第2話 ささやかな日常


 私がアシェン様に初めて会った時。それは、彼が騎士団長としてその名を知られるずっと前、まだ彼が一介の若い騎士だった頃だった。


 私は昔から、病のこともあってあまり人前に出ることを好まなかった。ある冬の日、城内で火事が発生し、その火は図書室にも襲ってきた。人々がパニックになり、我先にと逃げ惑う中、私だけは貴重な古文書を守ろうと、炎と煙が迫る書庫の奥へと駆け込んだ。しかしすぐに煙に巻かれ、意識を失いかけた。

 その時、朦朧とする意識の中で。私を抱え上げる、力強くも優しい腕を感じた。


「大丈夫か!」


 凛とした、どこか焦りの混じった声が響き、私は必死に目を開いた。そこにいたのは、煤で顔を汚しながらも美しさを損なわない、銀色の髪と真っ直ぐな青い瞳が印象的な、見知らぬ若い騎士だった。

 そして、彼は意識を失った私と古文書を抱え、炎と煙の中を迷うことなく進み、安全な場所へと運び出してくれたのだ。



 私が意識を取り戻した時。既に火は消し止められ、周囲は騒然としていた。私を救ってくれた騎士は、何事もなかったかのように、人々の救助に駆け回っていた。その時、私は彼にきちんと礼を言うこともできず、ただ遠くからその姿を見つめることしかできなかった。


 後になって、沢山の偉業を成し遂げて、あの時の若い騎士が、「第一騎士団の若き英雄」と呼ばれるようになった。彼は常に冷静で、感情を表に出さず、皆から畏敬の念を抱かれる存在となっていった。

 しかし、私にとっての彼は、いつまでも変わることなく、あの日炎の中で命を救ってくれた光だった。

 


 翌日。私は図書室の前に立っていた。朝一番の執務が始まる時間に合わせて、アシェン様がここを通ることを知っているからだ。


 やがて、廊下の奥から、規則正しい足音が聞こえてくる。アシェン様だ。彼は今日も、寸分の乱れもない騎士服を完璧に着こなし、凛とした佇まいで現れた。


「アシェン様、おはようございます! 今朝のアシェン様も、ため息が出るほどお美しいですね! 私の心臓が止まりそうです!」


 ルーナは満面の笑みで、少し大げさに胸を押さえてみせる。

 アシェン様は一瞬だけ足を止め、私に視線を向けた。その瞳には、いつものように感情は宿っていない。


「……心臓が止まるのは困る。執務に支障が出る」


 そう言って、興味を失ったように私から目を逸らした。


「ご心配ありがとうございます! アシェン様のお顔を拝見するだけで、私の生命力は満タンになりますから!」


 私がそう言うと、アシェン様は小さく鼻を鳴らしたように見えた。そして、何も言わずに廊下の奥に歩いていく。


「ふふっ」


 私は満足げに笑った。今日のアシェン様も、期待通りの塩対応だ。



 すると、廊下の隅で一部始終を見ていた騎士たちが、笑い声を漏らした。


「団長も大変だな、毎日毎日」

「だが、あの図書室の嬢ちゃんも、懲りないというか、元気というか」

「まあ、団長の周りで、あんな風に話しかけられるのは、あの嬢ちゃんくらいなもんだ」


 彼らの声は、私の耳にも届いている。最初は奇怪なものを見るような視線を送っていた彼らも、今ではこの日課を、どこか微笑ましく見守ってくれているようだ。

 私は彼らの視線に気づかないふりをしながら、図書室の中へと入る。


 今日も、アシェン様と話せた。なんて幸せなことだろう。

 図書室に戻り、いつものように古文書の整理を始める。指先で紙のざらつきを感じながら、私は考える。


 明日は、訓練場に行ってみよう。剣を振るうアシェン様は、きっともっと格好いいだろうな。

 


 私の体は、少しずつ、確実に自由を失いつつある。昨日よりも、ほんのわずかだが、集中力が続かなくなっているような気がした。それでも私の心は、アシェン様に会えるという喜びで満たされていた。


 夕食時。食堂で他の職員たちと食事をしていた私は、ふとアシェン様が騎士たちと談笑している姿を目にした。普段は冷徹な彼が、珍しく口元を緩めている。


 ——ああ、あんな表情もするんだな。


 私は彼のその一瞬の表情を、心に焼き付けた。

 残された時間の中で、一つでも多く、彼の様々な姿を見ておきたい。

 

 それが、私のささやかな願いだった。

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