閉ざされた門と揺れる声
1891年(明治24年)5月13日 午後四時頃 大津警察署前
川辺は、街角から見上げるようにして警察署の建物を見た。
古びた瓦屋根、白壁の二階建て。だがその外観とは裏腹に、どこか重々しく、閉ざされた空気が漂っている。
彼の手には、取材許可を求める内務省や新聞社からの書面が握られていた。
しかし、その紙切れが役に立つかどうかは分からなかった。
重い木製の玄関扉は閉ざされており、鉄製の格子窓からは警察官たちの厳しい視線が向けられていた。
「すみません、記者の川辺と申します。今回の事件について、取材の許可をお願いしたく……」
川辺は扉の前で声を張った。
だが、扉の向こうから出てきた署の中堅職員は、即座に眉をひそめる。
「君、新聞社の者か?」
「はい、読売新聞の者です」
「現在の状況では、外部の者が署内に入ることは認められていない」
川辺は息をのんだ。ここが壁だと感じた。
「国民に真実を伝えるのは我々の責務です。少しでも状況を把握し、報じることで世の混乱を防ぐこともできるのではないですか?」
しかし、男は冷静に言い放つ。
「申し訳ないが、命令は命令だ。今は全ての情報が内務省を通じて管理されている。君たち記者の取材など、混乱を招くだけだ」
川辺は目を伏せた。理解はできる。だが、手がかりを掴めずにいる苛立ちも募った。
その時、署の指導員風の年配の男が現れ、静かに口を開いた。
「条件付きなら許可しよう。ただし、我々の監督下での取材に限る。取材内容は必ず事前に提出し、確認を受けねばならん」
川辺は間髪入れずに答えた。
「ありがとうございます。こちらとしても誠意を持って対応します」
緊張の糸は一瞬緩んだが、同時に重い現実も感じた。
「これが今の日本だ——」
川辺は深く息を吐き、警察署の中へと足を踏み入れた。
*
警察署内の廊下はひんやりと冷たく、硬い足音がこだました。
川辺は署の指導員に付き添われながら、複数の部屋を巡った。
どの部屋も重苦しい空気に包まれ、資料が整然と積まれているのが目に入る。
だが、口を開く者は少なく、訊ねても壁のような対応ばかりだった。
「事件の全貌を明かすことはできません。上からの指示で、極秘の扱いです」
警察官のひとりはそう答え、視線をそらした。
それでも、川辺は諦めずに食い下がった。
「少なくとも、現場の状況や当日の様子を知りたいのです。市民の声も取り入れて正確に伝えたい」
指導員はため息をつき、しばらく沈黙したのちにぽつりと言った。
「わかった。取材できる範囲は限られるが、案内しよう。ただし、こちらの指示に従い、話す内容は必ず確認を受けること」
川辺は感謝の言葉を述べ、同行を許された。
⸻
警察署を出ると、川辺は現場近くを歩いた。
家々の軒先に声をかけ、住民の表情を探る。
要約するとこうだ。
「皇太子様が来られると聞いて、街はざわめいていました」
「巡査は普段は温厚で知られていたのに……あんなことをするなんて信じられない」
言葉を濁す者も多く、警察の口止めを恐れているのが分かる。
川辺は静かにメモを取りながら、事実と感情の交錯を感じ取った。
「この声もまた、記事の一部になる」
⸻
その夜、宿に戻った川辺は明かりの下でペンを走らせた。
取材で得た断片的な情報を整理し、次に送る記事の草稿をしたためる。
だが、言葉にできぬ重みが胸にあった。
まだ書けぬ、しかし記録し続けねばならぬ真実がそこにあった。
手帳のページをめくりながら、川辺は自らに言い聞かせるように呟いた。
「書けぬ記事、書く手帳——これが今の僕の仕事だ」
(続く)
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