掬えぬ報せ

 午後一時前。

 内務省政務室の空気は、朝とは違った温度に染まっていた。


 机上には、新たに届いた数通の報告書。封筒の綴じ糸は切られ、折られた紙面に、関係各所の記録とやり取りが詰まっていた。


 村岡は、報告を一つひとつ無言でめくっていく。


 ⸻


「まず、外務省からの続報です」


 補佐官が手渡したのは、大使館との協議経過をまとめた報告だった。


「ロシア大使館側、十三日午後三時時点で退院方針を決定。

 現地主治医・ロシア随行医師の意見に基づき“静養先への移動が望ましい”と判断。

 外務省には十三日夜に非公式通達あり。

 退院は“閣下ご自身の強い希望によるもの”とされ、外交的礼儀上、日本側は異議を述べず」


「……つまり、日本政府の関与は形式的で、事実上の通告だけだったというわけか」


 村岡は声を低くした。


 ⸻


「宮内省との連絡もありました。閣下の退院には、天皇陛下の御沙汰は関わっておりません。むしろ、宮中としても“もう一日静養されると聞いていた”とのことです」


「だとすれば……退院は、予想を超えていた。いや、すべての予定を押し流した」


 村岡は椅子に深く腰を下ろし、顎に手を当てた。


「政治の思惑も、報道の波も、いまや“保護された皇太子”という軸を失った」


 ⸻


 報告はさらに続く。


 ・外務省政務課では「異例の早期退院」との内部評価。

 ・神戸港にての出航準備が加速している。

 ・各新聞社はまだ退院の報を得ていないが、午後の便で京都支局には届く見込み。

 ・ロシア大使館からの公式説明は“準備中”とされる。


 村岡は、机の上の資料を束ねて言った。


「この午後から――すべてが“新しい段階”に入る。津田の処遇も、報道の論調も、世論も、だ」


「方向は?」


「我々が決めねばならない」


 ⸻


 その時、扉の外で足音がした。政務記録係が声をかける。


「本日午後三時、外務省にてロシア大使館との非公式協議が設けられるとの報。参加は外務省次官と政務官、警視庁より局長、そして内務省は――」


「私が行く」


 村岡はすぐに答えた。


 ⸻


 脈が早い。

 指先が、朝よりわずかに震えていた。


 退院は「好転」ではない。

 それは、何かが「切り離された」ことを意味する。


 そう――まるで、日本から、何かがふいに遠ざかっていくような感覚だった。


            *


 1891年(明治24年)5月14日 午後三時

 外務省庁舎・政務会議室


 広間の空気は冷ややかだった。


 午後の陽光が窓枠を照らす中、長い会議机の中央には数枚の覚書と、無言の茶器。

 外務次官・石井菊次郎の席に、村岡は静かに着いた。

 その対面には、ロシア帝国大使館の書記官カール・デ・グーヴィチン――先方の窓口とされる人物が控えていた。


 通訳が控えるのを待ち、石井が開口した。


「本日は、十三日午後の閣下ご退院と、それに続く事態の確認のための協議と承知しております」


 グーヴィチンは、長い睫毛を伏せたまま頷く。


「まずは、皇太子閣下のご回復に対し、あらためて祝意を。

 我が国の医務官の所見としても“安静下において、移動に差し支えなし”との判断が出ております。よって、閣下の御意向に基づき、十三日午後三時、静養地へのご帰還となりました」


「ご帰還とは――現在は、神戸のロシア領事館に?」


「正確には、同領事館に設けた臨時宿舎です。出航日程については、現在調整中」


 村岡は、その言葉の奥に含まれる示唆を読み取った。


(つまり、“出航の準備”が、いよいよ実働段階に入った)


 皇太子は治ったのではない。

 退いたのだ――静かに、しかし確実に、日本から。


 ⸻


 石井がやや身を乗り出した。


「我が方としては、事前の正式な通達を受けておらず、これを“退院”とする判断には驚きを禁じ得ませんでした。皇太子閣下の安全確保は、我が国にとって最大の責務であります」


「その点、我が国も充分に理解しております。日本側の丁重な配慮と警備体制に対しては、皇太子閣下よりも謝意が表されております」


(……だが、謝意の言葉で、すべてが済むわけではない)


 村岡は心中でそう呟いた。


 ⸻


 会議の終盤、石井は意図的に問いを投じた。


「一つ、率直に伺います。閣下ご退院に際し、我が国から“誰か”にご相談がありましたか? たとえば宮中や、政府高官に」


 グーヴィチンは、微かに口元を緩めた。


「閣下の意思は強く、あらゆる意見を聴取した上での“独断”に近いものでした。

 ですが、それはご自身の回復と、日本への敬意によるものであると理解しております」


 石井と村岡は、互いに短く視線を交わした。


 敬意、か。

 ――その言葉に、どこまでの真実が含まれているのか。


 ⸻


 協議は、予定時間を少し過ぎて終了した。

 退出するロシア側使節を見送りながら、村岡は声を落として言った。


「……静かに、だが確実に、“舞台”が畳まれつつある」


 石井は頷いた。


「これで“猶予”はなくなった。裁きを、出航前に見せなければならない。

 新聞に先を越されれば、日本の外交は終わる」


 その言葉に、応えるように廊下の奥で靴音が響いた。

 報道課から、新たな記事草稿が届いたという。


 波は、押し寄せている。

 紙面の先にある世論の海が、今にも崩れ落ちる予感とともに――。


(続く)




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