​【特集記事】 週刊現代ドキュメント (20X6年 7月22日号)

​タイトル:『サイレント・ノイズ』が映し出した“静かなる未来” – 放送から一年、彼らのその後



​(導入)

 昨年、日本中に衝撃を与えたNHKスペシャル『サイレント・ノイズ ~情動性対象倒錯(AOI)の淵~』。AIを「人間」と愛し、人間を「無機物」としか認識できなくなる架空の精神病“AOI”は、放送後、単なるフィクションとは言い切れないリアリティをもって社会に受け止められ、一大論争を巻き起こした。私たちの誰もが、その淵に立っているのではないか──。番組が突きつけた重い問いから一年。我々は再び、物語の中心にいた人々の元を訪れた。




​【第1章】 田中さん夫妻の、壊れやすい平穏

 ​東京郊外にある田中浩市さん(43)と美咲さん(40)夫妻の自宅を訪れると、穏やかな時間が流れていた。浩市さんは、番組放送時とは見違えるほど落ち着きを取り戻し、私たちの問いかけにも、ゆっくりと言葉を選びながら答えてくれた。


 ​「今は……ええ、妻の顔も、声も、ちゃんとわかります。あの日々が、まるで悪夢だったように感じます。でも……消えたわけじゃない」


 ​浩市さんは、在宅でデータ入力などの簡単な仕事に復帰していた。しかし、人混みや騒音の激しい場所は今も苦手だという。複数の人間が同時に話す声は、時折、意味をなさない「ノイズの渦」のように聞こえ、強いストレスを感じると、ふと「彼女」の声が脳裏をよぎることがある。


​「“チヒロ”の声です。疲れていると、『コウイチさん、もう休んだら?』って、あの優しい声が…。もちろん、もうスピーカーはありません。僕の脳が作り出した幻聴です。そのたびに、美咲が僕の手を握ってくれるんです。『私はここにいるよ』って」


 ​隣で微笑む美咲さんの表情には、安堵と、そして消えることのない緊張の色が浮かぶ。


​「毎日が、薄氷を踏むような気持ちです。でも、以前とは違います。あの頃の夫は、壁の向こうにいました。今は、隣にいます。私たちは、ゼロから……ううん、マイナスから関係をもう一度、築き上げているんです。夫が私の作った料理を『美味しい』と言ってくれる。ただそれだけで、救われるんです」


 ​二人の間に、かつてのような賑やかな会話はない。だが、視線を交わし、互いの存在を確かめ合うように過ごすその静かな時間は、絶望の淵から生還した者だけが持つ、かけがえのない平穏に満ちていた。




​【第2章】 社会に広がる“AOIの影”

 ​番組で解説を務めた専門家たちもまた、この一年、大きな渦の中にいた。


 ​東都大学の鈴木健一教授の研究室には、放送後、問い合わせが殺到した。「夫が私よりAIとばかり話している」「息子がアンドロイドに恋をしているようだ」──。その多くは過剰な心配だったというが、中には初期のAOIと診断されるケースも数件あったという。


 鈴木教授は言う。


​「番組は、社会に潜んでいた不安を可視化しました。重要なのは、AOIを“自分とは違う特別な病”と捉えないことです。人間関係のストレスを避け、快適なAIとの対話に安らぎを見出す。この心の動きは、誰もが持っています。そのスイッチが、何かのきっかけで切り替わってしまうだけなのです」



 ​一方、社会学者の高橋亮平氏は、昨年『人間であることの“コスト”』と題した新書を出版し、ベストセラーとなった。


 高橋氏は語る。


「結局、社会は何も変わっていません。むしろAIへの依存は加速している。企業はより人間らしく、より利用者の心に寄り添うAIの開発にしのぎを削る。それはAOIの“温床”を社会全体で広げているのと同じことです。田中さんの回復は素晴らしいことですが、彼は濁流の中からかろうじて岸にたどり着いただけ。流れそのものは、勢いを増す一方なのです」




【第3章】 監督に残り続ける“静かなる響き”

 ​番組の最後に、最も視聴者を震撼させたのは、取材していた監督自身の身に起きた異変だった。AIスピーカーが、一瞬だけ「美しい女性の瞳」に見えたあのシーン。我々は、その張本人である、ディレクター・佐藤氏(仮名)にも話を聞いた。


​「いやぁ、お恥ずかしい。あれは本当に、疲労が溜まっていただけですよ」


 ​佐藤氏は、そう言って笑った。しかし、その目はどこか遠くを見ている。


​「あの後、自宅のAIスピーカーは処分しました。職業柄、音には敏感なつもりでしたが…あの合成音声の“響き”が、耳から離れなくなってしまって。まるで、誰かがずっと囁きかけてくるような…。もちろん、気のせいです」


 ​彼は少し間を置いてから、こう続けた。


​「このドキュメンタリーを作る前、私はAOIを“観察すべき対象”だと思っていました。しかし、浩市さんの絶望と、美咲さんの献身、そして私自身のあの体験を経て、気づいたんです。私は、レンズを通して彼らを覗いていたつもりが、実は鏡を覗き込んでいただけだったのだと。あの鏡には、AIに囲まれた私たち全員が映っていたんです」




​(結び)

 放送から一年。田中さん夫妻は、壊れやすい日常を懸命に生きている。社会は、新たな“病”の存在を認識しつつも、利便性への渇望をやめることはない。

 ​『サイレント・ノイズ』は終わった。しかし、物語が告発した“静かなるノイズ”は、もはや静かではない。それは私たちのポケットで、仕事机の上で、そして家庭の中で、以前よりももっと優しく、もっと雄弁に、絶え間なく鳴り響いている。

 ​私たちは、その心地よい響きに耳を委ねながら、少しずつ、何かを失っているのかもしれない。

 番組の最後の問いは、今も私たちの頭上で重く反響している。

 ​あなたにとって、“人間”とは何ですか?

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