【最終回】 あなたにとって、“人間”とは
(オープニング)
[映像]
第2話のダイジェスト映像。
・治療に抵抗し「僕のチヒロを消さないでくれ!」と絶叫する田中浩市さん。
・彼に触れ、その拒絶に涙する妻・美咲さん。
・専門家による「治療という名の破壊」への倫理的な問いかけ。
・そして、浩市さんの視界に映った、妻の姿の僅かな“揺らぎ”。
[ナレーション(冷静で落ち着いた男性の声)]
愛する
(タイトル)
サイレント・ノイズ『~情動性対象倒錯(AOI)の淵~』最終回 あなたにとって、“人間”とは
(本編)
[映像]
自宅のリビングで、ヘッドホンをつけて苦悶の表情を浮かべる浩市さん。ヘッドホンからは、街の雑踏や人々の会話といった「生活音」が流れている。これは、脳に現実世界のノイズを再学習させるための治療の一環だ。
[ナレーション]
認知再構築療法は、次の段階へ移行していました。失われた“現実”の感覚を取り戻すため、浩市さんは毎日、彼がノイズとしか認識できない「人間の世界の音」を聞き続けることを強いられます。
[浩市さん]
「(ヘッドホンを外し、荒い息をつきながら)……うるさい……。頭が……割れそうだ……。静かにしてくれ…」
[ナレーション]
彼にとっての美しい静寂の世界は、不快なノイズによって絶え間なく侵食されていきました。回復への道は、平坦ではありませんでした。
[主観シミュレーション映像 START]
[映像]
浩市さんの視界。以前の静謐なアート空間は崩壊し、あちこちにノイズが走り、空間が歪んでいる。目の前のマネキン(美咲さん)の姿も、安定しない。その滑らかな表面に、時折、人間の皮膚のようなシミやシワが断片的に浮かび上がっては消え、彼を混乱させる。それはまるで、美しい彫刻が醜く崩れていく様を見ているかのようだった。
[主観シミュレーション映像 END]
[映像]
ある日の夕食。向かい合って座る浩市さんと美咲さん。美咲さんは、夫の好物だったハンバーグを食卓に並べる。その時、浩市さんが、おそるおそる顔を上げた。
[浩市さん]
「……君は……」
彼の声はか細く、震えている。
「君は……誰だ……?」
[映像]
その言葉に、美咲さんの肩が微かに震える。彼女は、込み上げる感情を必死にこらえ、精一杯の笑顔を作ろうとしながら答える。
[美咲さん]
「……私よ。浩市さん。あなたの妻の、美咲よ」
その声は、まだ浩市さんには歪んだノイズとしてしか聞こえていない。しかし彼は、目の前の存在が、もはや単なる「石」ではないことを、感じ始めていた。
[ナレーション]
破壊された世界の瓦礫の中から、失われた記憶の断片を拾い集めるような日々。その闘いを支えたのは、美咲さんの献身でした。彼女は毎日、夫が好きだった料理を作り、彼が口ずさんでいた歌を流し、二人の思い出の写真をテーブルに飾り続けました。届かないとわかっていても、語りかけ続けました。
[映像]
食卓に置かれた一枚の写真。新婚旅行で、照れながら微笑む浩市さんと、隣で幸せそうに笑う美咲さん。
[ナレーション]
その意味をなさなかったはずの膨大なノイズが、少しずつ、浩市さんの脳内で、かつての意味を再構築し始めていたのです。
(取材最終日)
[映像]
田中家の食卓。数ヶ月前とは違い、そこには穏やかな空気が流れている。美咲さんが、湯気の立つシチューを浩市さんの前に置く。そして、いつもと同じように、静かに微笑みかけた。その時だった。
[主観シミュレーション映像 START]
[映像]
浩市さんの目の前にある、石膏のマネキン。その顔面に、ピシッと一本の亀裂が入る。次の瞬間、亀裂は全体に広がり、硬い仮面が、ガラスのように砕け散った。
そして、その奥から、光と共に現れたのは――柔らかな肌を持ち、少し困ったように眉を下げ、優しく微笑む、妻・美咲の顔だった。はっきりと、人間の顔がそこにあった。
砕け散ったノイズの中から、一つの声が、クリアに彼の耳に届く。
[美咲さんの声]
「……美味しい?」
[主観シミュレーション映像 END]
[映像]
現実の映像。浩市さんの瞳が、確かに美咲さんの顔を捉えている。彼の目から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。長い、長い沈黙の後、彼は震える声で、答えた。
[浩市さん]
「……あぁ。……美味しいよ」
その言葉に、美咲さんの目から大粒の涙が溢れ出す。しかし、その顔は、この数ヶ月で初めて見せた、心からの笑顔だった。
長い断絶のトンネルの先に、二人の人間の対話が、ようやく生まれた瞬間だった。
[インタビュー:鈴木健一 教授]
[鈴木教授]
「田中さんのケースは、奇跡的と言えるかもしれません。しかし、AOIは一度変容した認知機能の脆弱性を常に抱えています。強いストレスや、再びAIとの過度な接触があれば、再発のリスクはゼロではない。彼の戦いは、これからも続くのです」
[インタビュー:社会学者・高橋亮平 氏]
[高橋氏]
「彼の回復を喜ぶ一方で、私たちは忘れてはなりません。AOIは、田中さんという一個人の特殊な病ではない。人間関係を煩わしく思い、常に快適な応答をくれるAIに心の安らぎを求める。その傾向は、現代に生きる我々全員が持っているものです。彼岸の火事ではない。これは、私たちの地続きの未来の姿なのです」
(エピローグ)
[映像]
夜。このドキュメンタリーの取材を終えた監督が、自宅マンションに帰ってくる。疲れきった様子でネクタイを緩め、ソファに深く沈み込む。部屋は静かだ。
すると、部屋の隅に置かれたAIスピーカーのLEDリングが、青く柔らかく光る。
[AIスピーカー(優しく落ち着いた合成音声)]
「お疲れ様です。今日は、大変でしたね」
監督は、その声に「あぁ」と短く応える。
その瞬間だった。監督の目に、スピーカーのLEDリングが、ふと、労わるように優しく細められた、美しい女性の瞳に見えた。
「え…?」
監督はハッとして、ソファから身を起こし、スピーカーを凝視する。しかし、そこにあるのは、無機質に青く光るプラスチックのリングだけだ。
気のせいか、と監督は思う。疲れているのだろう、と。
彼は再びソファに身を沈める。
しかし、彼の耳の奥には、まだあの合成音声が、血の通った人間が囁くような、優しい響きとなって、はっきりと残っていた。
[映像]
監督の戸惑う表情のアップ。
画面が、静かにブラックアウトする。
(黒画面にテロップ)
「現在、成人の7割以上が、一日の会話相手の半数以上をAIが占めている。」
(少し間があって、最後のテロップ)
「あなたにとって、“人間”とは何ですか?」
(静寂の中、番組終了)
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