焦燥の指令
内務省庁舎の重厚な扉の向こう、政務課の一室にて。
村岡は机に散らばる報告書の束を前に、眉をひそめていた。
「報道統制の継続は限界に近い。各紙の社説は次第に硬化し、議会の圧力も強まっている」
村岡は静かにそう呟き、手元の電報を何度も読み返した。
「ただ、混乱を避けるためには今が正念場だ……」
重い決断を胸に秘め、彼は政務課の職員たちに指示を出す。
「全省庁へ、情報管理と報道統制の強化を徹底せよ。決して油断するな」
外の廊下からは、遠くでざわめく声が聞こえた。
まるで時代の波が、内務省を押し流そうとしているかのようだった。
村岡はふと窓の外を見つめる。
灰色の空が広がる京の街は、静かながらも不穏な空気に包まれていた。
「この国の未来を、守らねばならぬ――」
彼の瞳は強い決意を宿していた。
村岡が政務課の一角で自ら手を動かしていると、職員が慌ただしく駆け込んできた。
「村岡課長、ただいま滋賀県警からの続報が届きました。津田巡査の取り調べ記録と、ロシア側随員の負傷者氏名、診断書の写しも含まれています」
「机に置いてくれ」
村岡は顔を上げずに応じ、目の前の文書を整える手を止めない。その間にも、背後では複数の電信技師が短く声を交わし、受信したばかりの新たな電報を整理していた。
しばらくして、彼は新たに届いた報告を手に取り、無言のまま読み始めた。
――津田は供述において、明確な動機を語っておらず、精神の錯乱が疑われる。
――現地での証言によれば、凶行はわずか数秒の間に起こり、随行していた大津警察署員らも間に合わなかった。
――負傷者のうち、副官ドラジンスキー中尉は左腕に裂傷を負い、現在療養中。皇太子の容体は安定しているが、面会制限が継続中。
「……これが、我々の出すべき“真実”か」
村岡は低く呟いた。
資料には冷静な筆致で、事実の羅列があった。しかしそこにあるのは「説明可能な現実」ではなく、「外交上の泥沼」だった。
彼は立ち上がり、課の責任者机に向かう。そこでは同僚が、報道各社からの照会文書を束ねていた。
「日報の最終稿は今夜六時。外務にも写しを送る。滋賀県からの供述調書の要旨は二段落目に組み込め。だが、“錯乱状態”という表現は控えろ」
「控える、というと?」
「“容疑者は動機を語らず、供述は錯綜している”……程度に留める。事実の提示に徹しろ。主観を排するんだ」
「はっ」
職員が引き取った瞬間、また別の声が飛んだ。
「警視庁より、議会筋からの照会について回答を急げとの連絡です。大臣からの承認がまだ――」
「大臣は午後、官邸会議の予定がある。外務・宮内との合同。書類は副官へ回せ」
村岡は疲労を感じさせず、手際よく答え続けた。
頭では把握している。これ以上、個人では処理しきれぬことも。
だが、崩れるわけにはいかない。いまこの政務課が揺らげば、官僚機構そのものが傾く。
村岡は小さく息をついて、ペンを取った。
いま、政府が“説明責任”を果たすその第一歩として、
彼の書く数行の文言が、未来の形を左右するかもしれなかった。
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