早暁、退院す
午前七時過ぎ。
内務省政務室の扉が、報せとともに静かに開かれた。
「……来ました。今朝六時三十三分付、外務省経由の電報です」
手渡された用紙は、折り目の皺もまだ固い。
村岡は無言で受け取り、そこに記された数行の電文を目で追う。
「皇太子閣下、退院。経過良好。十三日午後、宿舎へご帰還。ロシア大使館、これを確認済」
文字数は少ない。
だが、意味するものはあまりにも大きかった。
(……退院、したか)
病院にいたあの「負傷した皇太子」は、もはや“保護されている被害者”ではなくなる。
その身を移すということは、外交的にも“次の段階”に進んだことを意味していた。
しかし同時に、村岡の胸には思わぬ違和感が重くのしかかった。
(こんなに早く……本当に大丈夫なのか?)
皇太子が退院するには、あまりにも速すぎる。
負傷の重さを考えれば、回復にはなお時間を要するはずではなかったか。
情報の向こう側に、何か計り知れぬ圧力が働いているのではないか。
目の前の電報を、村岡は再びじっと見つめた。
呆気に取られたとはまさにこのことだった。
「この情報、いまどこまで?」
「外務省内で第一次展開。大臣、次官筋には報告済です。新聞各社は、まだ知らぬ筈です」
村岡は頷いた。
対応の順序を組み立てながら、書棚から前夜の報告文案を引き抜く。
「今日中に、世論がまた一段階、動く。問題は――どちらに向けて、動かすか、だ」
そしてつぶやいた。
「……これで、“津田”の処遇が、いよいよ待ったなしになる」
**
扉の外では、次々と報告を携えた職員が待機していた。
報道、司法、宮内、そして大使館筋――
各線が結ばれ、圧が一点に集まってくる。
村岡は、指でこめかみを押さえる。
退院。それは「快復」ではあっても、「赦し」ではない。
そのことを、どこまで国民が理解してくれるのか。
あるいは、どこまで、政治が制御できるのか――
日が昇る。
情報が広がる。
そのすべてを、受け止める用意はできているか――
今日という日が、静かに、始まっていた。
*
村岡はすぐに内線電話の受話器を手に取った。
「外務省、担当の者か。今朝の電報を受けたが、皇太子閣下の退院に関して、そちらで詳細な状況の把握はできているか?」
受話器の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。
「はい。先ほど大使館から正式に確認を取りました。経過は良好との報告でございます。ただ、迅速な退院については現地事情により不自然さも否めず、我々も注視しております」
「その点はこちらも同様だ。何か異変や追加の情報が入り次第、即座に連絡を頼む」
「承知いたしました。こちらも本件を最重要課題として扱っています」
村岡は受話器を置きながら、ふと窓の外を見る。
曇り空の向こうで、太陽がゆっくりと昇り始めていた。
(事態は確実に次の段階へ動いている――だが、果たして誰が、この先を制御できるのか)
重苦しい覚悟を胸に、村岡は次の指示書をまとめ始めた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます