眠気と君と夢のはざまで

浅野じゅんぺい

眠気と君と夢のはざまで

眠い。

でも、今は眠ってはいけない。


この眠気に身を任せたら、あの朝の一瞬が、霧の向こうに消えてしまいそうで。

目を閉じた瞬間に、君の面影が遠のく気がして、怖いんだ。



白い天井。

冷たくて無機質なその視線の中に、僕は取り残されている。


夜の静けさは、時に残酷だ。

時計の秒針が、胸の鼓動と重なって、やけに響く。


眠れない夜は、記憶の海を漂う小舟みたいだ。

行き先もなく、ただ波に揺られているだけ。


君が残した風が、まだ胸の奥を吹き抜けていく。

誰かがいたことの証明なんて、こんなにも脆くて、切ないものなのか。



僕の人生は、波風のない湖みたいだった。

ほどほどの仕事。ほどほどの人間関係。

休日には、インスタントコーヒーと適当な映画。


静かで、平坦で、眠気すら心地よい日々。


そんな湖面に、小石を投げたのは、君だった。


毎朝、同じ車両に乗ってくる女性。

スマホを見ながらイヤホンを耳に差し込んで、いつも小さくうつむいていた。


ただそれだけ。

なのに、なぜか、目が離せなかった。


名前も知らない。声も聞いたことがない。

けれど、君は僕の“日常”の一部になっていた。


──無音の引力。

君という存在が、僕の風景をそっと塗り替えていった。



ある朝、君は突然いなくなった。


「いない」という、それだけの事実に、世界から音が消えた。

心の中の何かが、すーっと色を失っていくのを感じた。


翌日、君は戻ってきた。

けれど、何かが変わっていた。


髪が短くなっていて、目元に夜の痕が残っていた。

心の奥にしまいきれなかった涙が、まだそこに滲んでいた。


声をかけたかった。

大丈夫ですかって、言いたかった。

でも、僕の声は喉の奥で固まったまま、息にもならなかった。



そんな日々が、数日続いた。

君は相変わらずスマホを見つめていて、僕はただ、視線でその輪郭をなぞっていた。


──そして、ある朝。

いつものように乗ってきた君が、いつもと違う行動をした。


スマホを鞄にしまって、まっすぐにこちらを見た。

目が合った……気がした。


心臓が跳ねて、世界が静止する。


でも、次の瞬間、君はふっと目をそらして、ドアの方を向いた。

降車駅でもないのに。


……違ったのか。

ただの偶然。見間違い。

いや、たとえそうだとしても、あの一瞬で、僕はどうしようもなく君に近づいていた。



その翌朝。

君は、もう電車に乗ってこなかった。



眠気と焦燥が入り混じる中で、僕は必死に過去を思い出している。

なぜ声をかけなかった?

なぜ、あの目が僕を見た時に、何も言えなかった?


ふと、スマホのメモアプリを開いた。

そこには、昨日の夜、書きかけのまま保存されていた文章がある。


「あなたのこと、ずっと気になってました。

もしよかったら、少しだけ話をしませんか──?」


それは、送ることもできなかった“手紙”だった。


指先が震える。

今さら、何も届かないとわかっているのに。

でも、もしもう一度会えたなら──。



世界は、静かに、気づかれないほどの速さで、ずれていく。

感情はその“ずれ”の中に棲んでいて、僕らはそこで出会い、すれ違い、立ち止まる。


もしかすると、君も僕と同じように、誰にも言えない思いを抱えていたんだろうか。


それとも、あの一瞬の目線は、僕が見たかった幻だったんだろうか。


──ただ、今はもう、確かめる術もない。



眠い。

けれど、眠ってしまえば、君がどこかへ行ってしまう気がして。


だけど──


目を閉じる。

ふいに、頬に風を感じた。


あの車内の空気の匂い。

君がいたあの時間の、ぬるい朝の光。


もしかしたら、また出会えるかもしれない。

次は違う形で。次は、言葉にできるような距離で。


それが夢でも幻でもかまわない。

僕は、もうあの眠気に逆らわない。


──夢の中に、君がいる気がして。




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眠気と君と夢のはざまで 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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