第6話 声をなくした少女

「椿は……自分の声で話すのが苦手な子だった」


その言葉が、玲司の口からぽつりと零れたのは、沈黙が長く続いたあとだった。


「喉が悪かったんですか?」


「違う。声は出た。普通に話せる。だけど……彼女は、人の期待に応えるセリフでしか喋れなかった」


「……役を演じるように?」


「そうだ。誰にでも、望まれる自分を演じてた。

 家庭では優等生の娘を。学校では聞き分けのいい生徒を。

 感情を、押し殺して生きてた。

 本当の自分の気持ちなんて、誰にも知られないまま」


玲司の声は静かだった。

怒っているわけでも、嘆いているわけでもない。

ただ、それは長い時間をかけて沈殿した哀しみのようだった。


遥はふと、自分自身に重ねていた。


(私も……)


期待に応えたくて。

認められたくて。

本当は言いたかったことを、ずっと飲み込んできた気がする。


でも――その沈黙の中で、言葉を持たないまま、彼女は物語を書いていた。

誰にも言えない想いを、物語に託して。


玲司が初めて見せてくれた、椿の原稿のコピー。

その一節が、遥の胸に深く残っていた。


「誰かの希望になることが、私の人生の救いだった。

 でも、私は本当は、誰かにただ隣にいてほしかっただけなんだ」


それは、誰にも届かなかった手紙のようだった。

役を終えても、拍手はなく。

幕が降りたあとの舞台に、ただ一人残されるような。


 


数日後。

遥は、椿の足跡を追って、彼女が通っていた地元の図書館を訪れた。

玲司と彼女が最初に出会った場所――脚本学校はすでに閉鎖されていたが、図書館には過去の講座記録が残っていた。


「南雲椿……」

名簿の隅に、細い文字でそう記されていた。


住所欄は空白。電話番号もない。

まるで最初から残さないつもりだったように。


「……本当に、どこにもいないんだね」


その声に、ふと返事があった。


「椿さんを探してるの?」


驚いて振り返ると、そこには一人の女性職員が立っていた。

年の頃は五十代半ばくらい。

控えめな笑みを浮かべながら、遥に近づいてきた。


「彼女のこと、知ってるんですか?」


「ええ、少しだけ。私が講座の記録係をしてた頃……よく見かけたわ。彼女、ノートを誰よりも早く取り終えて、いつも帰り際に本を一冊借りてたの」


「……何の本ですか?」


「決まって戯曲だった。チェーホフ、イプセン、三島。

 その子、たぶん誰よりも演じることが生きる術だったんだと思う」


遥は黙って頷いた。


「椿さん……今、どこにいるか、ご存じですか?」


その問いに、女性はしばらく黙ったあと、そっと口を開いた。


「最後に見かけたのは、十年ほど前。図書館の返却ボックスに、小さな冊子が入っていたの」


「冊子?」


「ええ。原稿用紙をホチキスで綴じた、たった十枚の物語。

 それが、彼女からの最後の投稿だったのよ」


遥の心臓が、静かに跳ねた。


「その物語……まだ残っていますか?」


女性はしばらく考えたあと、笑った。


「ええ、運がいいわね。図書館の匿名作品箱に今も保管してあるわ。読んでみる?」


 


その瞬間、遥は思った。

この物語は、玲司だけのものじゃない。

椿が生きた証であり、伝えようとした声。

そして、それを拾い上げることが、遥の役割なのだと。



一歩ずつ、光に向かって。

彼女のさよならの意味を、知るために。

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