ながら話した。


「そうだね。空が飛べれば気持ちいいだろうな。」

オーヴィルは天井の先にある大空を見つめてつぶやいた。


「そうだな。できるようになることも、たくさんある。」

ウィルバーは未来を見つめてつぶやいた。

     *

1903年、彼らはキティホークの地へと向かった。人のいない砂丘、強い風、そして広い空。それだけあれば充分だった。

だが、飛行は何度も失敗した。翼が折れ、帆布が裂け、プロペラが割れた。風を読み違え、機体が横転し、オーヴィルが肩を打った日もあった。

「もう、今日は終わりにしよう。風が悪い。」

「……いや、風は悪くない。俺たちの設計が、まだ足りないだけだ。」

そのたびに、兄は釘を打ち直し、弟は翼を縫い直した。

「いつまでやるんだろうな、僕たち。」

オーヴィルがぽつりと言った時、ウィルバーは小さく答えた。

「空を諦められるまでだ。」

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