声の前線
明治二十四年 五月十二日 午前十時三十五分
政務課に戻ると、村岡はすぐに室内を見回した。朝よりも空気がざわついている。連絡の使いが増え、若い職員の筆が小さく走る音が混じっている。
文書課との調整は済んでいるか? 報道各社の出入りは止まっているか? いま、情報はどこまで共有されている――?
「村岡様、滋賀から続報が入りました」
若い事務官が手渡してきた電報には、津田三蔵の取り調べ記録の要旨、大津署への面会要請の殺到、そしてロシア随行員の1名が医師に暴言を吐いた件が簡潔に記されていた。
情報の断片が、複雑な絵図を形づくっていく。
「……この件、すぐ大臣秘書官にも回せ。報道向けには伏せる。だが、ロシア公館に伝われば外交の火種になりかねない。医師の証言も押さえておいてくれ」
「はい」
政務課の奥、窓際の自席に戻ると、村岡はすぐに“夜間体制”の覚書を引き寄せた。
内務省、外務省、警視庁、そして滋賀県庁。
すべての連絡線を夜通し維持するには、各部局の当番調整と警視局との連絡系統を再確認せねばならない。
ふと手が止まる。机上の一枚、「報道対応」の冒頭に線が引かれていた。
『各新聞社は内務省報道課との応対を拒否。現場情報への独自接触を試みる傾向あり。数紙は警察筋からの“抜け”を疑う動き』
――焦っている。記者たちも。
昨夜の通達で封じた報道陣は、すでにじわじわと圧力を帯び始めていた。
このままでは、情報の漏洩と混乱が重なる。
「小島くん!」
「はい!」
「きみ、報道課と警視庁広報係の間に入って。記者の出入り口にひとつ、“告知”を貼り出してくれ。滋賀からの報告をもって、明日の正午をめどに“見解”を整理中と――」
「正午、ですか?」
「目安でいい。だが、筋を見せる必要がある」
記者を敵に回すな。だが、味方にもできない。
村岡は自分の手元にある“報告線”と“封鎖線”の地図を見比べ、指で一つ一つ、要点をなぞった。
*
明治二十四年 五月十二日 午後四時二十分 内務省・政務課室内
村岡は、机上の書類を手短に整えると、近くに控えていた若い事務官に声をかけた。
「山根君、午後五時に再度、警視庁からの報告を上げさせてください。滋賀県からの続報も念を押すよう」
「はい。報道各社向けの発表草案はどういたしますか?」
「内容は未定のまま。現時点では“発表の予定なし”を繰り返すしかない」
そう答えながら、村岡は無意識に、壁際の時計を見上げた。
――十七時まで、あと四十分。
今日一日で、彼が交わした命令と指示の数は百を下らない。
だが、確かに“前進した”といえる案件は、いくつあるか。
課室の扉がまた一度、静かに叩かれた。
「……村岡さん、読売新聞の使いがまた来ています。直接の面会を求めています」
「下の控え室に通して。返答は――」
言いかけたところで、廊下の奥から別の職員が駆けてきた。
「失礼します! 大臣官邸からの急電、入電しました!」
村岡は素早く身を翻し、差し出された電報用紙を受け取った。
赤鉛筆で引かれた文面が目に飛び込む。
『宮内省、侍従長より再通報あり。陛下、依然ご憂慮深し。対ロ方針、夜半までに素案を。
大臣判断:外務・宮内・内務 合同の非公式協議を要す』
「……外務との再調整が必要だな」
村岡は独り言のように言った。
山根が不安そうに尋ねる。
「政務課で、協議の実務を担うのは――?」
「我々だ。いや……実際には、我々しかいない」
すでに、どの省も動きは鈍りつつある。外務も、宮内も。
今この時間帯に、連絡線を維持しているのは、内務の政務課だけだった。
村岡は小さく息を吐き、声を落として言った。
「火はまだ小さい。だが、風向きが変われば、すぐにでも――地図が焦げる」
職員たちの間に、一瞬だけ静寂が走る。
「君たち、それぞれの持ち場に戻ってくれ。情報を遅らせるな。誰よりも早く動き、そして――」
そこで言葉を切り、村岡は眼鏡を外して一度、目元を押さえた。
「……誰よりも、冷静であってくれ」
課内の空気が、一度張りつめて、静かに動き出した。
村岡は机に戻り、手元の時計を見つめる。
針は、五時の直前を指していた。
(続く)
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