第5話 彼女の名前
翌日、遥は編集部に戻った。
パソコンの前に座りながら、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
玲司の話が、頭から離れなかった。
「彼女は、俺の物語の最後を書き残して、いなくなった」
「彼女には、帰る場所がなかったんだよ」
その言葉が、遥の胸に刺さっていた。
もし、その彼女がまだ生きているなら。
もし、彼女の言葉があの脚本に刻まれていたのなら。
その続きを書くには、彼女のことを知らなければならない。
(彼女の名前を……知らないと)
玲司は、あえて名前を言わなかったのか。
それとも、本当に口に出せないほどの重さがあったのか。
どちらにしても、遥は調べる必要があった。
彼が語らなかったページを、自分の手で開くために。
「遥さん、昨日はどうだった? 例の脚本家さん」
後輩の美咲がコーヒー片手に話しかけてくる。
「……会えたよ。朝倉玲司さん。話も、少しだけだけど聞けた」
「ええっ、本当に!? あの伝説の脚本家って呼ばれてた人でしょ?」
「今は、もう筆を折ってる。……理由があるみたい」
遥は、玲司のプライバシーを守るように言葉を濁した。
「その、彼の最後に書いた脚本の中に、実在した少女がいたの。
その子が、物語の核になってる。私はその子のことを調べたい」
「……協力するよ」
美咲は、迷いなく言った。
「私たち、編集者でしょ? 物語を掘り起こすの、得意分野だもん」
遥の胸が、少しだけ軽くなった。
誰かが味方でいてくれる。そう思えることが、心強かった。
それから数日、遥と美咲は地道な調査を始めた。
玲司がかつて教えていた脚本学校、交流のあった団体、業界紙の古い記事。
一枚一枚、時間の奥に埋もれていた資料をめくっていく。
その中で、ふと目に止まった一枚の写真。
白黒の集合写真。
脚本学校の授業風景だ。
その中に――いた。
他の誰とも違う、目をしていた少女。
静かで、でも強く、何かを訴えるような眼差し。
その横に、手書きの名前があった。
南雲 椿(なぐも つばき)
遥の指先が、ぴたりと止まる。
椿――それが、彼女の名前。
玲司が語らなかった少女。
彼の人生に深く残り、物語の最後を託して消えた存在。
遥は、その名前を心の中で繰り返した。
何度も、ゆっくりと。
「南雲椿さん……あなたは、今どこにいますか?」
その夜、玲司の家を再び訪ねた遥は、彼に写真を見せた。
玲司は、静かに視線を落とすと、しばらく口を開かなかった。
タバコも火をつけず、ただ黙って見つめていた。
そして、わずかに唇を動かした。
「……よく、見つけたな」
「南雲椿さん。あの物語の彼女ですよね?」
玲司は、微かにうなずいた。
「椿は……俺に、最期のシナリオをくれた。
自分のことを、役として生きる子だった。
最後まで、人のために台本を書き続けた。自分の命を使ってな」
遥は、静かに問いかけた。
「彼女は……亡くなったんですか?」
玲司の目が、わずかに揺れる。
しかし、彼は答えなかった。
「――話は、また今度だ」
そう言って、玲司は立ち上がった。
その背中はどこか寂しげで、そして、どこか懐かしさをまとっていた。
遥は、その姿を目で追いながら、心の中で確信する。
この物語には、まだ語られていない真実がある。
玲司も、椿も、誰にも言えなかった秘密を抱えている。
そしてその秘密は、遥自身の人生とも、どこかで静かにつながっている――
そんな予感があった。
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