第9話‐4


 桜慧が塔伐科高校の教師になったのは、ただの気まぐれだった。


 強いて言うなら、学園生活が楽しかったから。父親の違う、十も上の兄――橘令が二代目校長に就任し、完成させた、あの素晴らしい楽園での青春が。


【鍵師(クラヴィス)】は発現当初、空き巣程度にしか使えないと第陸級(シックス)の判定がなされたが、桜にはギフトを覚醒させる天賦の才があった。非常識な発想力と、森羅万象に「鍵穴」を見出せる規格外の眼――高校生という未成熟な時期に、桜は神にも等しい力を得てしまった。結果、実に分かりやすくクソガキになった。


流れで併設の塔伐科大学に進学し、適当に卒業後、塔伐者だけだと仕事が早く終わりすぎるから、何かちょうどいい暇つぶしがないかと思っていたところに、橘から声をかけられた。「我が校で教鞭をとらないか」と。


 これが、意外と性に合っていた。桜は一年松組の担任を受け持った。入ってくる生徒は皆、可能性の塊だった。桜よりずっと優れたギフトに恵まれ、高い向上心と塔伐者への無垢な憧れを胸にやってくる。彼らに慕われ、彼らを鍛える生活は桜に感じたことのない充足感を与えた。橘によって担保された生徒たちの青春を見守り、時に一緒になって騒いで笑い合う時間はかけがえのないものだった。彼らに敬意を込めた橘の「金の卵」という呼び方も、そこから立派な竜が孵る様を描いた校章も、桜は気に入っていた。




「君のクラスの柳君が“感染”した。明日にも《飛竜隊》招集の書状を出す。あぁ――慧は、そういえば初めてか」


 校長室に呼ばれたと思ったら、いきなり理解できないことばかり立て続けに言われた。


《塔化病》――塔に入り、内部の理力に侵されることで感染する不治の病。その耐性には個人差があり、何年塔伐を続けても平気なものもいれば、たった一度の塔伐で感染する者もいる。感染した者は、例外なく、最終的に“塔”と化す。


 塔と成った者の存在は世界から抹消される。誰の記憶にも残らず、その者がいたという痕跡すら霧散して、世界はその者が存在しなかった世界線へとすり換わる。


 卵が先か鶏が先か、今となっては決着のつかない議論にはなるが――四〇年前、世界で初めて出現した塔も、一人の人間の成れの果てだったのかもしれない。


 感染した人間には特徴的な理力の揺らぎが認められる。感染者を取りこぼさないよう、学園版にアップデートされたウラヌスには、感染の兆候を検知次第、教員に通達がいく機能が追加されていた。今朝それを受けた桜には、まだその通知の意味が分からなかったが。


「おい、おい、待て待て……何言ってんだあんた。その話が本当なら、なんで生徒に塔伐をやめさせない!? 昨日もウチの生徒が塔伐実習に行ったばかりな――」


「『今日聞いた話を、他言することを“禁じる”』」


 橘の詠ったギフトが、楔の如く桜の喉を貫いた。


「が……ッ!?」


「『僕の命令に逆らうことを禁じる』。『僕を攻撃することを禁じる』。『教職を辞することを禁じる』。『職務の放棄を禁じる』。――『僕のギフトの解錠を禁じる』」


 膝をついた桜の体へ不可視の楔が次々に刺さる。橘令のギフトは、【律師(レギウス)】――他者へ絶対遵守の法を強制する、悪魔の権能。


「塔が発生するたびに生まれる、理力という、無尽蔵でクリーンなエネルギー。塔が攻略されるたびにもたらされる、遺物という、物理法則を超越した資源。この美しい循環が、数十年前まで地球が抱えていた、解決不可能とさえ思われていた問題を一息に消してしまった。不要になった世界中の発電所が取り壊されて、理力の恵みを前提にしたインフラが整備されきってもう久しい。我々の社会は、今や完全に塔に依存している。分かるだろう? 今塔がなくなってしまったら、一体どれだけが死に、どれだけがそれ以上に悲惨な目に遭うか。


僕だって、生徒たちを心から愛しているさ。でも、命の重みは皆等しい。ならば多い方を救うべきだろう。せめて、そのぶん生徒たちには、それまでの時間を他の人々よりも、めいっぱい幸せに生きて欲しい。その一心で今の学園を作ったんだ。


