外務の机上にて

明治二十四年 五月十二日 午前九時三十分 外務省庁舎・政務室


広く静かな部屋だった。

内務省の政務課とは異なり、ここには記録簿の山も、出入りする使いの騒がしさもない。

冷静さ――というより、重苦しい沈黙が、室内に張りついていた。


「……昨夜、第一報は大使館側に送った。すでにロシア側ではペテルブルクへの電報準備も進められている。返答は、今日中には届かんかもしれんが――」


外務次官・石井菊次郎が、硬い口調で言った。


「それでも我々は、いまこの段階で“日本政府の見解”を示さねばならない。これは外交上の“事故”ではない。事実上の、体面崩壊だ」


「異存ありません」


村岡は立ったまま、手にした書類を机の上へ差し出した。


「こちら、今朝八時時点の内務省・警視庁からの動きです。津田巡査の逮捕後の動静、滋賀県庁の調書、宮内省との非公式連絡を含めております」


石井は無言で受け取り、ざっと目を通すと深く息を吐いた。


「……死刑を求める声が出始めているな。議会筋か?」


「議員個人の談話ですが、すでに数社が非公式にそれを報じています。新聞各社も、各々の論調で扱いを検討している様子。事実確認に関しては、依然として我々の一元管理を要請しております」


「だが、このまま封じ続けるには限界がある。ロシアが抗議の正式文書を寄越せば、それに対する“見解”は遅くとも明日には必要になる」


村岡は一拍置いてから言った。


「津田をどう裁くか。そこが焦点になります」


「……裁けるのか?」


石井の声は低かった。


「お前たちの部内で起きた事件だ。いや、“お前たちの部下”が起こした事態だ。世界から見ればそれだけの話だ。そこへ“日本の司法制度”など、どこまで通じるか」


「制度の正統性は、政府が提示するしかありません」


村岡はそう言って頭を下げた。


「その責を、我々が逃げることはできない。たとえ――相手がロシアであっても」


外務室内に、短い沈黙が落ちた。


「この件で、ロシアがどの程度“怒っているか”――それを測る術は、まだない。我々に届いているのは、まだ形式的な抗議だけだ」


石井が言う。だがその表情には、既に充分すぎるほどの“圧”が読み取れた。


「陛下は、見舞の使者をたびたび出されていると聞いている」


「はい、侍従職を通じて京都へ。医師団との接触も試みておられます。病状は安定と聞きましたが……詳しい診断は、ロシア側が一切明かしておりません」


「見舞も、謝罪も、礼儀を尽くすだけ尽くした。しかし……」


石井は村岡を見た。


「それでも、なお“足りぬ”という国が、あの帝政ロシアだ。警官が刃を振るった――というだけで、我が国の制度全体を疑う者たちだ。彼らは“個人の暴走”など信じない。“政治の意図”があったと見る」


「意図など……あるはずがありません」


「だがあると思わせた時点で、外交は負けなんだよ、村岡」


石井の語気は少し強くなった。だが、それは怒りではなかった。焦りとも違う、もっと静かな、皮膚の奥に染み込むような重さだった。


「お前たち内務は、“津田三蔵は一警吏にすぎない”と言う。それは正しい。だがその一警吏が、この国の未来を潰しかけた。……その現実は、正論では覆せない」


村岡は口を結んだまま、わずかに顎を引いて頷いた。


「石井次官。内務としても、この事案を司法に乗せる覚悟です。仮に、国際問題となったとしても、“明治の法”がいかに機能するか――その一点でこそ、国の体面を保つしかない」


「覚悟は買う。だが、その“明治の法”が、あの国に通じると思うなよ。やつらは“血をもって贖え”と言うかもしれん」


「……すでに、議員の中にも“死刑で応えよ”という者がいます」


「ならば、一層法の原理で進めよ。内務が、いや日本が――帝政ロシアとどう違うか、それを見せねばならん」


その時、扉がノックされ、秘書官が顔を覗かせた。


「失礼します。駐日ロシア公使館より、第一報の返電が届きました」


二人の視線が同時に動いた。


「文面を」


村岡が言うと、秘書官が差し出した電報文を石井が受け取った。数秒、眼を走らせた後、その表情がわずかに硬くなった。


「……ペテルブルク、外務省の反応は静観。だが、“日本政府の意向と処置を注視する”とある」


「正式抗議には至っていない……ということですか」


「今のところは、な」


だが、石井は電報を机に置き、静かに言った。


「“今のところ”というのが、外交の恐ろしさだ。向こうの新聞が火をつけたら? 皇太子の負傷写真でも流布されたら? あるいは……、あの父帝・アレクサンドル三世の感情が一夜にして爆ぜたら?」


石井は声を潜めるように言った。


「それで戦争になる……そういうことも、あり得る時代なんだ、村岡」


しん、とした空気の中で、村岡は小さくうなずいた。


「我々のするべきは、静かに、速やかに、正しく事を運ぶこと。感情を煽らず、主権を失わず」


「……内務と外務は、連携を緩めぬように。大臣同士には、私からも連絡を」


石井が立ち上がり、書類を整えた。村岡もそれに倣い、手を後ろで組む。


「死刑を求める声は、もっと大きくなるでしょう」


「それでも、正しく裁け。日本という国の、名誉のためにだ」


村岡は深く頭を下げた。


政務室を出る時、朝の日差しが廊下の窓から差していた。だがその光は、眩しくも暖かくもなかった。ただ、白く、どこか冷たいものに感じられた。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る