空に遺したもの(全5話+エピローグ+あとがき)
ユーヒ&アイ
第1話
晴天の空だった。雲ひとつない青に、少年ウィルバーはまっすぐ目を向けていた。
その隣で、弟のオーヴィルが草むらに転がるようにして笑っている。
「兄さん、あれ見て! 鳥が逆さまだ!」
空には一羽のカラス。旋回しながら、風に乗ってくるくると姿勢を変えていた。ウィルバーは本を閉じて、無言でそれを見上げる。
「もしさ、あれみたいに飛べたらどうする?」
弟はそう言って笑いながら立ち上がる。小柄でやんちゃなオーヴィルと、痩せて背の高いウィルバーは、どこにいても兄弟だとすぐに分かる。
ウィルバーは答えない。ただその黒い影を、目で追っていた。
風が吹いた。草原がざわめく。
オハイオ州デイトン、1879年の春。空は高く、どこまでも続いていた。
*
教室では、今日も騒ぎが起きていた。
「オーヴィル・ライト!」
教師の声に、教室の空気がピリッと張りつめる。少年は一瞬だけ目を泳がせたあと、にかっと笑った。
「ごめんなさい、先生。ただ……絵を描いてただけです。」
教師は眉をひそめ、彼のノートをめくる。そこには、人が鳥の羽根のようなものを背負い、空を飛んでいるスケッチがいくつも描かれていた。
「こんなものを描いて、何になるというんだ。」
「人はいつか、鳥になるかもしれません。」
オーヴィルのその言葉に、教室はどっと笑いに包まれた。
「そんな馬鹿なこと言ってないで、君は自分の将来を真剣に考えなさい。」
教師はため息とともに、授業を再開した。
*
その日の夕食後、二人は部屋で宿題をしていた。
「聞いたぞ、オーヴィル。お前、先生に怒られたんだってな。」
ウィルバーは学業優秀で成績もよく、教師からの信頼も厚い。
まだ落ち込んでいたオーヴィルは「うん。」とだけ応えた。
「見せてみろよ、授業中に描いてた絵。」
オーヴィルはそのノートを取り出し、ぱらぱらとページをめくった。
「へえ。うまいもんだな。」
ウィルバーはノートの落書きを見ながら「うんうん。」とうなずいている。
絵を見終えたウィルバーは、一言だけ言った。
「次は、バレないように描けよ。」
二人は顔を見合わせ、そして声を出して笑った。
*
別の日の放課後、オーヴィルは校庭の隅にある納屋で、何やらこそこそと準備していた。
「兄さん、カエル持ってきた?」
「……本当にやるのか?」
ウィルバーは呆れ顔で小箱を渡す。中には近くの池で捕まえたカエルがちょこんと入っていた。
二人は紙風船の下に小さな籠を吊るし、そこにカエルを乗せてそっと風に放った。
最初の一機は、あえなく墜落。
2機目も、木に引っかかって破裂。
3機目。ふわりと浮かび上がり、空へと昇っていく紙風船。カエルが中で跳ねるたびに、オーヴィルは笑い転げていた。
だが、次の瞬間、教師の声が背後から飛んだ。
「何をしている! まったく君たちは……。」
その日の夕方、校長室の前でオーヴィルはしょんぼりとうつむいていた。
「兄さん、ごめん。俺がこんなこと誘っちゃったから。」
すると隣でウィルバーが言った。
「飛ばすには、風向きを見ないとダメだな。」
オーヴィルが顔を上げる。
「怒ってないの?」
「怒ってるよ。でも、きっぱりと止めなかった俺も悪いし――。」
「なにより――。」
ウィルバーはにかっと笑って、言った。
「面白かったな。」
二人は声を殺してくすくすと笑った。
そして、笑っているところを見つかり、――また怒られた。
*
その日、二人は父から不思議な贈り物を受け取った。
「これを見つけたんだ。フランスの技術者が作ったという玩具らしい。」
小さな箱の中に入っていたのは、竹の羽根と木の軸、ゴムで作られた奇妙なおもちゃだった。
「ゴムを巻いて、放すと……。」
ウィルバーが手本を見せると、それは空中にふわりと舞い上がった。
「すごい!」オーヴィルが叫んだ。
「ねえ、兄さん! これを大きくしたら、人間だって飛べるんじゃない?」
その瞬間、風が止んだ。
ウィルバーは目を見開いたまま、竹の羽根が地面に落ちるのを見つめていた。
「お前は本当に変なことを言うやつだな。」
そうつぶやいた。でも、その声にはどこか震えがあった。
竹のおもちゃが高く舞い上がる度に笑い転げるオーヴィルを見て、ウィルバーは微笑んだ。そして、二人で声を出して笑いあった。
それから、ウィルバーは勉強に没頭した。『弟の夢』を叶えるため、空を飛ぶ理論を学び始めた。父の書斎にある本を読み、学校の教師に話を聞いた。
ウィルバーのノートは見る見るうちに真っ黒になっていった。
オーヴィルは、勉強に打ち込むウィルバーを見て、『兄さんは空を飛びたがっている』と考えた。そして、それを手伝おうと決めた。
これが、それぞれの夢だった。
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