眠気と君と夢のはざまで
浅野じゅんぺい
眠気と君と夢のはざまで
眠い。
でも、今は眠ってはいけない。
この眠気に身を任せたら、あの朝の一瞬が、霧の向こうに消えてしまいそうで。
目を閉じた瞬間に、君の面影が遠のく気がして、怖いんだ。
*
白い天井。
冷たくて無機質なその視線の中に、僕は取り残されている。
夜の静けさは、時に残酷だ。
時計の秒針が、胸の鼓動と重なって、やけに響く。
眠れない夜は、記憶の海を漂う小舟みたいだ。
行き先もなく、ただ波に揺られているだけ。
君が残した風が、まだ胸の奥を吹き抜けていく。
誰かがいたことの証明なんて、こんなにも脆くて、切ないものなのか。
*
僕の人生は、波風のない湖みたいだった。
ほどほどの仕事。ほどほどの人間関係。
休日には、インスタントコーヒーと適当な映画。
静かで、平坦で、眠気すら心地よい日々。
そんな湖面に、小石を投げたのは、君だった。
毎朝、同じ車両に乗ってくる女性。
スマホを見ながらイヤホンを耳に差し込んで、いつも小さくうつむいていた。
ただそれだけ。
なのに、なぜか、目が離せなかった。
名前も知らない。声も聞いたことがない。
けれど、君は僕の“日常”の一部になっていた。
──無音の引力。
君という存在が、僕の風景をそっと塗り替えていった。
*
ある朝、君は突然いなくなった。
「いない」という、それだけの事実に、世界から音が消えた。
心の中の何かが、すーっと色を失っていくのを感じた。
翌日、君は戻ってきた。
けれど、何かが変わっていた。
髪が短くなっていて、目元に夜の痕が残っていた。
心の奥にしまいきれなかった涙が、まだそこに滲んでいた。
声をかけたかった。
大丈夫ですかって、言いたかった。
でも、僕の声は喉の奥で固まったまま、息にもならなかった。
*
そんな日々が、数日続いた。
君は相変わらずスマホを見つめていて、僕はただ、視線でその輪郭をなぞっていた。
──そして、ある朝。
いつものように乗ってきた君が、いつもと違う行動をした。
スマホを鞄にしまって、まっすぐにこちらを見た。
目が合った……気がした。
心臓が跳ねて、世界が静止する。
でも、次の瞬間、君はふっと目をそらして、ドアの方を向いた。
降車駅でもないのに。
……違ったのか。
ただの偶然。見間違い。
いや、たとえそうだとしても、あの一瞬で、僕はどうしようもなく君に近づいていた。
*
その翌朝。
君は、もう電車に乗ってこなかった。
*
眠気と焦燥が入り混じる中で、僕は必死に過去を思い出している。
なぜ声をかけなかった?
なぜ、あの目が僕を見た時に、何も言えなかった?
ふと、スマホのメモアプリを開いた。
そこには、昨日の夜、書きかけのまま保存されていた文章がある。
「あなたのこと、ずっと気になってました。
もしよかったら、少しだけ話をしませんか──?」
それは、送ることもできなかった“手紙”だった。
指先が震える。
今さら、何も届かないとわかっているのに。
でも、もしもう一度会えたなら──。
*
世界は、静かに、気づかれないほどの速さで、ずれていく。
感情はその“ずれ”の中に棲んでいて、僕らはそこで出会い、すれ違い、立ち止まる。
もしかすると、君も僕と同じように、誰にも言えない思いを抱えていたんだろうか。
それとも、あの一瞬の目線は、僕が見たかった幻だったんだろうか。
──ただ、今はもう、確かめる術もない。
*
眠い。
けれど、眠ってしまえば、君がどこかへ行ってしまう気がして。
だけど──
目を閉じる。
ふいに、頬に風を感じた。
あの車内の空気の匂い。
君がいたあの時間の、ぬるい朝の光。
もしかしたら、また出会えるかもしれない。
次は違う形で。次は、言葉にできるような距離で。
それが夢でも幻でもかまわない。
僕は、もうあの眠気に逆らわない。
──夢の中に、君がいる気がして。
眠気と君と夢のはざまで 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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