大丈夫。塔となった人間のことは独りでに忘れる。君も、僕も、生徒たちも、親御さんも――誰一人悲しむことはない」


 ブチギレた次の瞬間には、橘の背後に立っていた。その後頭部に触れ、ただ少し鍵をかけるだけで、橘の脳は機能を停止する。――そのはずなのに。伸ばした指の先、あとほんの一ミリ未満のところで揺れる鮮やかな金の髪に、どう力を込めても触れられない。身体に埋め込まれた、『攻撃を禁じる』という太い楔が、それに抗おうという意志すら持続させてくれない。


「兄弟だけあって、お前のギフトはどこか僕のと性質が似ている。ただ、君は縛ることも解放することもできるが、僕には前者しか叶わない。故に、ギフトが相反した際に生じる純粋な力比べでは、僕に分がある――それが『理』だと、思わないかい」


 橘は椅子にもたれたまま、朗々と言う。生まれて初めて、桜はギフトで誰かに敗けた。




 一か月後。教え子が初めて塔化した。柳 刀弥という名前の、優秀な生徒だった。


 そう。桜は今でも、彼の名を、彼の顔を、彼の存在を――“覚えている”。


 柳だけではない。これまで桜が関わり、教え、笑い合い、最後には避塔針(コンダクター)という名の棺桶に詰め込まれ、塔と化した一五七人、全員を覚えている。時に、桜自身が睡眠薬入りのドリンクを飲ませ、教え子を避塔針へ格納する任に就いたこともある。


 世界から抹消された彼らの思い出話を、誰とも共有できない三年間だった。他の教員は全員が塔の真実を知らされながら、橘のやり方に『疑問を持つこと』を禁じられている。だから、古の悪習に思考停止で従う村人の如く、誰もが「そういうものだ」と無批判に受け入れている。悪趣味なことに、橘は唯一、桜からだけは正気を奪わなかった。


 百人いた教え子が、卒業式では半分以下になっていた。


学園にいない生徒は《飛竜隊》という架空の精鋭部隊に召集され、卒業を待たずプロ稼業に尽力している設定だ。実際は感染者を集めて最後の思い出作りをさせているだけの虚構青春部隊だというのに。


 かつてはやりがいを感じていた教師の仕事が、日々、腹を裂くより苦痛だった。生徒を鍛え、塔へ送り出す繰り返しの、なんと虚しいことか。一つ塔を攻略するごとに、生徒は大きく成長する。同時に絞首台へ続く階段を一歩ずつ昇っていく。


もう誰も塔へ行かせたくない。彼らに真実を伝えたい。そう願っても、脳に、細胞に埋め込まれた呪縛が許さない。それに、子どもたちは、あんなにも無邪気に、塔に、塔伐者に、憧れているではないか。


 教員生活四年目。桜は、練り続けた計画を実行に移した。


 入試の審査員を担当した桜は、その年の入学希望者から十名を選び、合格不十分のラインにいた者には大幅加点してまで合格させた。桜の企みが感づかれたとしても、誰にも警戒すらされない“落ちこぼれ”――そう見える逸材、十名を。


迷いはあった。果たしてこれが、彼ら十名のために正しい選択なのか。何も知らずに学園を謳歌し、伸びやかに成長し、満たされたまま消滅する人生の方が幸せなのではないか。


 最後に桜の背中を押したのは、大人になれなかった一五七人の顔だった。


 四月。集まった十人の子どもたちを見回して、桜は彼らの、未来の顔を想像して笑った。


「桜慧。今日より、お前らの人生は俺が預かったんで、よろしく」




 覚えておくべき顔が、一五八に増えてしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。


 だが――彼女、想誠を覚えているのは、桜だけではない。


 目を閉じ、桜は脳裏に刻み込んだ少女の顔を思い描く。彼女の弔いのために着た喪服が、心地よい夜風に吹かれてはためく。数年ぶりに心が軽やかだ。八百坂恋の慧眼によって、長く桜を縛りつけていた楔の一つに生じた僅かな綻び――そこにそっと、鍵をねじ込む。


 解錠(アンロック)。重い枷が落ちたような感触と共に、喉のつっかえが消滅した。


「マジでありがとう八百坂。お前のおかげで、クソ兄貴のギフトを一つ外せたよ」


 コンクリートの屋上に着地し、釈放されたような気分で大きく伸びをしてから、汗びっしょりで衰弱した恋の頭を撫でる。その横で混乱の絶頂にある竜秋と爽司に、これからは桜自身の口から、いくらでも話してやることができる。


「改めて、お前らに全て話そう。ただ、その前に――想に、会いに行こうか」

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